スパシーバ  プーチン

魅力あるプーチン
偽ユダヤによって捏造されたプーチン像と歴史をくずす

「闇の正体は偽ユダヤ」海外記事の移行。 

コメントを下さったかたに

2017-11-22 14:32:10 | ソ連目線


日本兵の遺骨収集のことでのきじでしたね。


これらに関しては 言いたいことが山ほどあり ・・・


遺骨収集に限らず 日本人は 日本の国体を 180度 捏造して教わっています。



すべては 明治維新につながることで それに関して 発信している人は 数人だけ それだけ この国の権力は 恐ろしいということと 認識しています。


遺骨収集と それらを取り巻く出来事など 「闇の正体は偽ユダヤ」に 嫌われるくらい書いたのですが、これからは この 「スパシーバプーチン」にも なるべく 下の欄に書いていくようにします。


興味があるものは 御覧くださいね。



また 「闇の正体は偽ユダヤ」が 更新されていないと連絡がありましたが 毎日更新しております。


なにか あったのでしょうか 。


明治維新のことは 一番 狙われる記事発信と思います けれど 私の記事は 「弱小」なので (笑)、無事であると思っています (笑)


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日本人兵士の御霊はロシア人によって慰霊されるvsヒロヒト

2017-11-21 16:07:53 | ソ連目線


☆ くどいようだが 日本政府は 遺骨収集の懇願も無視した

そして スターリンに 兵士と領土を差し出したのは 日本である。 密使は瀬島隆三。

あえて 「神軍」と 国民に教え込んでいった これが 実態である。


今も 福島で実験をしている。

いったい なにものが どういう意向で 日本を支配しているかを しるべきだ。

なぜなら 「神軍」と教え込んで 他国を悪魔化することは 国策なのだから。











11.15 「最後の兵士が埋葬されるまで戦争は続く」



サハリンとクリルでは日本兵の遺骨捜索活動が続けられている


サハリン及びクリル諸島のシュムシュ島(占守島)でロシアの捜索隊が発見した日本兵18人の遺骨が、日本の厚生労働省の代表者らに引き渡された。



遺骨引渡式は11月15日にサハリン中部スミルヌィフ町で行われた。



社会団体「ロシア捜索運動」サハリン支部の責任者アルチョーム・バンドゥーラ氏が、通信社スプートニクのインタビューでその詳細について語った-



「日本兵3人の遺骨は、日本代表団が到着したサハリンのスミルヌィホフスキー地区で今年夏に見つかった。

私たちの捜索グループは2016年と2017年に同じく私たちがシュムシュで発見した日本兵15人の遺骨も引き渡す。

昨年シュムシュでの活動中に私たちは日本兵12人の遺骨を見つけた。そのほとんどは戦車兵だったと思われる。

彼らは破壊された日本の戦車の近くで発見され、戦車兵の軍装品も見つかった。


1人の遺骨の近くでは記章と、『フクダ』という名前の判子が見つかった。これは珍しいことで、これをもとに身元を特定し、親族を見つけられるかもしれないため非常に重要な品だ。


私たちは今年さらに別の判子1本と記章2個、硬貨の入った財布も見つけた。


重要な小さな品物や故人の私物を見逃さないために、土の塊すべてが手でふるいにかけられる。


これは楽な活動ではないが、日本側への遺骨引渡はこれまでにも行われている。



私たちはクリルとサハリンで2014年から捜索活動を行っている。私たち全ロシア捜索運動サハリン支部のメンバーは30人で、年齢も職業も様々だ。


全員が同時に捜索活動に出発できるわけではないため、通常は休暇中や休日に小グループで出かける。だが出発する前にアーカイブ資料を綿密に調べ、捜索エリアを狭めるためにどこで軍事行動があったのかを明らかにする。」



シュムシュ島には第二次世界大戦が始まるまでに日本の強力な要塞地区がつくられ、その周辺で短期間ではあったものの激しい戦闘が繰り広げられた。



このシュムシュ島で1945年8月、第二次世界大戦に終止符が打たれた。


バンドゥーラ氏はスプートニクのインタビューで、捜索隊の主な目的について次のように語った-



「文書では、サハリン及びクリルで戦士したすべてのソ連兵は埋葬されたとされている。しかし実際はそうではない。

最後の兵士が埋葬されるまで戦争は続く。

我々の時代だけでもシュムシュ島でソ連兵110人と日本兵35人の遺体が見つかった。ソ連兵の遺骨はセヴェロ・クリリスクにある軍事記念墓地に埋葬され、日本兵の遺骨は日本領事館に引き渡されている。」



