老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

ペスカトーレ

2006-08-28 14:42:00 | 料理
ペスカトーレとは「漁師風」というような意味。魚介類をたくさん入れればペスカトーレだ。ただイメージ的にムール貝くらいはあったほうがいいと思って、デパートの魚屋に行ったが売ってない。季節的なものか、はたまた石油不足と関係あるのか、まさか北朝鮮への経済制裁と関係ないだろか、などと、あまり深くは考えなかった。

作り方は簡単。イカの皮むくのに45分かかった以外は。

)魚介の下処理。イカは皮むいて内臓えぐり出して切る。アサリとハマグリは水につけておいてから貝の表面を洗う。
)オリーブオイルでにんにくを炒めて、こんがり色が付いたらフライパンから出す。
)そこに魚介を入れて炒め白ワインをふりかける。
)火が通って貝が開いたらトマトをつぶしながら入れて煮詰める。
)スパゲッティは表示の1分30秒前にあげてフライパンに移す。
)ソースと混ぜ合わせながらアルデンテになったらパセリをふりかけて完成。

今日くらいイカの皮を意識したことはない、というくらいの味。食える。
海老も入れればよかったが、どの店も本数が多くて。トマト缶も半分のがあればいいんだが。
中3の息子は、シジミも入れたらよかったかも、って貴重な意見をくれた。

『行人(こうじん)』 夏目漱石

2006-08-27 19:54:34 | 文学
○○文庫の100冊、みたいなのはキモチ悪い。大人の下心が見え見えで。

中学の頃読んで面白かったのは、安部公房の「他人の顔」とか、大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」とか。
顔を偽って他人になりすました男が、妻である女に見破られるところなんか、中学生には強烈すぎる場面だが、やっぱりそういうのを読んできたから、こうして世の中でだまされずにいられるのだ。だから、夏目漱石もこういうのを読まなきゃ、って思ったこの小説について、若干書いてみようかと。

学者の男が夫婦関係もしっくりいかず、妻と自分の弟の関係まで疑って、泥沼にはまっていくように狂う話。
大正初期の日本人のモノの考え方とか生活の細部が、目に浮かぶように描かれている。たとえば妻と弟が、夫であり兄である男に言われて出かけて行った先で、嵐にあって一晩共に過ごす場面とか。料理屋に入ると、とりあえず風呂で汗流すなんて、いい雰囲気だ。
停電で蝋燭に照らされる妻の表情の描写なんか、日本中が新聞に連載されたこの欄を読んで興奮していたんだろう。
で、そういうsexualな場面を織り込んでいきながら、1話が文庫本で約1ページ半の中に、少しずつの話の盛り上がりをつけていきながら展開していく。

しかし、この小説の深いところはかなり南海、いや難解である。
妻も親も、そして自分の身体までもが、自分から離れていってしまうような孤独を感じながら、
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」と言って、ウエルベック的に言えば冷たい闘争の領域に飛び込まんとする、そのぎりぎりの、主人公の心情をどうしてここまで書けるのかというくらいに書いている。
そこが漱石だから、といえばそれまでだが。

ところがこの小説は最終章になって大きく流れが変わる。ちょうど漱石が胃潰瘍で連載が中断したことにもよるとみられているが、それまでのドラマティックな展開から、男と旅行をすることになったH氏という人物による手紙形式になり、男の心の内側をしつこいくらい細かく描き出すものとなる。この辺が難解。
解説によれば、当時の知識人の孤独と苦悩をあらわしているということだが、結局のところ結末もなく終わるこの小説は、最終章が「塵労(じんろう)」と題されたように、漱石自身の塵労、すなわち「心身を煩わす様々な妄念」との闘いの中での苦しみを、新聞小説に娯楽を求める読者に訴えかけているように見える。

ワタシもジロウ、ではなくジンロウに悩まされているので教訓的に読んだ。
どうせいつかは死ぬという絶対的な事実を、楽観的に受け止めていくしかないということだ。

『闘争領域の拡大』 ミシェル・ウエルベック

2006-08-19 09:29:13 | 文学
こういう本がないことを確かめるために時々立ち寄っていた、あの安売りリサイクル書店で発見した。重量と紙の汚れ具合だけで値段が決められていると思うと悲しいが。
ウエルベックの、小説としては最初の作品。フランスで1994年に出版され、日本語訳はほかの2作品の後を受け、2004年に角川から出された。
競争社会の中で脱落していったものが、精神に異常をきたし死んでいくまでの過程を描いた話。実に身近なテーマだ。

世の中には約束事に従って生きていればいい「ルールの領域」がある。結婚式の披露宴とか、会社の飲み会とか、電車の座席争奪戦とか、。まともな人間と思われたければ、その中でいい人を演じていればいい。親殺しを何度も試みておきながら感謝の花束!を贈ったり、ボケた上司の下ネタに付き合ってまずい酒を飲んだり、妊婦か単なる肥満か、判断に苦しんでも、とりあえず席を譲ったりして。
ところがある時、そこから飛び出したくなる。その先にあるのが「闘争の領域」だ。

