老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『サンパウロ市民』

2011-11-19 21:59:50 | 演劇


先週末はニッポンにいたのにずいぶん前のことのように感じるにはコッチに戻って怒涛の忙しさだから。息つく暇もない。きょうも土曜出勤であしたはナンとか休む。なんかニッポン人同士のニンゲン関係もぎすぎすしてるし。ま、仕方ないと言えば仕方ない。
けさ、ベトナム人のように靴を脱いでシゴトをしてたら靴下の上から2ヶ所も蚊に刺された。コノ蚊はワタシの机の下にもう3週間くらい住んでいて、2,3匹いるのだが、毎日朝ご飯でワタシの血を吸いに来る。かわいいヤツらだったがけさ、ついにコロした。茶色い血がべっとり手のひらについた。でもかゆいとシゴトに集中できないからとりあえずコレでも書いておこう。

ソウル市民5部作の最後はなぜかサンパウロ市民。平田さんが何年か前にサンパウロに行ったとき、ニッポンからの移民のヒトと話をしていたら、開拓した農場のことを移民のヒト達がその開拓した人の名前をつけてだれだれ植民地って呼ぶのを聞いて、奇妙な驚きを感じたことからコノ芝居を書いたらしい。ま、進出と侵略はやっぱり同じということだ。
で、このサンパウロ市民は意図的にソウル市民の、特に第1話と第2話の話がそのままそっくりコピーされてつぎはぎされて作られている。もちろん意図するところがあってのことだがある意味手抜き。いい加減にしろよって言いたくなるギリギリのところか、あるいは金返せっていうヒトもいるだろうなと思わせるほどだった。

ニッポンが朝鮮や満洲でやっていることが地球の裏側にも伝わって、ただしより誇張され、より脚色されそれぞれに都合のいい物ガタリに変わっていく。一方でニッポンはブラジルでは敵国扱いで、ニッポン人学校は閉鎖され、オンナ子どもは次々にニッポンに戻っていく。
残されたヒト達はラジオから聞こえる微かなニッポン語を聞きながら、ここは遠いからなあ、みたいにして、コーヒー飲みながらドジン探検に行った時の話とかをしている。ドジンの原始的な生活を笑いながら、一方でニッポン人だけが徹底的にセカイの流れから取り残されて別の生き物のように生きている。

このあたりがこの演劇界今年最大のイベント、ソウル市民5部作一挙上演のキモなんだろうなー。当然こんなことあからさまには言わないが、原発とか膨大な借金とか少子化とかで国が滅びかけ始めているというのに、いまやニッポンはセカイの中でアニメとかゲームとかカラオケとか、そういうおまけ的なコトでしか知られなくなっていて、それはやっぱり島国っていうこともあるが、セカイのことに鈍感過ぎるからこうなっちゃったっていうコトなんじゃないかと。
TPPとかにしても田舎出の国会議員がジブンの選挙区のことしか考えられないという、そういうどうしようもない壁があるっていうコト。コクサイ化とか言っても結局は根回し根回しのセカイだしなー。。

というわけでおしまい。ニッポン滞在51時間中10時間は劇場の椅子に座っていて、11時間は電車かバスに乗っていたか飛行機を待っていたかで、13時間は眠っていて、10時間は食べたり風呂に入っていた。あとの7時間は何していたのか。
ムスコと話したのは5分くらい。眠るのは布団並べて一緒だったけど。

2011.11.13 吉祥寺シアター

『ソウル市民1939 恋愛二重奏』

2011-11-18 22:58:54 | 演劇


きのうは久しぶりに走った。6時10分前、もやが立ち込めて、バイクがヘッドライトをつけて歩道を突っ走ってくる。ガイジンだから文句も言えず、右へ左へステップ踏んで湖にたどり着く。気温20度、湿度100%。2キロくらい走っただけで汗びっしょり。そのあとは濡れたTシャツが冷たくて、家に帰って温かい風呂につかる。
いまのソウルとか上海とかでこうやって走っている単身フニン者はどれくらいいるんだろう。石とか投げられないのかなあ。ちなみにハノイでもわざと足を引っ掛けられそうになることはたまにある。進出と侵略の区別の無意味さに敏感なヒト達だ。