11月18日、遺骨はスミルヌィホフスキー地区のオルロフカ川の岸辺で火葬され、代表団が埋葬のため遺骨を持って21日に日本へ出発する。


兵士の遺骨を日本側へ引き渡す活動は、政府間協定に基づいて1991年から行われている。これまでに大日本帝国軍の兵士470人以上の遺骨が見つかった。





◎ だから裕仁は終戦を引き伸ばした!@honest_kuroki:

大日本帝国が1940年に世界で初めて核兵器を爆発させた証拠


http://www.nishina-mf.or.jp/nkz_series/NKZ_52.pdf

http://www.cnic.jp/knowledge/2608

https://twitter.com/GeorgeBowWow/status/866822468089987072





◎ 【原爆は日本が開発していた】

なぜ裕仁が終戦を引き伸ばしたのか

なぜその日広島に陸軍第二総軍全員が集められていたのか

なぜ仁科が開発した原爆がアメリカが落としたことになっているのか

原爆爆発は〝至高なる人からのお頼み〟それは誰なのか


https://twitter.com/GeorgeBowWow/status/866994082765185024




☆ ヒロヒトが 日本人を使って原爆実験をしていなかったら これほど 天皇家が イルミでの 絶対的な権力はなかったでしょう。

原爆特許は 米 と 英国 ロス茶にとっての利権でもあるからです。


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10月革命   日本の10月革命

2017-11-08 15:32:13 | ソ連目線


■■ユダヤ人が担ったロシア10月革命



ストルイピンが暗殺されると、ユダヤ人たちはもう一つの革命の準備に入った。1917年11月6日の「10月革命」である。



この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。


いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。



10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた。



そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった。


アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった ユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。ロシアのユダヤ人革命家たちに多額の援助を与えた。



それにしても、ロシア革命はなにゆえにひと握りのユダヤ人指導者の下に、容易に推し進めることができたのだろうか。

ロシア人は黙って見ていただけなのだろうか。当時の革命政府には、ロシア人はほとんど参加していなかったのである。レーニン自身がその事実を述べている。



10月革命が起きてのち、ロシア人は新政権の成立にはほとんど関わることをしなかった。ロシア人としては、このような反民族的なシステムには入りたくなかったのである。


レーニンは、政府の官僚として誰を起用するかをじっくりと考える必要はなかった。

当時は戦争中だったので、西側からユダヤ人が続々とロシアの中央に移って来た。ソ連の新政権にユダヤ人は約150人参加した。

そして、政府のトップ・クラスの人々はすべてユダヤ人であった。政権内部のロシア人は2~5%ときわめて少なかったのである。



レーニンの祖母はユダヤ人だった。レーニン自身がユダヤ人とのハーフだったのである。




ロシア10月革命後の新政権では、そのメンバーのうち99%をユダヤ人が占めていた。


しかし、アメリカとドイツからロシアにやって来たユダヤ人たちは、革命家、あるいは共産主義者であり、ほとんどがユダヤ教を信仰していたわけではなかった。



その頃のユダヤ運動には2つの流れがあった。1つは共産主義である。共産主義者、革命家たちはユダヤ教を信奉しない。


もう1つはシオニズムである。シオニズムとは、ユダヤ教徒が自分たちの宗教本部であるエルサレム(シオン)を中心として、自分たちこそ世界を支配しなければならないとする思想である。そのような人々をシオニストという。




10月革命後、ユダヤ人たちはこの2つの流れでともにロシアを支配していたのである。


やがてそうしたユダヤ人の中に摩擦が生じるようになった。


1920~1930年代、アメリカやドイツからやって来た共産主義者のユダヤ人たちと、ロシアにいた150万人のユダヤ教徒との間に、激烈な闘争が巻き起こったのである。


革命家たちはユダヤ教を信仰していないため、ユダヤ教徒たちは共産主義者を批判し共産主義者と闘うようになった。


レーニンやトロツキーたちとともに来た人々は、この戦いでほとんど消えてしまった。


革命政府の中心にあった者たちは、ほとんど殺されてしまったのである。こうして第二次世界大戦勃発以前に、このユダヤ人の間の闘いには決着がついたのであった。






日本の10月革命










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ハザールユダヤと戦ったロシア史 ④

2017-09-17 14:00:47 | ソ連目線


■■■第4章:ロシア文化を徹底的に破壊したハザール系ユダヤ人

■■革命はロシアの頭脳を流出させロシアの文化・宗教を破壊した

ロシアの「頭」はこうして切り落とされた。では彼らの次の目標は何か。その次に彼らは何をしなければならなかったのだろうか。

ロシアの伝統、習慣、歴史と、それを存続させている貴族を殺すこと、それが彼らの次の課題であった。が、ロシアの貴族はそのとき、幸か不幸かほとんどが国外に亡命していた。少なくとも300万人の貴族がアメリカやヨーロッパなどに脱出したが、彼らはいわばロシアの頭脳ともいえる人々だった。要するに、革命によってロシアの頭脳が全て国外に流出してしまったのである。

