我が街・堺から、玉造までトコトコトコトコ・・・歩いてきたさ。
目指すは真田丸。昨日書いたのは、大坂城への抜け穴があったという三光神社。
何度も書いてるけど、日本史って興味が無かった私なれど、あるきっかけがあって、
徐々に、粛々と、日本史に浸り初め、今じゃどっぽり嵌ってる。
ここに来るもの2回目なのだ。日本史を分かってない頃に来たので、もう一度。
心眼寺。えっらい天気が良かったんです、この日。4月だし油断してたわ、日傘が欲しい。
そんな日に坂道・・・って、三光神社から近い筈なのに、かなり迷いまくって来たからヨレヨレよ。
心眼寺は、安土桃山時代後期の文禄年間(1593~1596年)に白牟和尚が創建したのだけど、
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の後に一旦取り壊されてしまった模様。
その後、1622年、真田幸村とその息子の大助の冥福を祈るため、真田家の先祖の海野氏の助力により、
大坂冬の陣の出城跡に再建されたのだ。
そしてここには、真田幸村のお墓だってあるやん。初訪時の日本史知らないもん時代には、
幸村さんって大阪の子だと思い込んでたからね、お墓が有って然りとも。
ほんとにこの下に埋まってるのかしら・・・・。真田の庄は長野県なのだもの。
豊臣の姓を下賜されていた、真田左衛門佐(さえもんのすけ)信繁。
秀吉が凄~~ぉっく可愛がってたよな~って言うのは、今更、最近になって一気に観た
大河ドラマの『真田丸』の中でのお話なのだけど、これを見たら、ほんとに仲良しだったのかも。
話を戻そう。
ここは、大坂冬の陣の折、真田幸村がここぞとこの場所に拵えた出城後。
六文銭のマークが縦に並ぶと、麻雀牌に見えてしまうんだけど、どうしてかしら?
それは大坂冬の陣、徳川vs豊臣の天下分け目の大戦。
大坂城の南側が弱い。頭の良い軍師とも言えないでもない、真田さん、そこに出城を築く。
それが真田丸。その真田丸がこの辺りに有ったと。この辺りから、現学校のグランド辺り。
その明星学園のグランド外に、真田丸顕彰碑なるものが有るので、この辺り。
だけそ、そこには今は大阪城は見えないわ。お城でさえ、今と位置は変わっている模様。
真田丸出城跡については、この下の写真を参照!だって、書く時間がないもん。てへ。
さ、心眼寺に戻って・・・。その大坂の陣から何百年??
幕末の京都の治安を守っていた、京都見廻組っていうのがあって、庶民階級から成っていた新選組と違って
旗本出身者で構成されてたらしいが、そこの2人の墓所もあるのだ。どういう間柄?
渡辺吉太郎と、桂早之助。このお二人なのだけど、
真相は定かでは無いけど、坂本龍馬を殺害したかもしれない容疑者の中に名を連ねているらしい。
そうなの?斎藤一かと思ってたけど。誰なのでしょうね。
江戸幕府、最初と最後の方達の墓所が、同じ所に有るって、不思議な縁でございました。
それでは皆様、安らかに。
真田山 心眼寺
大阪市天王寺区餌差町2-22
TEL 06-6764-0630