さてと、4作目はいよいよ戦争たけなわ、って言い方、いいのか悪いのかわからないが、篠崎家の周囲でも招集されたり志願したりでオトコたちが戦争に出ていく。ソレをおめでとうございます、と言って送り出すオンナたち。要するにそういう雰囲気。戦争なんかやめちまえなんて誰も言えない。ま、ニッポンって国はいまも似たようなもんだが。そういう時代のオトコとオンナの話。

朝鮮人の書生で国家公務員になったヒトは志願して出ていく。そのヒトは篠崎家の女中のオンナ、コレも変な言い方?、ま、そのオンナのことをひそかに思っていて、出征する前にソノことを告白したいと思っている。ソレを周囲の人間もわかっていてなんとかそういうふうにし向けようとして、結局最後の家族そろっての食事の前に二人で外に出る。誰かが武運長久を! みたいに言ったらワタシの前に座っていた、ワタシより年上の、ということは戦後すぐに生まれた世代のオバさんたちのグループがドッと笑った。ああ、ここはウケる場面なのかと。戦後焼け跡世代にはそういう戦争中の男女の機微のようなものが、時代の記憶として残っていたのかと感慨深く思った。少なくともワタシにはそういう感覚はなかったから。

恋愛二重奏っていうのはもう一組、ニッポン人の女学生に恋する朝鮮人の書生の話がそこに絡んでくるから。ソレはやっぱりキンダンの世界という感じで、まわりはアブナげに見ている。まあコッチでもカラオケのアオザイおジョーとかとできちゃったオトコの人を見ると、みんな半分以上はあ~あ、みたいな顔で見る。やっぱりそこには目に見えない大きな壁がある。
あとはヘンテコなドイツ人のオンナが出てきて、それはヒットらー親衛隊のニセモノなのかもしれないのだが、ココでもまた何がホンモノでナニがニセモノなのかわからないことで大騒ぎする。スパイなんじゃないかとか。ギシン暗鬼っていうんでしょうか、そういう空気が漂っていたということか。
それでニッポンはドイツにも背中を押されてアメリカとの泥沼の闘いに向かっていく。悪いトモダチと付き合ったのが悪かったのか、と思わせるような展開。

戦争という狂気の中でのオトコとオンナの恋を、泥沼の中のあぶくのように浮かび上がらせたかったんだろう。が、3作目で株屋と婚約していた長女が、その株屋が大恐慌で破産して、その後別のオトコと結婚したのに、その夫が戦争から帰ってきたあとでヒトが変わったようになっていて、もうかつての夫には戻らないだろうという不幸を、演技とばかりは言えない不幸を呼び込むような存在そのものとして出ずっぱりだったのがワタシには耐えられなかった。

2011.11.13 吉祥寺シアター

『ソウル市民 昭和望郷編』

2011-11-16 23:30:29 | 演劇


3日連続。早く書かないと忘れてしまう。
前日の2本は睡魔と闘いながら見た。なんせ朝7時に成田について家に行って朝ご飯食べて風呂に入ったらもう家を出なきゃいけない時間で、飛行機の中で30分、バスの中でも同じくらいウトウトしただけだったから眠いのも当然。ほぼカンテツ明けに芝居2本続けて見るなんて無謀すぎた。その結果、芝居の途中で3分おきに意識を失いそうになって10秒くらいの短い夢を断続的に見ながら、一方でナマの舞台を見ていたわけで、、印象が曖昧なのはそのせいもある。
で、コノ日は1時から3本。眠くはならなかったが。

これはまた第2話の10年後。大恐慌が起ころうとしている頃。篠崎文房具店の長男は精神病になって入院している。長女のムコさんが家に来た時に首を絞めようとしたのがきっかけらしい。そのムコさんは株取引で大儲けしていて、その勢いで篠崎文房具店の経営を変えようとしている。外から資金を集めて多角経営して、みたいなコト。家にはラジオがあって世界中の情報が入ってくる。
不景気の波は朝鮮にも少しずつやってくる。近所の印刷会社は店をたたんで満州に出ていこうとする。朝鮮から満州に行くのは相当な覚悟がいることだったようだ。

そこに長男が退院してくる。そのムコさんにとっては迷惑な話。ウマくすれば家を乗っ取れるところだったのに。
時代が変わって店で書生だった朝鮮人の若者が優秀な成績を取ってニッポンの国家公務員になっていたりする。ニッポンが朝鮮や満洲や台湾やモンゴルなどをそれぞれアメリカの州のようにして、ホンキで連邦国家を作ろうとしていたような。ソレを徹底的にワレワレニッポン人はいいことをしてるんだと、カレラのためになるコトをしているんだと、そういう倒錯した善意がコッカの狂気として描かれている。