アメリカには世界でも有数の技術を発見した学者たちが多くいる。あまり知られていないことだが、それらの学者たちの中にはロシア人が最も多いのである。少なくとも彼らロシア人が20%を占めている。

たとえばヘリコプターの発明者のシコルスキー、ノーベル賞をもらった経済学者ワシリー・レオンツェフ、また作曲家のラフマニノフなど、挙げていけばきりがないほどだ。ロシアの頭脳はほとんどアメリカに行ってしまったのであった。アメリカは革命によってロシアの頭脳を獲得したのである。

優秀な実業家、デミドフ、ストロガノフ、エリセエフなども外国に行ってしまった。ロシアはユダヤのために優秀な実業家たちをすべて失ってしまった。ロシア人の「頭」の代わりにユダヤ人の「頭」が、ロシアの体、すなわちロシア人の国家の上に乗せられたのである。

さらにロシアの古い伝統、習慣、文化をもっているのは誰か。農民である。彼らは個人の農地をもっていた地主であった。しかしユダヤ人は革命を推し進めるためには、農業システムを破壊しなければならないとして、各地にコルホーズ(集団農場)やソホーズ(国営農場)をつくっていった。その結果、ロシアの農業システムがすべて破壊されたのである。

こうして、文化人も、優秀な実業家も、伝統的な農民もロシアからいなくなった。全部ユダヤ人のやったことである。またロシア正教もほとんど壊滅の状態にまで弾圧された。ロシア正教はロシア人にとって最も神聖な宗教である。少なくとも1000年の歴史をもっており、ロシア人に大きな精神的影響を与え続けてきた。しかし革命後、ユダヤ人はロシア正教会の90%を破壊してしまったのである。

共産主義にとって“宗教はアヘン”だった。アルメニア教会の寺院も数多く破壊された。しかし、シナゴーグ(ユダヤ教会)だけは無傷であった。


ロシアとユダヤ史


ニコライ2世は、強烈な反ユダヤ主義者であった。ユダヤ人を嫌い、ロシアの災難の元凶はユダヤ人にあると見ていた。ユダヤ人を蔑称で「ジディヤ(ユダ公)」と呼ぶほどに反ユダヤ主義政策を執った。

 1901年、セルジェス・ニールスによりロシア語版「シオンの議定書(プロトコール)」が世に出された。「ニールス版議定書」は、ユダヤが世界征服の陰謀をめぐらしていることを暴露し、最新版ユダヤ人の世界支配計画の史上初発表という史的地位を獲得している。明らかに帝政ロシアがこの出版を後押ししていた。

 1903年、過ぎ越しの祭りのとき、ベッサラビアきっての都市であるキシネブにおいて、ユダヤ人に対する暴動が起った。民衆は1500件にも及ぶユダヤ人の家や店を襲って略奪し、49名の死者、数百名の負傷者を出す惨事となった。同年夏、ゴメルという町でもポグロムが起こり、8名のユダヤ人が虐殺され、多数の負傷者が出た。

 1904.2月、日露戦争が起きた当時、ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れていた。ポグロムは、ロシア政権の奨励と黙認により押し進められていた。極東の地で、その帝政ロシアに日本が開戦する事態が勃発した。ユダヤ人資産家は、帝政ロシアから資本を引揚げ、ロシアに対する態度とは対照的に日本を援助し始めた。




☆ キリスト意識を殺すことが ハザールの目標 つまり 人間が人間らしくあっては困る。

古神道は なにもない ただ 岩とか木をあがめているような 最も 反知性という印象が 私にはありました。

けれど ただ手を合わせるということで 人は 自分の内側と対話していたのかもしれない。

なにか 本当の畏れを知る 人間らしさが あったのかもしれない。

嘘をついたら バチがあたるよ そんな感覚が あったのかもしれない。


「国家神道」は 神道をぶち壊すためにあったのかもしれない。 つまり 外側の 闇の権力をあがめて 個人が内面と対話することを遮断した。


つまり カルト手法ですね、教祖だけがすべて。

そうでもしなければ 天皇の必要性など ないわけです。


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ハザールユダヤと戦ったロシア史 ③

2017-09-16 16:04:58 | ソ連目線


■■■第3章:ハザール王室直系の子孫、カガノビッチの暗躍


■■スターリンを操ったモンスター、カガノビッチの正体



10月革命以降、特に1920~1930年代に、ユダヤ人はロシアで「国家内国家」をつくっていった。それはまさしく、8世紀~10世紀ごろに栄えたハザール王国の再現であった。



