元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」 その5~「スターリンとジューコフ元帥の反乱」
岸良造 ( 65 香川 技術者 )
1993年に元ソ連外交官が語った「ロシアーユダヤ闘争史」その5
■■ユダヤから離れて暗殺されたスターリン
スターリンは
ユダヤ人のやり方に反発するようになった。
スターリンの妻はカガノビッチの妹であり、その前のスターリンの2番目の妻も同じくユダヤ人だった。
それにもかかわらず、スターリンはユダヤ人に対抗していった。
戦争の勝利で自らのイメージが上がったこともあり、ユダヤの横暴なやり方に我慢できなくなって、
反ユダヤの態度をとりはじめたのであった。
1949年から亡くなる1953年までの間、スターリンは実際にそうした行動をとり続けていった。
スターリンの身辺には常にベリヤがいた。
ベリヤは国家保安省のリーダーであり、
スターリンと同じくグルジア人だったが、ユダヤとのハーフであった。
ベリヤは終始
スターリンの見張りを怠らず、スターリンの行動をすべてカガノビッチに報告していた。
そのため、スターリンはベリヤに隠れて密かに反ユダヤの陰謀を画策していった。
1952年、「医者事件」が起こった。
「医者事件」とは、1948年、ユダヤ人の医者たちが多くのロシア人の新生児、それも男児を
毒殺した事件である。
そのときに殺された男児の数はかなりの数に上った。
とくに大都会のレニングラード、モスクワ、キエフなどで多くの男児が殺された。
なぜユダヤ人たちはこのような暴挙をやるのか、このまま多くの男児が殺されるならば、いったいどのようなことになるのか──。
スターリンは1952年、この事件に関係した
医者をすべて逮捕し、ユダヤ人自身がつくった収容所に送って、その半数を殺したのであった。
スターリンはさらに大きな反ユダヤのプランをもっていた。
シベリアの極東地方にビロビジャンというユダヤ人の自治州があったが、彼は大都会からすべてのユダヤ人を集めて、シベリアのビロビジャンに送ろうとしたのである。
が、それが実行に移される前に、彼はベリヤによって暗殺された。1953年3月のことであった。
■■ソ連の全権を握ったカガノビッチ
ユダヤ人は強大な力をもっている。
彼らは世界的な規模で力をもっており、ユダヤ民族が不利な状態になったときには一致して攻撃に出ることができる。
スターリンは強力な独裁者といわれたが、その実は彼らに操られた
ロボットであり、自ら独裁者ぶりを発揮したとたんにユダヤによって暗殺されたのである。
スターリンが亡くなって後、ベリヤはカガノビッチの真の右腕になった。
この2人はスターリンが暗殺されてから130日間、実質的にロシアを支配していた。
この間、彼らは何をやろうとしていたのだろうか。それは、
ソ連の分裂への策謀であった。
ベリヤが逮捕されて後に、こうした計画のあったことが発覚している。
今から40年前の1953年、カガノビッチは当時のソ連の全権を掌握した。
このとき、
ロシアは本当のユダヤ国家になってしまったのである。
ロシアのユダヤ人とアメリカのユダヤ人たちはこうした事態を大いに喜んだ。
なぜならば、ロシアのユダヤ人もアメリカのユダヤ人も、いずれもアシュケナジー・ユダヤ人という同胞であり、すっきりと手を組むことができるからだった。
ユダヤ人たちはソ連とアメリカという2つのユダヤ国家が力を合わせれば、全世界を支配できると考えた。当時の誰がこのような陰謀を阻止できただろうか。
■■ユダヤ権力を壊滅させたジューコフ元帥
しかし
奇跡が起こった。
第二次世界大戦におけるファシズムとの戦争で勝利をもたらしたジューコフ元帥が、1953年にユダヤとの戦いでも勝利を収めたのである。
1953年6月26日、モスクワ郊外でジューコフ元帥は陸上演習を行っていた。
この演習の途中で、ジューコフ元帥は突然、自ら戦車部隊二個師団を率いてモスクワ市内に入り、国家保安省本部に向かって進撃を始めたのである。
国家保安省はこの動きをまったく感知していなかった。そのため、ジューコフはあっという間に国家保安省本部の占拠に成功することができたのであった。
ジューコフ元帥はまず
ベリヤを逮捕した。
そしてその次にカガノビッチらを逮捕した。これはまったく異例の事態であった。
ロシア人の民族性からすると、こうした過激な反発行動に出ることはあり得ないことであった。
しかしジューコフは、誰にも相談せずに、自らの判断で直ちに戦車部隊二個師団を動かし、モスクワに入って国家保安省本部を乗っ取ったのである。
そのときから
ロシアは新政府となり、ユダヤ人は国家保安省や軍隊の司令部を含めて、あらゆる組織から追放された。
少なくとも1960年まで、ほとんどの政府機関からユダヤ人が一掃されたのである。
ようやく、
ロシアをロシア人が指導するところとなった。
一時的にではあったものの、明らかにロシア人の勝利であった。
このとき1953年から、1985年にゴルバチョフが書記長となり、翌年にペレストロイカ(改革)が始まるまでの間、ロシア国内にハザール国家は存在することがなかったのである。
ユダヤ人たちはそのままロシアに住んではいたが、もはやユダヤ人たちが「国家内国家」をつくるようなことはなかった。
ブレジネフの時代はロシア人にとって歴史上非常に安定した時代であったといえる。
ユダヤ人たちはこの時代を「停滞」時代という。革命が起きていなかったので、彼らにとっては「停滞」と呼ぶにふさわしい時代なのである。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=332993
☆ もしロシアに帝政が続いており 皇帝がユダヤの傀儡であったなら 国民は 目覚めることはあっただろうかと 考える。
ロイヤルへの 教祖のような執着は 簡単に 国民を 奴隷にする材料になると感じる。
日本は 150年間ソ連なのだと 過去のこととして話す日は あるのだろうか?