そこに長男に付き添ってきた病院の看護婦が二人出てきて、どっちがホンモノでどっちがニセモノなのか、はたまた二人とも看護婦になりきった精神病患者なのか、みたいな話になって、狂った時代における狂気とは何か、みたいなコトがややあからさまに演じられる。
最後はラジオから遠い微かな音でニュースが伝えられて、、実際はソレは聞こえないのだが、大恐慌が始まって世の中が大きく動き始める予感を感じさせてオシマイ。
ドラマチックでおもしろくてわかりやすかった分、奇妙なもの足りなさが残った。

2011.11,13 吉祥寺シアター

『ソウル市民 1919』

2011-11-15 22:14:55 | 演劇


きのうの午後ハノイに戻ってオフィスに行ったらシゴトが全然進んでいなくてかなりアセッた。考えてみれば土曜ときのうの午前しか時間はたっていないのだからそんなもんかもしれない。そのかわりスタッフの一人、いちばん若くていちばん頼りになるオンナの子が土曜日にバイクで事故に遭って、けさ、片腕をだらーンとさせてヨロヨロしながら出てきた。あごのあたりも傷になってるし。そのケナゲさにオヂサン思わず泣きそうになった。ベトナム人もいろいろだ。
ま、そういうイマ的な、実際にはアノ頃とさして変わらない海外進出の現場にいながら、コノ芝居のことについて書いておく。

2本目のコレは1本目から10年後の、同じ篠崎文房具店が舞台。韓国併合が行われて10年後、日本国内で朝鮮人が独立宣言を発表したことから京城(今のソウル)で市民たちが口々に万歳、万歳とささやきながら歩き回るという、じつに平和的な三・一独立運動が広まっていく。平和的だからニッポン人は何が起きているのか理解できない。お祭りか、みたいな。相変わらず平和ボケが続いている。ニッポンからややインチキな相撲取りが興行に来たりもする。
家族は、朝鮮人もキョーイクすれば使えるようになるとか言いながら一見優雅な植民地的生活を続けている。現地人を使う海外進出企業と同じだ。ここはニッポンとは違うから、ニッポンの堅苦しいしきたりはやめましょう、みたいな感覚はすごくよくわかる。

第2話は、といっても連続ドラマではないので基本的にそれぞれ独立した話なのだが、第1話と違ってだんだん話が盛り上がっていって、朝鮮人の使用人たちが次々にその運動に参加するために家を出ていくのに、ニッポン人たちは外で何が起こっているのか気がつかない。ジブン達は朝鮮人のヒト達のために韓国併合をしたワケだし、朝鮮人のヒト達もソレを喜んでくれていると信じて疑わない。そういう、いまならそんな話、どっかであったと思わせるようなコトを、ニッポンの侵略という、いまでもソレを美化したいと思っているヒトがソコココにひそんでいるアブナイ話題をネタにして、客観的にそのおかしなコトを笑おうというオハナシ。
舞台の上では笑いがだんだん苛立ちとか不安に変わっていく。そのあたりがコノ芝居のキモ。

2011.11.12 吉祥寺シアター

『ソウル市民』

2011-11-14 23:23:04 | 演劇


週末にニッポンに行ってコレを見た。コノほかにあと4本。市民シリーズ5部作一挙見!! 
ハッキリ言って数年前までワタシは平田オリザというヒトが好きではなかった。TBSの土曜の夜のニュースショーに出てきて、日テレあがりの、スポーツは巨人しか興味がないというようなアナウンサーが司会で、平田さんはいつもニタニタしてアタリ障りのないことを言うだけのつまらぬインチキブンカ人に見えた。その後駒場東大前のアゴラ劇場に何回も行くようになって、平田さんがオーナー兼ゲイジツ監督兼プロデューサー兼宣伝係だということがわかって、ああいうテレビに出て劇場運営の資金を集めていたんだろうと思うようになって、リッパなヒトに見えてきた。その後イロイロ読んだら演劇の世界でケッコウ新しいコトをやってるんだということがわかって、しかも自転車で世界一周までしたと言うんだからかなり普通じゃないヒトだということもわかってきた。でも芝居を見たのは今回が初めて。