ロシアにはハザール王国の皇帝の子孫がいたのである。


スターリンは傀儡であり、ユダヤ人たちのロボットであった。スターリンは表向きの指導者であって、ユダヤ国家には陰の指導者がいたのである。その陰の指導者がすべての実権を握るほんとうの支配者であった。



それは誰か。 世上、スターリンの片腕といわれたユダヤ人、ラーザリ・カガノビッチである(カガノビッチはいかにもロシア的な姓のように「ビッチ」を付しているが、祖父の時代にはカガンと名乗っていた)。


カガン(可汗)とはハザール人たちの言葉で、ユダヤ教の宗教の指導者、皇帝などを意味している。




ハザール王国もハザール・カガン国と名乗っていた。カガノビッチの元の姓がカガンであるということは、彼がかつてのハザール王国皇帝の直系の子孫であることを示している。




ハザール王国は数世紀前に消滅したが、その皇帝の直系の子孫が生きていたのである。


スターリンは共産党書記長というポストについていたが、カガノビッチはただの書記にすぎなかった。


しかし、実際にはカガノビッチやカガノビッチの補佐官が、すべての政策を取り仕切っていた。スターリンはこのカガノビッチの政策の執行者にすぎなかった。



ハザール王国では宗教的権威をもつカガン(皇帝)のほかに、実際の政務を行なうビャク(執行者)があった。その意味でも、当時のソ連政府はまさしくハザール王国の再現であった。


一般に「スターリンの独裁」とよくいわれるが、事実はハザール人のハザール王国の指導者による独裁だったのである。この事実は決して触れられることがない。





■■ハザールの王・カガノビッチがロシアを支配した


カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家、すなわちユダヤ国家を指導していったのだろうか。


共産党によったのではない。共産党も表向きの形式にすぎなかった。


実際には裏の組織があった。それが国家保安省(後の国家保安委員会=KGB)である。


国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だった。トップだけではなく、中間層も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた。



国家保安省にはベリヤというきわめて危険な人物がいた。彼はユダヤ人(母親)とのハーフで、グルジアの北コーカサス出身のユダヤ人であった。


ベリヤはカガノビッチの従兄弟にあたる。


カガノビッチはベリヤ、すなわち国家保安省を通して、ロシア=ハザール国家を支配していったのであった。




またその頃、ユダヤ人は国家保安省の中に「収容所」という新しいシステムをつくった。


ソルジェニーツィンの著書『収容所群島』には、このシステムについて詳しく述べられている。


各収容所の所長は9割がユダヤ人だった。


収容所システムを初めに導入した人物は、フレンケルというユダヤ人の革命家である。収容所はロシア人の奴隷を収容するためにつくられた施設だった。



革命が成功すると、ユダヤ人たちはロシア人を完全に支配下におこうとした。


そのためにはロシアの「頭」を切り落とさなければならない。「頭」というのは日本でいえば天皇であるように、ロシアでいえばツアー、すなわち皇帝であった。



ユダヤ人はまず当時のツアー、ニコライ2世を家族もろとも全員暗殺した。


革命の翌1918年7月、ユダヤ人はウラル山脈のエカテリンブルグ(現在のスベルドロフスク)のある家の地下室で、ツアーとその家族をすべて銃殺に処した。




そして、その家の壁にサインを書き残したのである。それはヘブライ語で「皇帝は暗殺された、国家は破壊された」と書かれていた。私(イワノフ)はそのサインを自分の目ではっきりと見ている。



エリツィン大統領は当時、その町の第一書記だったが、このエリツィンの命令によって、ツアーが殺害された家は完全に破壊されてしまった。今はもう誰もこのサインを見ることはできない。家も壁も残されていないからである。



☆ ヘブライ語に 改めて ドキッとしました。


「君が代」が ヘブライ語 と されています。







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ロシア ハザールユダヤ 闘争史 ②

2017-09-15 16:18:13 | ソ連目線


■■■第2章:「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった


■■日露戦争を画策したハザール系ユダヤの狙い



1904年、日露戦争が勃発した。


日露戦争はユダヤ人の画策により、隣同士の2つの国が衝突することになった戦争である。


当時、イギリスのユダヤ人が挑発的な行動に出て、日本もロシアも知らないうちに戦争に巻き込まれていった、というのが実際のところである。


日本とロシアの歴史的な関係は、決してよい関係とはいえないかもしれない。が、そこにユダヤ人の画策があったことを考慮に入れなければならない。


そう主張するロシア人は少なくない。たとえば、ロシアで出ている『日露戦争におけるユダヤの役割』という本なども、そうしたユダヤ人の動きを論じたものだ。




日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命運動を展開した。


このスローガンによって、ユダヤ人の革命家たちは、ロシア政府の敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもしたのである。


日本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカの資本が投入された。アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・シフが、ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは知られている。



こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲ったが、1906年5月、ロシア政府はストルイピンを首相とする新政府を構成した。



このストルイピンという人物は、民族主義者・国家主義者であったため、強固な反ユダヤ的な政策をとって革命運動を鎮圧していった(そのためレーニンもジュネーブに亡命している)。


ストルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日のロシアの「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めていった。



しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相は暗殺されてしまった。ストルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていたときのことである。


彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党の党員で政府の警察のエージェントでもあった。


彼はストルイピンの席近くへやって来るや、ニコライ2世の面前で、ピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである。



ストルイピンが亡くなったことによって、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。


その頃、ロシアの資本主義経済はかなり強くなっていた。すでに、世界の資本主義諸国の中でも、決して引けをとることのない資本主義国家になっていた。


当時のロシアの経済成長率は11~15%で人々の生活水準も高かった。それは10月革命以前のことである。





■■ユダヤ人が担ったロシア10月革命


ストルイピンが暗殺されると、ユダヤ人たちはもう一つの革命の準備に入った。1917年11月6日の「10月革命」である。



この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。


いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。


10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた。



そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。


このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった。



アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった ユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。ロシアのユダヤ人革命家たちに多額の援助を与えた。




それにしても、ロシア革命はなにゆえにひと握りのユダヤ人指導者の下に、容易に推し進めることができたのだろうか。


ロシア人は黙って見ていただけなのだろうか。当時の革命政府には、ロシア人はほとんど参加していなかったのである。レーニン自身がその事実を述べている。




10月革命が起きてのち、ロシア人は新政権の成立にはほとんど関わることをしなかった。ロシア人としては、このような反民族的なシステムには入りたくなかったのである。


レーニンは、政府の官僚として誰を起用するかをじっくりと考える必要はなかった。当時は戦争中だったので、西側からユダヤ人が続々とロシアの中央に移って来た。


ソ連の新政権にユダヤ人は約150人参加した。そして、政府のトップ・クラスの人々はすべてユダヤ人であった。政権内部のロシア人は2~5%ときわめて少なかったのである。




レーニンの祖母はユダヤ人だった。レーニン自身がユダヤ人とのハーフだったのである。


ロシア10月革命後の新政権では、そのメンバーのうち99%をユダヤ人が占めていた。


しかし、アメリカとドイツからロシアにやって来たユダヤ人たちは、革命家、あるいは共産主義者であり、ほとんどがユダヤ教を信仰していたわけではなかった。




その頃のユダヤ運動には2つの流れがあった。1つは共産主義である。共産主義者、革命家たちはユダヤ教を信奉しない。


もう1つはシオニズムである。シオニズムとは、ユダヤ教徒が自分たちの宗教本部であるエルサレム(シオン)を中心として、自分たちこそ世界を支配しなければならないとする思想である。そのような人々をシオニストという。



10月革命後、ユダヤ人たちはこの2つの流れでともにロシアを支配していたのである。


やがてそうしたユダヤ人の中に摩擦が生じるようになった。


1920~1930年代、アメリカやドイツからやって来た共産主義者のユダヤ人たちと、ロシアにいた150万人のユダヤ教徒との間に、激烈な闘争が巻き起こったのである。


革命家たちはユダヤ教を信仰していないため、ユダヤ教徒たちは共産主義者を批判し共産主義者と闘うようになった。


レーニンやトロツキーたちとともに来た人々は、この戦いでほとんど消えてしまった。


革命政府の中心にあった者たちは、ほとんど殺されてしまったのである。こうして第二次世界大戦勃発以前に、このユダヤ人の間の闘いには決着がついたのであった。

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ハザールユダヤと戦ったロシア史①    再掲      

2017-09-14 14:17:03 | ソ連目線


「元ソ連外交官が語る ロシアーユダヤ闘争史」より抜粋


 ■■■第1章:ハザール王国 vs ロシア帝国


■8~9世紀、ロシア人はハザール王国と戦った



6世紀後半、中央アジアのヴォルガ川流域に強力な民族が台頭しはじめた。のちにハザール(カザール)王国を形成するハザール民族である。


一方、当時はロシアもまだ帝国としては存在していなかったが、ロシア人はすでにキエフなどに定着していた。



6世紀から8世紀にかけて、ハザール民族はカスピ海の北方に進出すると、ロシア人とたびたび衝突するようになった。

ハザール人はロシア人を支配下におき、奴隷にして、カスピ海の北にあるイティルというハザール人たちの首都に連れて行った。イティルでは当時、ロシア人の奴隷がいとも安価で売買されていたという。



「ハザール王国」は7世紀にハザール人によって カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家である。


9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない ユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。



