老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

夜と霧の隅で 北 杜夫

2006-07-29 09:54:35 | 文学
戦後精神病院文学シリーズの3冊目。
戦争中のドイツを舞台にした、精神病患者と、精神科の医師の話。

解説で埴谷雄高(!)が書いているが、北杜夫という人は、自分が行ったこともない国を舞台にして、ずいぶんたくさん小説を書いている。
ここでも、ケルセンブロック教授とか、ヴァルター・フォン・ハラス医師とか、(何か北杜夫的ユーモアが隠されているのかもしれないが、、)それらしい名前の人物が登場してきて、その中で、日本から研究のために留学しながら、自分自身が精神病患者となっていく、ドクター・タカシマという人物が、物言わず、何かを訴えていく、というような、一見、タカラヅカ風、金髪お目目キラキラ小説の感がなくもない。

遠藤周作の「海と毒薬」が九州の薄暗く汚らしい病院を舞台に、日本軍のアメリカ兵捕虜の生体解剖をめぐって、人間の異常性を描いているのに対し、こちらはやはり、同じような設定ではあるが、治る見込みのない患者に、電気ショックを実験的に普通の10倍くらいかけたり、脳に薬がよくまわるようにと、頚動脈に太っとい注射を何本も刺したり、ありえねーって感じで、リアリティーに欠けるなんてモンじゃない。
何しろ白衣ひるがえして、食事にしても握り飯じゃなくパンとシチューだし。

だから、ドイツを舞台にして何を書きたかったのか、というか、何を薄めて、何を象徴したかったのか、これで芥川賞までとったとなると、その頃のニッポン社会の一部の空気の薄さのようなものまで想像しないわけにはいかなくなる。

戦争が終わった後の喪失感の中で、アレは実際にはなかったことにしようというような、そういう雰囲気が世の中の一隅にたちこめていたのか、親子の代が変わっても、そういう空気を抱きしめ続けている人たちがいて、ソレが首相にまでなろうというくらいだから、それは一部ではなくて、まだ、大部分が病気が治っていないと考えるべきなのか。

それはそれとして、精神病院文学のおもしろさは、どちらがキチガイで、どちらがまともかを考えさせてくれることかもしれない。

海辺の光景 安岡章太郎

2006-07-28 23:06:41 | 文学
福岡、名古屋への長期ロードから帰ってきた。
どちらもカンカン照りで、カンペキに梅雨明け。
博多ではワタシにとっての夏の音である、クマゼミの大合唱を聞くことができた。

で、博多~名古屋は最終の新幹線で、ゆっくり読書。最近、個人的な興味から読み始めている、戦後復興期の精神病院を舞台にした作品として、コレを読んだ。
「野火」もその系統だったのだが。

ウミベノコウケイではなく、かいへんの光景。この辺から戦後文学である。

話としては、戦後の貧困にあえぐ一家の中で、母親が発狂し、その母親を海辺の精神病院に入院させた息子が、1年経って、母の死の直前に病院に戻り、9日間、看病をしながら、イロイロと考えるというもの。

息子にとっての母親の死がテーマで、1年間、ほったらかしにしておいたことに対する9日間の看病が、母親に対する償いなのか、
そもそも、
「息子はその母親の子どもであるというだけですでに充分償っているのではないだろうか」
というあたりが、この作品の非常に深いトコロである。
思わず我が身を振り返らざるを得ない。

ところでまあ、このような「精神病院文学」を読んでいると、ジブンの狂気が、まだまだツボミにも満たない幼いものに思えてくる。まだまだダイジョブかあ、という感じ。
この暑さと、アメリカとニッポンの倒錯した政治に発狂しそうな人にはお薦めである。
逆に誘い水にならないとも言い切れないが。

MY ARCHITECT ナサニエル・カーン監督作品

2006-07-24 21:33:31 | 映画
明日からまた出張なので、何か書きたい気分。
とはいえ、カイシャの奴隷の身としては、映画を見るチャンスなんて2ヶ月に1度くらい。
だから半年前に見た映画のことを書いても、許されるだろうし、ムダでもないだろう。
それだって、おとといの晩御飯のおかずを思い出すのと同じくらい、物忘れ防止の役には立つだろうから。

さて、この映画、1月から渋谷の小さな映画館で、それも朝か夜か、1日1回の上映だけで細々と続いてきたかと思ったら、今や全国行脚。
私が見たのは3月の終わりだっただろうか、有給休暇の残りを1日でも使おうと、ムナシイ努力をしていた時期、春休みの学生さんにまじって、朝から渋谷のホテル街の入口にある映画館で見てきたのであります。

話は簡単で、ルイス・カーンさんという、今は亡き世界的建築家の息子さんである、ナサニエル・カーン監督が、自分の父親の作品を訪ね歩いて、父の偉大さに気付くというもの。最後にはホロリとさせられる場面もあるが、一般ウケするものではないと思った。

客観的に分析すると、こんな映画をわざわざ見に行くのは次の3種類の人間ではないかと想像できる。
 ①ケンチクカ、または建築学科の学生、または建築愛好家
 ②インド、バングラデシュなどの南アジア愛好家
 ③腹違いの兄弟の悲しい人生の物語愛好家