で、順番通り一番古いコレを最初に見たのだが、、エッ、みたいな終わり方。なんだったのコレ、みたいな。何か事件が起きたり、ニンゲン関係がもつれにもつれたり、はたまた最後には大盛り上がりでこっちも思わずコーフンしちゃったり、ってなコトは一切ない。
1909年の、ニッポンが侵略中の朝鮮の、今のソウルで文房具問屋みたいな商売をしている篠崎さんちの一家が、翌年のチョーセン併合とか、同じ年の伊藤博文暗殺とかが起きる前の、世の中が静かに動き始めようとしている中で、カレラにとって平和な時間が過ぎていくサマを淡々と描いている、そんな芝居。

コノ芝居はバブル真っ只中の1989年に書かれた。世界ではベルリンの壁が崩壊し、テンアン門事件が起きた頃。ニッポン人はそういうセカイの流れから遠く離れてバブルの中で遊びまくっていた。ソレと同じように篠崎さんちもチョーセンはいいねえ―、みたいにして、ムスコがチョーセン人の女中と駆け落ちしたりして、あいつはバカだねーみたいなコトを言って毎日が過ぎていく。

見終わった時は若干がっかりしたのはジジツ。でも、芝居っていうのは見終わってからジブンの中で発酵していく。意味が出てくるっていうか、意味がないと思って見ていたことの意味がわかってくるような、そんな感じで、この後連チャンで2本目を見たら、平田さんってヒトはやっぱタイシタもんだと思った。
空気みたいなものを舞台の上に作り出しているような。平和ボケしてマ抜けた感じとか、わけのわからない苛立ちとか、ナニが起きているのかわからないことの怖さとか、善意の顔をした悪とか。それをコトバだけで作ってしまうんだからやっぱタイシタもんで、侵略には相手にいいコトをしてあげているというキモチが欠かせないってコトもよくわかった。

2011.11.12 吉祥寺シアター

『荒野に立つ』/阿佐ヶ谷スパイダース

2011-07-28 20:31:45 | 演劇


2つ目はこの頃続けて見ている阿佐ヶ谷スパイダースの新作。よくぞココまで、といいたくなるほどのビジン女優大集合状態で、中村ゆりちゃんとか、初音映莉子ちゃんとか、黒木華ちゃんとか、安藤聖ちゃんとか、中村ゆりちゃんとか、、、、誰が一番好きかはわかると思うけど。タイトルの意味は都会での生活が人のココロの荒れ果てた荒野でのソレのようであり、その中でワレワレは多少の救い、というか、光のようなモノを見ながらイキテいる、みたいなこと、かな。実際はかなりムズカシイ作り方でよくはわからないのだが、全体としてはニンゲンの精神が一度崩壊して、ソコから緩やかに回復していく微かな兆候のようなモノを目の前で見せてくれた感じがして、ワタシも崩壊しかけているのでなんとなくチカラになったような気がした。

はなしは、ひとりのオンナがいて夫婦生活が破たんして実家に帰っているのかどうか、スーパーでアルバイトをしているがニンゲン関係がウマくいかずに、まわりからいつも叩かれる。それでココロを病んで高校生の頃のジブンのセカイに閉じこもっていく。ソノ頃、同級生がひとり死んでいて、ジサツしたのかどうかはよくわからないが、その死んだ友だちとの記憶の中でオンナはジブンも死ぬかどうか考える。ソレを時間の流れが逆戻りしたり、場所が突然、家の中から潮干狩りの海に移ったりしながらすすんでいく。
で、オンナは目玉をなくした、みたいなはなしになって、その目玉を探す探偵が出てきて、その目玉は当然ナニかの比喩なのだが、最後までなんなのかよくわからない。ちょっと恥ずかしい書き方をすれば、ジブンを見失う、みたいな意味だったのかもしれないけど、そんなあからさまな表現はない。
ソノ先はオンナが荒野をさまよって、ソレを父親と母親が、あんなところに娘を放り出してしまったのね、みたいに後悔する、というか、ソレは当然見えていないはずなのだが何もない荒野だからなんでも見える、みたいな場面がある。最後はオンナがジブンは死ぬのをやめることにしたのかどうか、その小さなきっかけのようなモノを見せるだけで終わってしまうのだが、まあ、それで十分よくわかった。