8世紀になり、ビザンチン・キリスト教とイスラムの圧迫を受けたハザール民族は、王から奴隷にいたるまで国を挙げてユダヤ教に改宗し、ハザールはユダヤ国家になった。


そして彼らは自らをユダヤ人と名乗るようになったのである。

現在、世界のユダヤ人の大半を占めるアシュケナジー・ユダヤ人は、このハザール人の子孫である。




8世紀から9世紀にかけて、ロシア人とハザール王国は数回にわたって戦争をしたが、965年、ついにロシア人がハザール王国を占領した。


そして、首都イティルをほとんど壊滅させてしまった。それ以来、ハザール国家は再びかつてのような強国となることはなかった。



13世紀に入ると、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させた。

ユダヤ教徒ハザール人、すなわちアシュケナジー・ユダヤ人たちはロシアが近かったので、その多くがロシア領内に逃げ込んだ。


ロシアのユダヤ教徒ハザール人たちは、すでに12世紀に、ロシア国家の中でロシアに対する陰謀を画策するようになっていた。そして1174年、彼らはロシアの最も有名な皇帝、アンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を暗殺したのである。



当時のロシアは多くの国々の集合体だったので、それぞれの国の皇帝が集まり会議が行なわれた。その結果、彼らはロシアにいるユダヤ教徒ハザール人を弾圧することに決定した。そして、多数のユダヤ教徒ハザール人が殺されることになったのである。





■■ポーランドへ移ったハザール系ユダヤ人


ヨーロッパの歴史を振り返ると18世紀の末、1772年から3回にわたって、ポーランド分割が行なわれている。


ポーランドは3つに分けられ、当時の強国であったロシア帝国はポーランド領の一部を自らの領土内に組み込んだ。ところがそのポーランドに、ハザール系ユダヤ人たちが「国家内国家」を形成していたのである。



大規模なユダヤ・コミュニティは、15世紀まではスペインの中にあった。


もっとも、このスペインにいたユダヤ人は、そのほとんどすべてが聖書でいう本当のユダヤ人、すなわちスファラディ・ユダヤ人であった。


1492年、スペイン政府がスファラディ・ユダヤ人を国外に追放したことによって、スペインの中のユダヤ国家は消滅した。スペインを追われたスファラディ・ユダヤ人たちは主に、北アフリカ、オランダ、イギリスなどへ渡って行った。


一方、ロシアから追放されたユダヤ教徒ハザール人たちは、そのほとんどがポーランドに移っていた。そのため、15世紀にはユダヤ教徒ハザール人たちの政府はポーランドの中に設けられていたといってもよい。


15世紀の終わりから16世紀にかけて、ポーランドのユダヤ人たちはポーランド人よりも強大な力をもつようになっていた。

彼らは実際、ポーランドの国内に自分たちの政府、自分たちの国会、自分たちの教会などをつくっていた。


一般のポーランド人たちはもちろんのこと、ポーランド政府でさえも、そうしたユダヤ人たちの「国家内国家」に対しては、一切手をつけることができない状態にあった。





■■ポーランド分割でロシアへ入ったハザール系ユダヤ人


ロシアは18世紀の終わりに、こうしたユダヤ人の「国家内国家」が存在するポーランドの領土の一部を自国の領土としたのであった。


領土を得たのはよかったが、領土とともにユダヤ人の政府をも取り込んでしまったのである。このときにロシアは、きわめて危険な毒を飲み込むことになってしまった。



こうして、18世紀からロシア国家の内部には、再びユダヤ問題が生じるようになったのである。



ロシアのユダヤ人問題は昔も今も、最も難しい民族問題である。


それは、ロシアにとってのユダヤ問題が、10世紀以来のロシア対ハザールの確執を含んでいるからである。


ロシアが抱え込んだユダヤ人は、スファラデイ・ユダヤ人ではなく、アシュケナジー・ユダヤ人であり、彼らはユダヤ人ではないにもかかわらずユダヤ人と称する人々である。つまり彼らがユダヤ教徒ハザール人であるところに、この民族問題の複雑さがある。




その当時、ロシアに入ったハザール系ユダヤ人は300万人ぐらいであった。そのほとんどがロシアの西側、すなわちウクライナ、西白ロシア、あるいは旧ポーランド領に住んでいた者たちである。



それでも、ユダヤ問題は18世紀には、まだそれほど大きな問題ではなかった。


19世紀の終わり頃から、ロシアのユダヤ人たちは熱心に革命運動に参加するようになった。革命運動を指導していた政党、社会民主党や社会革命党などのリーダーおよび活動家たちは、ほとんどすべてがハザール系ユダヤ人であった。



