本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

文法が思想になる

2024-04-10 20:25:33 | 十地経

先日、インドの人の話を

聞いていたのですが、

よくしゃべる

私たちはまあ簡単な言葉の

羅列のようですが

一人のしゃべる文章が長い

ように思うのです

 

そういえば、

お釈迦さまも臨終に臨んで

阿難に仰る言葉が実に

丁寧に長く話される

なくなる前の人の言葉とは

思えないほど長いのです

 

お釈迦さまの当時は

サンスクリットという言葉

梵語と訳されますが

聖なる言葉という意味です

しかし、話された言葉は

マガダ語の訛った言葉だと

いわれています

このサンスクリットも

今ではインドでは話す人は

いないようで、

もはや死語になっています

 

インドの言葉はとても複雑

というか厳密な言葉です

名詞も8格に変化します

 

たとえば

経文の最初の言葉

「如是我聞」

普通には

「私はこのように

 聞きました」

と訳すのですが

正確には

「私は」という主格では

なく、

具格(ぐかく)という

インストルメンタルです

音楽では楽器だけの演奏を

インストルメンタルと

いいます

 

面白いことがあって

小学生の孫娘が

英語の会話の中で

積極的に話す訳でもない

のですが、

こうしようかと言ってるよ

というのです

自分はこう聞いた

というのでなく、

「こういってるよと」

こういうことが

具格ということではないか

と思うのです

 

「如是我聞」の「我」

というのは阿難のことです

阿難は「私はこう聞いた」

とは言っていないのです

 

お釈迦さまが涅槃に入られ

その後お弟子達が集まって

お釈迦さまの言葉を

どのように残そうかと

それぞれが聞いたことを

話し合うのです

このことを結集ケツジュウと

言います

 

ところが

それぞれの弟子は

断片的には聞いている

のですが肝心なところが

はっきりしないのです

その時

阿難は未だ悟りを

開いていないということで

この結集から外されます

 

阿難はあまりにも

お釈迦様の身近にいたため

さとることができなかった

といわれています

 

ところが

結集の折どうしても

正確な所が分からない

それで、阿難に聞こうと

いうことになったのです

その時の言葉が

「如是我聞」ニョゼガモン

です

このときの「我」は

阿難尊者です

 

しかし、

阿難は「私は」とは

おっしゃらない

主格ではなく

具格インストルメンタルで

「このように言っておられ

 ましたよ」

というように

非常に謙虚な立場で答えて

おられます

決して自分を主張して

おられない

 

「私が」「私は」と

自分を立てない

ここに、如是我聞が

光ってくるのです

それで他のお弟子達も

「なるほどなるほど

それに違いない」

と賛同される

その言葉がお経では

「善哉、善哉」と

よかな、よいかなと

全員が承認された

その文句が

お経の最後の言葉です

 

ただ言葉の文法が

文法だけに終わらずに

そこに大きな思想に

なってくるように思います

 

最近、私たちの言葉も

短い言葉、心地好い言葉

そういう短いフレーズの

言葉になってきています

そこには思想の乱れも

でてくるようです。

 

複雑で難しく思うのですが

経典の言葉には

そういう厳密な正確さを

表す意味があるのです。

経典を読む大切さは

考え方を緻密にするという

何ごとも丁寧に考え抜く

ということもあるようです

 

 

 

 

 

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