全体の中でとんでもない方向にはなしが展開する場面が何回もある。父親が娘を探しているときに突然、母さんが漬けた漬物、とか言って、タッパウエアから漬物をつまんで食べたりとか。ソレは夢の中のはなしのように見えて、あとでプログラムの中の長塚さんのインタビューを読んだら、夢を文章に書いている、みたいなことを言っていた。
で、ジツはワタシも夢をときどき紙に書いておくことがあって、たとえば、
「卵からかえったばかりの鳥、卵の形のまま青い。車にひかれそうなので手に取ろうとしたら取れない。取り上げたら猫になって走り回る(100621)」とか、
「オオサンショウウオがのっそりとこっちに向かってくる(110120)」とか。
あとで読むとどうみてもキチガイのセカイだ。ジブンの中の狂気が夜中に目を覚ますのか、誰もがこんななのかはよくわからないが、コノ芝居の中ではソレが普通のコトのように演じられる。

ベトナムじゃどうかわからないが、ニンゲンの狂気はいまの世の中では重要な演劇的テーマのひとつである。この前の長塚さんの芝居もそうだった。作家がナニも書けない―、みたいにして苦しむはなし。あとはセックすと暴力と死ぬコトと、ニンゲン関係の息苦しさみたいなこととか、あかるい無常感みたいなコトとか。そういう鬱陶しいテーマの中に、実際はないかもしれないカスかな希望みたいなものを、どうギリギリのところでホノめかすか、みたいなところが勝負なんじゃないかと。きのうの芝居みたいに、絶叫してジコ満足してればいい時代はとっくに過ぎ去ったんじゃないのかな。

2011.7.25 シアタートラムは入口前の喫煙所がやっと閉鎖された。

『血の婚礼』

2011-07-27 20:29:06 | 演劇


金曜の朝にニッポンに着いて、もうきのうまたコッチに戻って、こうして、喧騒と悪臭と、ウシのように自己主張をぶつけ合う日常の中にいる。忙しいようでのんびりしているのはムダな通勤時間とかがないため。7時にカイシャを出て、7時15分には家のソファに倒れ込んでいたりして。

今回ニッポンでは2つ芝居を見て、結果は1勝1敗。まずは1敗のほうから。
コレは金曜の夜に西巣鴨の、廃校になった小学校の体育館で見た芝居で、大袈裟な舞台セット、1時間以上雨が降り続けるという大げさな仕掛け、絶叫するばかりでナニ言ってんだかちっとも聞き取れない、外見がいいだけのダイコン役者たちの大げさな演技、ソレと既に時代遅れのニナガワさんの大げさな演出、作られた高揚感というか、みんな、盛り上がってるかーぃ、みたいな、、それでいて重要な中身は一体何だったのかと思わせるような空虚なはなしの展開。

でそのはなしは、、結婚式の日に花嫁を奪って逃げたオトコと、その花嫁=オンナが都会で既に別れて生活している。そこに田舎から逃げられた花婿の親兄弟が出てきて、決着をつけろ、みたいな感じでオトコとオンナに迫る。で、オトコと元花婿が雨の中でナイフと何かで刺し違えて両方死ぬ。だから血の婚礼。
路地がテーマ?なのかどうか知らないが、路地の下に路地が埋まっている、みたいなことを言いながら、太鼓をたたきながら通り過ぎる霊魂の行列のようなモノが繰り返しその路地を通り抜ける。意味わかんねー。
伊藤蘭ちゃんが重要な役で出ているがその姉がイモムシだか何かになって家の中で呻いている、とか言う設定で、重要なところのセリフがテープで流れる。あるいは、あるいは、みたいな、むかしのそういう時代もあったなあ、と思わせる、いま見れば古臭いとしか言いようがない、文語調のもったいぶったセリフの連続が白々しく体育館の寒々とした空間に響いた。

プログラムに何人かが書いていたが、体育館とは避難所であり、、みたいな話とか、何かの比喩として電車が通り抜ける場面(2度も)で、電車が来るぞーっていうセリフが、津波が来るぞー、とも聞こえるとか書いていて、だからナンなんだ、としか思わなかった。その電車のシーンにしても太鼓のシーンにしてもとにかくしつこい。同じことの繰り返しというのは、時間のずれみたいなものを感じさせる芝居の手法としてあるのだろうが、この前見たままごとの「わが星」のような効果は感じられなかった。
あと、ニナガワさんの営業方針なんだろうが、演技力のカケラもない有名俳優を客寄せとして連れてきて、とにかくひたすら絶叫させるというやり方、絶叫していればなんとなく感情があらわれているように見えるという見せ方、主役の、名前よく覚えてないが窪ナンとかさんは悲惨でしたね。本人は芝居に生きる場所を見つけた、みたいに書いているが明らかな勘違い。