古来からロシア人は戦闘的、革命的な要素をもたない民族であった。


一方、ユダヤ教徒ハザール人にとってロシアは敵国であり、ロシア文化は敵国の文化であった。したがって、彼らはロシア国家に対しては常に戦闘的、革命的であった。



ユダヤ教徒ハザール人たちは、古い過去の歴史をすぐに引き合いに出す。


現在の歴史と古い歴史を同じように並べたて、3500年前の「出エジプト」(エジプトで奴隷となっていた古代ユダヤ人がモーセに率いられてエジプトから脱出した)の事跡などを持ち出してくる。



ユダヤ人は過去の歴史の中に生きているといってもよいだろう。だからこそ、ユダヤ教徒ハザール人は、かつてロシア人がハザール王国を崩壊させたことをよく覚えている。


そのためユダヤ人の中には、常にロシアに対する復讐の思いがある。ロシアで革命を起こし、国家を転覆させることは、ユダヤ教徒ハザール人にとって最も重要な課題であった。



当時のロシアの知識人の中には、すでにそうしたユダヤ教徒ハザール人の動きをキャッチしていた人々がいた。


たとえばロシアの作家、ドストエフスキーの著作を読むと、彼は繰り返し「ユダヤ人は革命を起こすだろう、ユダヤ人はロシアの中に入った毒であり、悪魔だ」と強調している。ドストエフスキーは「必ずユダヤ革命が起きる」と断言していた。



しかしロシア政府は、そうした動きをまったく感知していなかった。そして、ほとんどのロシアの知識人たちは、ユダヤ人と戦わずにユダヤ人と一緒になって革命を準備したのだった。

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ソ連女性    画像

2017-07-10 15:45:27 | ソ連目線





































https://jp.sputniknews.com/photo/201707023825473/








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連合国 vs  ソ連   プーチンメッセージ 

2017-05-10 17:44:24 | ソ連目線



72年前の9月2日 日本降伏  一部の連合国はソ連と戦争を開始 



中国は9月3日に「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」を祝う記念式典を開催する。


1945年9月2日に政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦、ミズーリ号で降伏文書に調印、つまり日本の敗北が正式に決まった翌日を戦勝記念日としているわけで、「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれている声明の朗読が放送された8月15日を「終戦記念日」とか「終戦の日」と呼ぶ日本よりは理にかなっている。



本ブログでは何度も書いていることだが、1945年9月3日の時点でアメリカやイギリスの一部支配層はソ連との戦争を始めていた。


この年の4月12日にフランクリン・ルーズベルト米大統領が執務中に急死、ホワイトハウスではニューディール派の力が急速に弱まってウォール街が実権を握ったことが大きいだろう。




5月7日にドイツ国防軍作戦部長だったアルフレート・ヨードル大将が降伏文書に調印すると、ウィンストン・チャーチル英首相は合同作戦本部(JPS)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出されている。


この作戦によると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団はソ連を奇襲攻撃、「第3次世界大戦」を始めることになっていた。これは参謀本部の反対で実行されていない。




中国ではコミュニストの紅軍と国民党軍が日本軍と戦っていたが、1944年9月の段階でソ連はコミュニストを支援しないと語っていた。


1945年4月の段階でもヨシフ・スターリンらは蒋介石に好意を寄せていることを隠していない。


その年の8月に結ばれた中ソ友好同盟条約に付属した覚書で、ソ連は精神的な支持と軍事的な援助を「中国の中央政府たる国民政府」に対してのみに与えると約束している。コミュニストに近かったのはルーズベルトだったが、そのルーズベルトは4月に急死している。




第2次世界大戦が終わって間もない時点における国民党軍と紅軍の兵力を比較すると、前者が430万人だったのに対し、後者は120万人強にすぎない。


しかもアメリカは国民党軍に対して20億ドルの援助をするだけでなく、軍事顧問団も派遣していた。装備は国民党軍が最新装備だったのに対し、紅軍は日本軍から奪った旧式のもの。圧倒的に国民党軍が優勢だ。



ところが、1947年の夏になると、農民の支持を背景として人民解放軍(1947年3月に紅軍から改称)が勢力を拡大、兵力は国民党軍365万人に対して人民解放軍は280万人になっていた。


1948年後半になると人民解放軍が国民党軍を圧倒、49年1月には解放軍が北京へ無血入城し、10月には中華人民共和国が成立する。




この間、アメリカは破壊工作部隊のOPCが上海などを拠点にして活動していたが、人民解放軍が北京入りする前に拠点を日本へ移動させている。


その中心がアメリカ海軍の厚木基地だった。


ちなみに、1949年に日本では国鉄を舞台にした「怪事件」が起こり、左翼陣営に決定的なダメージを与えている。その事件とは、7月5日に発生した下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件だ。




1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発するが、その年の春先からアメリカは朝鮮半島で挑発作戦を実行していたと元特務機関員で戦後はCIAのエージェントだった中島辰次郎が証言している。