闘争の領域が拡大していくと、「まともな人間」から見るとキチガイ状態となる。オフィスでいきなりボケ上司に向かって、パソコンも満足に使えないオマエは無能だ、とか叫んだりする。これは事実であっても、ルールの領域から見ればキチガイとみなされる。無能を無能と呼んではいけないのがルールだからだ。

・・・あなたは、ただルールに従っていればいいという領域に満足できなくなった。もうそれ以上、ルールの領域では生きられなかった。だから闘争の領域に飛び込んだんだ。どうかその瞬間に立ち返ってみてほしい。それはずっと昔のことだろう?思い出してみてくれ。あのときの水の冷たさを。・・・


訳者の中村佳子さんはあとがきで、ウェルベックの作品で注目すべきは、他人の苦しみへの「同情」の能力だと書いている。
競争社会とは結局は階級社会であり、「性的行動はひとつの社会階級システムである」と言って、オンナとやりたくてもやれない、背が低く豚のような顔をした登場人物に同情する。
そして情報化社会とは非情報化社会であり、真実を知らされずに、仕組まれたプログラムの下で蟻のように働く人々に同情する。
そういう社会にとどまることができなくなって、コンピュータエンジニアである「僕」は、闘争の領域に飛び出して自由を得る。

そんな小説で、おおいに共感した。


『島ノ唄 Thousands of Islands』 伊藤憲 監督作品

2006-08-18 22:18:31 | 映画
東中野の素晴らしいブンカ的映画館、ポレポレ東中野で朝と夜だけ上映中のこの映画、詩人の吉増剛造さんが沖縄や奄美を旅して、人々の唄を聴き、自分の詩を朗読する姿を描いたドキュメンタリーである。

はじめに伊藤監督本人が登場して、吉増さんは、島という、完全に周囲に開かれた生活環境が人間の精神に与える影響のようなことに着目している、ということを話してくれた。
島の人の言葉の新鮮な響きや、洞窟の中の水滴の落ちる音などが映像に重ね合わされて、そして最後にはソウルフルな島の人の唄と踊りも加わり、静かな興奮につつまれた映像作品となっていた。

吉増さんは映画の中でカメラを首にぶら下げて、町のネオンの写真などをとりまくっていたが、印象的だったのは、目に見える現実の風景は、風景そのものにいろんなものが重なり合って、はじめて、風景として見えてくるのだということで、それを撮り込むことが大事だというようなことを言っていた。
その重なり合ったものが時間なんですかねえ、、ってさらりと言われ、こちらとしてはやや混乱したものの。
上っ面の表層だけでは何も見てないのと同じ、ということだ。

詩人の朗読の言葉は、聞いているものの中にビシビシ入り込んでくる。言葉の音で遊んでいるように見えても、助走をつけて、胸元に投げ込んでくるように聞こえた。


2004年、「島ノ唄」製作委員会製作
上映は9月1日まで。8月26日には吉増さん本人がイベントに登場する。


スパゲッティ アマトリチャーナ

2006-08-16 21:55:40 | 料理
ベーコンと玉葱のトマト味スパゲッティ。
ローマの北部、ラツィオ州の町、アマトリ-チェ風のスパゲッティ、ということで、豚肉で作った生ベーコン「パンチェッタ」と、羊乳から作った「ペコリーノチーズ」がポイントだが、、男の料理はとかくお金がかかりすぎる、との批判を考慮し、普通の薄切りベーコンでつくってみた。

)ベーコンを1cm位に切って、フライパンで弱火で炒める。
)カリカリになったら玉葱のみじん切りを加えて炒め、
)スパゲッティのゆで汁、100ccを加えてさらに炒める。
)缶詰のホールトマトをフォークでつぶしながら加えて煮詰め、
)塩で味を調える。
)スパゲッティは表示の茹で時間の1分30秒前に上げて、)に加える。
)スパゲッティがアルデンテになったらオリーブオイルをかけて完成。

美味!

数年前まで会社が西麻布にあって、いろんな店でランチを食べた。
なかでもカピトリーノはスパゲッティと肉料理にパンがついて1000円しない、気に入りの店だった。
昼休みに行くと、私の好きだった会社の上役が必ず先にいて、その人は心臓病で入院したときも、部下がタッパウエァにいれて、この店のスパゲッティを持っていったというほど、この店でしか昼をとらなかった。
今でも元気、だと思う。

みんな年をとって、カピトリーノも今ではランチはやっていないようだが、やっぱり、ああいう時間が人間には必要だと、つくづく思う。

うまいものをたくさん食べて、長生きしたいと、たまに思う。

『トランスアメリカ』 ダンカン・タッカー監督作品

2006-08-14 18:15:41 | 映画
正確に言うと夏休み初日。
会社に行って少しだけ片付けなければならないことがあったが、朝の停電でキャンセルした。明日でもいいことは明日やればいいという生き方だし。