たしかに20年前に芝の増上寺で平幹次郎の王女メディアを見てワタシはカンドーしてしまい、あといくつか同じようなのを見た記憶があるのだが、時代が変わったのか、ワタシが変わったのか、薄っぺらな見せモノにしか見えなかった。脚本そのものは今風に解釈すればもっとオモシロくなると思うんだが。

2011.7.22 西巣鴨、にしすがも創造舎。

『わが星』 ままごと

2011-05-01 01:00:33 | 演劇


ベトナムもきょうから4連休。ニッポンは何連休なんじゃィ?? で、ニッポンでジョギングシューズを買ってきたので連休初日は走ろうと思って、朝6時半に起きたが、アタマの後頭部の後ろのほうが頭痛で痛くて、今日はやめといた。それで昼前にプールに行ってときどき薄日が差す程度だったのでパラソルなしで1時間いたら、今や茹でダコ状態。ソレもそのはず、ハノイは北回帰線の南なんだから。ソノあとは散歩してカフェでビール飲んで、、初日は終り。ぜんぜん充実してないな。

はなしは元に戻って今回の芝居3連チャンの最終日は、相当前からかなり期待の高かったコレ。去年スイングバイを駒場アゴラで最終日にギリギリ滑り込みで見て、コンナのもあるんだぁ、みたいな驚きだったワケで、それでコレはその作者である柴サンの出世作、と言っていいのか、アノ岸田国士戯曲賞とったんだから出世作なんだろう、その再演。
宇宙の星の誕生と死、ソレとその宇宙の中の砂粒のひとつ程度に過ぎない地球の中のひとつの家族の中の誕生と死、それらを重ね合わせながらワレワレも、そしてコノ地球もいつか死ぬ時が必ず来ることを、、なんていうんだろ、ソレを何か訴えてるわけでもなく、幼稚園のお遊戯みたいな感じの踊りと歌、ラップとダンス、って言ったほうがいいのかもしれないが、芝居、ではなく、そういうパフォーマンスとして仕上げている。コレはハッキリ言って芝居じゃない。だからって別に悪いとか、文句言ってるわけじゃなく、古い芝居の概念を打ち壊しているのだ。ストーリーとかクライマックスとかそういうコトじゃなく、なんなんだろね、ばあさんや、みたいな。
見終わったあとの清々しさというか、ハッキリ言ってカンドーすらしたワケだが、その正体は、、音楽と照明の緻密な演出と、繰り返し繰り返しの手法みたいな、かなり技巧的なもののように思った。

このあと年末近くに「あゆみ」も再演される。ハッキリ言って楽しみ。
2011.4.24 三鷹市芸術文化センター星のホールにて、5/1まで。

『散歩する侵略者』byイキウメ

2011-04-29 00:47:59 | 演劇


ハノイは深夜に雷鳴が轟き大雨が降った。そして今日も一日曇りでときどきパラパラ。やれやれだ。ニッポンは明日から連休??? コッチからのメールや電話への対応に、メンドウなシゴトを今から押し付けないでくれ―――、みたいな気配が感じられる。小市民たちの精一杯の自己防御なのか。ちなみにコッチは30日がサイゴン解放記念日、5月1日はメイ・デーで祝日。その振替えで月、火まで4連休になる。そのあとは来年2月の旧正月まで連休はない。ワタシはガイジンだから夏休みとか正月とかに休むけど。

でもって、ニッポン滞在2日目は、前日の、ジブンの理解を超えた作品との出会いに、少なからずショックを受けたキモチを引きずりながら、地元横浜の新しいホールKAAT、って、いったいなんて読ませるんだろ、カーーッ、かな、、ま、どうでもいいけど、ソコへイキウメのコレを見に。ジツは原作、って言うか、小説化されたのを読んじゃってたの。。最後のオチ知ってたから、ちょっとスナオに盛り上がれなかった。
ただ、原作とか、戯曲とか、そういうのを読んだ上で芝居を見るときの楽しみ方みたいなものがわかったような気がする。ソレは言葉で書かれたものをいかにして実際の行動に移し替えているか、早いはなし、どんなふうに演出しているかを見る楽しみ。だから、前川さん、ウマいと思いマシた。

