本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

さわり

2017-12-03 19:58:41 | 十地経

『十地経』のなかでも

さわりという「障」ということは

大きな問題として出て来ます。

 

熊本にいるとき、

「おたずね」として

「何かさわっていませんか?」

ということがよくありました。

水神さんがさわっているのでしょう

とか、

方角が悪かった、とか

鬼門が汚れてはいませんかと

ということだったのですが、

非科学的な!とか

いわれるかもしれませんが

一面には、

人間としての当り前の正しい

ことがおろそかになっている

ということもあります。

 

しかし、

仏教ではとても大きな問題で

さわり「障り」ということは

辞書には

涅槃のさとりを障害する煩悩

というようにあります。

そして、

二障、三障、四障ととても詳しく

わけています。

一概に障りといっても

さとりをうることを妨げている煩悩

ということですから

煩悩の数だけ障りがあるのでしょう。

 

さとりという世界は

「一即一切」ですから

段階ということはなかろうと

さとりなのになぜ

「十地」という段階があるのか

初歓喜地から始まって

十番目の法雲地までというように

なぜ十の段階があるのか

という疑問が起こってきますが

 

何もしない時は

別にさわりとか問題とかは

ないのです。

何かをやりだすと

途端に問題が出て来ます。

やりだすとそこに知恵が芽生え

自分の欠点が見えてきます。

何も問題がないということは

何もしていないことです。

 

だから、『十地経』という

お経は実践的なお経ともいえます。

一つ一つ修行を積んでいくと

一つ一つ難関が見えてくる

それを超えていくというのが

『十地経』という経典です。

智慧を得てもその智慧の中に

障りが見えてくる

それを対治していくという

智慧が身につくということは

そこには必ず障りがあるのです。

その障りを止揚するというか

アウフヘーベンという表現でも

いえますが、

障りを嫌ってもいけないし

障りを喜んでもいけない

 

私達も、

さとりたいとかいいますが

案外、迷いが楽しいものです。

でなければ、

週刊誌が賑わうこともないでしょう

ですから、

本当のことを見抜くより

この世界でわけもなく迷っていたい

という一面も持っているようです。

しかし、

奥底では本当のことが知りたい

という欲求も持っています。

 

まあ、面白いのは

皮と肉と心にわけた煩悩の障り

ということもでていました。

皮というのは外の世界に接している

ということで、目に見えたり

聞いたりというような喩として

肉というのは身体の内側にある

ということで、

心を表し、理論に迷うという喩です

最後の心の煩悩障は

心の一番奥底にある迷いの根元

ということで

皮と肉と心と

三つの障りを喩えています。

 

障りが見つかるということは

それだけ自分自身が歩みを

続けているということでしょう

何の障りもないという人は

のんびり屋さんなのかもしれません

 

障りが見つかるということが大切で

でも、迷いが楽しいということも

困るのですが、

障りを恐れず、失敗を恐れず

障りを生かしていくというような

そういう道が説いてあるのが

『十地経』ということのようです。

 

 

 

 

 

 

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