また、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というもので、「開戦」の2日前から韓国空軍は北側を空爆、地上軍は海州を占領している。


1950年10月にOPCはCIAの内部に潜り込み、翌年4月にはアレン・ダレスがCIA入りしている。


そのダレスは1953年2月にCIA長官となった。

ダレスがCIA入りした1951年4月、CIAの顧問団は約2000名の国民党軍を率いて中国領内へ侵攻を試み、翌年8月にも再度、軍事侵攻、この時は国境から約100キロメートルの地点まで進んでいる。その後、アメリカはベトナム戦争を始めるわけだが、朝鮮戦争もベトナム戦争も本当の敵は中国だったと考えるべきだろう。



アメリカ軍の内部にも好戦派はいて、1948年に「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、その翌年に出された統合参謀本部の研究報告ではソ連の70都市へ133発の原爆を落とす(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)ことになっていた。




テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、こうしたグループは1957年初頭、ソ連に対する先制核攻撃計画をスタートさせ、1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定するつもりだった。


そのころ、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。ソ連は中距離ミサイルで対抗するしかなく、そのためにアメリカとソ連はキューバに目をつけた。


こうした計画を阻止したジョン・F・ケネディ大統領は好戦派が開戦を予定していた1963年の後半、11月22日にテキサス州ダラスで暗殺される。



勿論、今、アメリカがロシアや中国と戦争を始めたなら「大変なこと」になるが、だからといって、そうした戦争が起こらないことは意味しない。


局地戦しか起こらないと考えるのは「希望的観測」だ。例えば、2006年にキール・リーバーとダリル・プレスは、ロシアと中国の長距離核兵器をアメリカの先制第1撃で破壊できるとする論文をフォーリン・アフェアーズ誌(CFR/外交問題評議会が発行)に書いている。



https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201508270000/








◎ 5.9


戦勝記念パレードで演説したプーチン大統領は、第2次世界大戦が防げなかったのは、世界の主要国の不統一と、犯罪的イデオロギーの容認のためだったとして、次のように述べた。


]
「我々には、勝利が膨大でかけがえのない犠牲を代償にして得られたこと、戦争が無数の命を奪っていったことを覚えておく義務がある。


この化け物じみた悲劇を阻止できなかったのは何よりも、犯罪的な人種的優越主義と、世界の主要国の不統一によるものだ。」



ロシアの全家族では子孫の平和な未来のために戦った祖父母を覚えており、今日、感謝を表している。


しかし5月9日はロシアだけにとってのきっかけなのではなく、全世界にとって、過去の誤ちを繰り返さずに、地球の平和を全力で護ろうとする大切さを思い出すきっかけでもあるのだ。



「不滅の連隊」活動「不滅の連隊」活動「不滅の連隊」活動戦勝記念パレード



https://jp.sputniknews.com/russia/201705093619104/




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72年前の ロシア人の犠牲

2017-05-09 20:22:29 | ソ連目線


多くの人々は、第二次世界大戦でのソビエト軍の大規模な犠牲を知らない。

twitter.com/IntheNow_tweet/status/861574598801883136


忘れてはいけない。 語り継がなければいけない。
ゲオルギーリボンを胸に。


www.youtube.com/watch?v=SwjT9vbniSY&nohtml5=False









ロシアへの侵略は6世紀から続き、大祖国戦争ではあまりにも多大な犠牲を出しながら、ファシスト侵略者を打ち破って祖国を守り抜いた。 


今現在もなお続く、欧米による侵略工作。 大祖国戦争を忘れない限り、ロシアはファシストから祖国を守り抜く。





☆ 日本人も多くの犠牲を出した。


どうか ヒロヒトは 英国陸軍元帥 つまり 連合国サイド所属であり けれど 連合国と戦ったふりをしていたのだ ということを 知ってほしいと思う。


敵は 造られた ロシア でも 中国でもないのですよ。


もし 大日本帝国が 敵と戦っていたのなら 東京と 皇居が 真っ先に標的になり 終わっていたでしょう。


けれど 大日本帝国の指導者たちは みな 健在であり 東京裁判での 死亡とされたものたちも 生きていたともいわれています。


731部隊も 守られて 保護されて 今も 活躍しているのですよ。



大日本帝国の指導者の係累が 今 日本という国を 支配しているのです。


それでは 本当の歴史を知らされるはずもなく いつも いつも 仮想敵だけを 知らされるのです。



「汝の敵を知れ」



自分の国の中に 「異邦人」がいることを直視する。



もう だまされない  そして  本当の友を 知っていく。





 
5.9 プーチン大統領 無名戦士の墓に献花


献花式には、大祖国戦争の退役軍人、メドヴェージェフ首相、ショイグ国防相、その他の政府関係者が出席した。










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