味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

身は父母の遺体なり。

2015-01-22 09:43:00 | ブログ
第2217号 27.01.22(木)
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身は父母の遺体なり。父母の遺体を行う、敢えて敬せざらんや。『礼記』
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 われわれのからだは父母の遺された体である。その遺体をもって行動する者としては、どうして自分のからだを敬わないでおられようか。281(曾子のことば)
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 【コメント】現代の日本人には理解し難い論理ではないでしょうか。元気があり、健康であり、飛び跳ねている者には理解できないし、理解しようともしないと思います。
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 今朝のテレビ報道で、雪山のコース外を勝手気ままに滑る人が増えて、取り締まる警察署では、手を焼いているということです。注意されても注意されてもいう事を聞かないのだそうです。
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 こういった人々が、万一大事故を起した場合、その時初めて目が覚めるのです。片腕、片足、両足切断しなければならなくなった時にはもう遅いのです。人間が自由気ままに生きることは大変大事なのですが、そこには、厳しいルールが必要だと思います。
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 尤も思想で締め付ける体制ではよくないと思います。私たちが幼少の頃は近所のおじさん、おにいさんのいう事はよく聞くものでした。そういった地域ぐるみで面倒をみてあげることはいいことだと思うのですが、如何でしょう。
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『大学味講』(第55回) 
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 〇とすると、「我づくり」という言葉はあなた方がつくった言葉ですか。
 ”さあ、それはわかりません。しかし、この言葉を使うことになったのは、決して一時の思いつき程度のものだけでないことは確かです。それにはもちろん、池田首相の「国づくり」「人づくり」政策に刺激されて、曰く「村づくり」曰く「町づくり」曰く「家づくり」曰く「職場づくり」曰く「環境づくり」等々ということが盛んにいわれ、そしてその実際を見ると、「規則づくり」であり、「予算づくり」であり、「設備づくり」であり、「物づくり」であるのを見て、こういう外的のものだけでなく、もっと一人一人の内面的の「我づくり」が行われなければならぬことを痛感したのがその一つであります。しかしその根底に、私どもの教養の基礎として、以上のような東洋学的なものがあったからだと思います”

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『論語』(第155)
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 子曰はく、憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。一隅を挙ぐるに、三遇を以てせずんば、則ち復せず。
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 孔子がいうには、教えを受けんとする者で、自ら心に求め、疑問の解決に向かって情熱が燃え上がるようにならなければ、これを教えてやろうとはしない。言うべき内容も出来て、言いたくても、上手く言えなくて、口をモグモグさせる程度にまで進まないと導いてやらない。
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 たとえば、四角なものを教えるにしても、一隅を持ち上げてみせると、他の三つの隅を自分から類推して反応を示すようでなければ、重ねて教えることはしない。相手の成熟さをまつほかはないのである。

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『農士道』(第39回)
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   第二節  文質関係より見たる諸相 
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 私どもが或る事に従ってそれにいそしむに当たって、其の事の使命が重ければ重いほど、大なればなるほど、それほど其の事に對して高き感激と強き努力とを伴ふものである。農の事も亦然りで、農が今日の世相より見て果して何れほどの重き使命を有するか、はた歴史的に見て何れほどの大なる使命を有するかといふことを深く自覚するに至れば、之に對する感激も、矜持も、発憤も、亦自ら異って来るものである。
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 かかる意味に於て、本節に於ては、前述の陰陽文質の四範疇より現下社会の世相を観察批判して、之に對する「農」の使命の如何に重大なるかといふことを明かにしたいと思ふ。然しそれは要するに「農」の使命の重きを知る所以の為なので、徒に社会批判に興ずる為ではないから、成るべく冗説を避けて、要点のみを略述することとする。

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