話は山陰かどっかの小さな町で。海の向こうのクニが攻めてくるというウワサに人びとは惑わされている。ソコに宇宙人と称する3人がやってきて、3人はそれぞれバラバラに町のヒトからジブンたちが持っていない概念を奪い取る。とられたヒトはその概念を失うからそのことについて理解できないようになる。たとえば家族とか、ジブンを他人と区別することとか、所有をめぐる争いとか。で、3人が集まってそれぞれが奪い取った概念を持ち寄って、もうコレくらいでいいかな、みたいなコトになって、あとひとつ、まだわからないモノがある、みたいなコトになる。ソレが最後の盛り上がる場面なのだが、ソレを知っていると盛り上がれない。だからココには書かないでおこう。

コレは結局はナニかの寓話であって、外国が攻め込んでくるというウワサの中で人びとが混乱して、ソコにつけ込んで、ナニか新興宗教とか、オレおれ詐欺とか、アヤシイ通信販売とか、あと、実際のリアルなことで言えばエネッチケーとかフジとか、もっともらしい顔してやってる大マスコミが、本当に真実を伝えているのか、みたいな、まあそのいわゆるいろんなことに騙されている今のニッポン人に対して警告を発しているような内容なのだ。本当に怖いモノ、ジブンを損なおうとしているもの、シンジツを覆いかくすモノは、海の向こうの外国ではなく、もっと身近にいて毎日アナタのスキを狙っているのだ、という、じつに正しいコトを言っている。今の放射能のコトもまさにコレにあてはまる。寄生マスコミ=魂を奪い取る宇宙人なのだ。

というわけで、このKAAT公演はプレビュー公演と題されていて、ってことは練習で、このあと東京はシアタートラムから始まって、大阪、北九州をまわる。8~9月には奇ッ怪の第2弾もあるし、楽しみではあるが、その時にニッポンに帰れるかどうかはかなりアヤシイ。

2011.4.23 神奈川芸術劇場、大スタジオにて

『裸の女を持つ男』byクロムモリブデン

2011-04-28 00:04:27 | 演劇


いったい何人のヒトがチラシの写真にダマされてここにツドったことか。まわりを見ると場違いなオッサンとかがチラホラ。ワタシもその中の一人に見えただろう。まあただワタシの場合は外地でシゴトしててタマに帰ったニッポンではなるべくたくさん芝居を観たくてタマタマこの日の夜によく行く三軒茶屋でやってたのがコノ芝居で若干気を引くチラシも参考にはなったが劇団のおもしろさにも魅かれたわけで、、、、みたいにつらつら書いても言い訳にしか聞こえない。
作者の青木秀樹サンが書いていたが、この芝居には演劇に特有なココロに突き刺さる何かとか、そういうのはまったくありません、ってなことで、そういうのはワタシの好むところ。ジンセイってスバらしい、、みたいなのが一番困る。

話は山梨県境のモーテルで。有名な漫画家が若い女にキモチがおびえるクスリ、OBLを飲ませ過ぎて死なせてしまう。どっかで聞いた話だなあ。。救急車を呼べば助かったかもしれないが大ゴトになるのを避けるためにオトコは編集者のオンナを呼んで相談してアヤシイ男に処理を頼む。そのアヤシイ男はまた別のアヤシイ男に頼み、またその別のアヤシイ男はそのまた別のアヤシイ男に頼む。
そうこうしているうちにのりピーがこの山梨県境のモーテルに逃げて来て、そのモーテルには鎖につながれた芸ノー界から追放されたヘンな女がカラダを売って生きていて、、キャンディーズも出ていたドリフターズのコントのようなはなし。きっとその鎖のオンナは誰かをイメージしているのだが誰なのかわからなかった。芸ノー界のウラ話にカランだ話の展開が世の中のナニかを批判しているようにも見えるが、ワタシはそもそもソウいうウラ話的なものを全然知らないので、結局コレは何だったんだろう的に終わった。
つまらないというのでは決してないのだが、こんなことわざわざやらなくてもいいんじゃねー??みたいな疑問。もちろん何をやるのも自由でソレを見に行くのもジブンで決めたコトだから文句を言う筋合いではない。ただもう、細かな部分は記憶から消えてしまった。

今思い返すとやっぱり何かを批判していたんだろうと思う。その批判のしかたがザンシン過ぎて、そしてあまりに切実なモノだったからその場では受け取れなかっただけかもしれない。

2011.4.22 シアタートラムにて