ワタシはもちろん②であるが、③と思われるオバサマのグループも確かにいた。世の中イロイロである。
ただ、基本的な映画の趣旨は③なんだろうと思う。
ルイス・カーンは奥さんを3度くらい換えていて、その3人とも最後まで嫌いになったわけじゃあなくて、家庭を顧みず、結局は仕事、というか、建築に生涯をささげてしまった人で、その3人の奥さんの間に生まれた子(監督本人も含めて)が映画に登場してきて、父親の設計した個人住宅の中で、父について語り合うというシーンが、この映画のもっとも深い部分だったと思ったので。

私たち家族は愛されなかった、と。

ただそれが最後のシーンで、カーンの最後の傑作となった、バングラデシュ国会議事堂の中で、監督である息子が、そのプロジェクトを手伝った現地の建築家のひとに、あなたのお父さんは、こんなにバングラデシュの人々を愛して、こんなに素晴らしい建築を残してくれた、本当に愛にあふれた人だった、と言われて、やっと、本当の父親の姿を見つけ出したと感じるのである。

だからこれは、そこいらの建築愛好家が、あっ、アレはインド経営大学だ、とか、アレはイェール大学だ、とか、アレは三位一体教会だ、とかいって喜ぶ映画じゃない。メロドラマなのだ。

ということで、近所に来たときは、ぜひ見ていただきたいと思いました。

第76回アカデミー賞、長編ドキュメンタリー部門賞ノミネート作品。

野火 大岡昇平

2006-07-22 16:22:51 | 文学
先日NHKをつけていたら「この人に会いたい」という短い番組があって、大岡さんの、50代の頃と、亡くなる2,3年前のインタビューを流していて、その話の底にあるものにブレがないことに驚いた。

一貫しているのは、戦争中から戦後の時代までの、それを裏で操っている軍人や、政治家や役人に対して、今度は黙っていないぞ、という姿勢である。
戦争中、軍隊としての絶対的な命令系統の下で、言われた通りにしていたらあのザマで、もともと戦略も何もなかったってことが、後からポロポロ明らかになってくる。それに対する怒りを死ぬまでもち続けた人だということだ。

カイシャで無能な経営者にだまされ続けている人たちは、同じように考えるべきなんだろうが、ニッポン社会ではこういう根に持つタイプの人間は嫌われる。
だから、昭和天皇が何か不快感を表そうが何しようが、ジミン党アベ政権は中年女の歓声に包まれて誕生するのだ。


まあそれはそれとして、これからの核時代の戦争はこういうもんじゃないだろうとは思いながら、フィリピンのジャングルにゆっくりと立ち上る野火の煙と、一緒に逃げる兵隊同士でお互いに相手を喰いたいと思うような感情とのアンバランスさが、戦争をリアルに感じさせてくれる作品である。

他国軍に守られながら道路工事や井戸掘りをしてきた自衛隊の方々が、無事、帰国したことは喜ばしいが、空港で家族と抱き合う光景などをテレビで流してはほしくなかった。
それが何か大きな現実を隠蔽するからである。

素粒子 オスカー・レーラー監督作品

2006-07-22 08:13:07 | 映画
いきなり、始めます。
奴隷のようなサラリーマン的生活から逃げ出すために。


おとといは日帰りで朝から名古屋市郊外で仕事。
駅まで走って5分、3時15分の電車に乗るために、クライアントを前に3時に席を立った。計算通り、5分間引き止められて、3分で支度してオフィスを出た。
6時からのこの映画を見るため。

ドイツ映画際2006のトリを飾るこの作品は、フランスの人気作家、ミシェル・ウェルベックの原作小説の映画化。といっても、かなりストーリーはいぢられていたが。
映画の最初に監督の挨拶があって、終わってからは質疑応答まであって、そういう意味ではなかなかよかった。

とはいえ、絶望的に暗く人格破壊的な小説の雰囲気を、そのまま映画にするのは難しかったらしく、監督自身、質疑応答の中で、映画と文学は表現するものが異なり、結末には、やや希望の光を与えたかったと述べていた。

テーマは現代社会における人間の孤独、としてしまってはあまりにありふれているが、その孤独を癒すための、開放的なsex(要するに太陽に下で誰とでもやっちゃう)とか、精神病院とかが、映画の中では、監督の表現を借りれば、社会の進歩を補うために作り出されたものとして、肯定的に表現されている。

タバコが体に悪いと思いながら納税意欲のためにタバコがやめられない、みたいな、淫行したのがばれたら、社会から抹殺されるとわかっていながら、やめられない、みたいな、悪いと思いながら進んでいくしかない今の世の中を、現代社会の病理、なんて古舘サン的に安っぽくまとめないで、それさえも、人間の進歩によって達し得た場所であるという、この監督の言い方には、共感できるものがあったと思う。

主演のモーリッツ・ブライブトロイ(難しい名前!)は、この作品で今年のベルリン映画祭主演男優賞を獲った。
彼が精神病院に入る前に教えていた高校で、慕われていたsexyな女生徒と二人きりになったときに、思わずズボンのチャック下ろしちゃって、軽蔑の眼差しで出て行かれたときの、どうしようもない後悔の表情が、スバらしかった。