で、横浜・伊勢佐木町の小さな映画館でやっているコレを見た。
父と子の関係という麺に、性同一性障害というソースをかけた一品である。
宣伝のキャッチコピーのような軽い映画ではないが、かといって、それほど深刻でもない。

1週間後にチンポコを切る手術をする予定の主人公の前に、突然、昔のガールフレンドとの間にできたムスコが現れる。
そのムスコとの関係にケジメをつけない限り、手術はさせないという医者の命令で、ムスコとの旅が始まる。外見はオンナで、父親であることを知らせずに。。

自分がある日突然オンナになろうとして、もう少しでなれるというときに、ムスコと向かい合わなければならないとしたら、、実際のところかなりシビアな映画だ。
ムスコにとってはショックだろうし、自分としても一番痛いところに違いないから。あり得ないと思いつつも。

それにしても男とは何で、女とは何か。
単なる染色体の違いか、あるいは現実的に生殖器の違いか、それとも外見の美醜の違いか、そんなことじゃなくて、根本的な内面の違いか、それとももっと、ぜんぜん違うものなのか。
ジェンダーという言葉が題名にあるだけで、図書館からその本が撤去されるという非文化的な国の民族としては、議論をするにも至っていないということだろうが。
ただ、性転換手術が、チンポコを切り取って、残った皮膚を裏返して女性器を作る(またはその逆)ということまではわかったとして、それはやはりけじめとしての儀式のようなものにも思えた。


主演のフェリシティ・ハフマンは女優としてこの役を演じ高い評価を得た。男であることを引きずりながら、あと1週間で女になれるという心理を男の視点で演じている。
ムスコが主人公を男であることを見抜くシーンが、軽いユーモアに包まれて、ほのぼのとさせる。
そして最後にムスコが、その元父親を母親として認めるところが、見るものを幸福感に包む、美しいラストになっていた。

2005年アメリカ映画、松竹配給。

高橋哲哉 靖国問題

2006-08-14 10:29:01 | 評論
1年近く前に読んだ本について、一切読み返さず、記憶だけに頼って書く。自分の中に深く沈んだものをすくいあげるように。

いまさら、と言われれば、最近上坂冬子氏が、明らかに意図的に、まったく同名の新書を出しているのを書店で見たから。
戦争体験世代の女性という情緒的な立場から、靖国神社を否定し得ないものとした上で、書名から外れて、外務省や保守政権の中国・韓国への外交姿勢を問題にしていると思われる同書の内容からして、「靖国問題」の本質をすりかえようとする、保守派の「主張」の流れに沿ったものだからだ。

Å級戦犯の合祀に関連した中国・韓国の批判は、日本の保守派にとっても国内世論対策として「使える」内容であることは見ての通りで、あれらの国での歴史教育などを熱心に取材して報じるマスコミも、この問題に関してはみんな同じ方向を見ている。

そんな中で、高橋哲哉氏は、国家が戦争を推進するシステムを構築する上で、靖国神社が欠かせないものであったこと、自衛隊の海外派兵が現実化した今日でもその機能を持ち続けていることを指摘した上で、「二度と悲惨な戦争を行わないため」に必要な、戦没者追悼施設のあり方を示している。
この当然ながら最も重要な視点が、保守派の議論には欠如している、というか、あえて避けている。それは次の戦争を想定しているからとしか思えない。

高橋氏は、第二次世界大戦だけでなく、日本がこれまで戦った戦争の戦死者のみを祀ってきた靖国神社の歴史と役割を、天皇陛下のために戦争で死ぬことが、本人や一族にとって末永い名誉となり、国家がこの「一神社」を通じて永久に顕彰しつづけるという制度が、若者を戦争に駆り立てる社会の雰囲気をつくってきたこととしている。

そうだからこそ、靖国神社に代わる戦没者追悼施設の持つべき位置づけとして、非宗教施設であることや、民間人に加え、外国人の戦争での死者も追悼することをあげているが、それでさえもその時代の政治によって意味のすり替えは容易に行われる危険を指摘している。

この点から、最近の麻生太郎外務大臣の靖国神社非宗教法人化案は、今のところ神社側からも、論外、との扱いを受けているが、私としては、議論すべきことは議論しないという、自民党のこれまでの風習を変える姿勢に共感を覚えつつ、案外、そのうち神社側さえもすがり付く危険な方向性を有しているものに思われる。
それは宗教法人としての持続性の問題であり、今述べた、靖国神社の本来の機能の維持に関する問題だからだ。

靖国神社について議論する上で必要なことは、これから起こり得る戦争を、自己の問題としてとらえておくことである。たとえ明日のワイドショーがつまらない話題に終始しようとも。
小泉純一郎氏について言うと、あの、まわりがダメダメというとなおさら我慢できなくなる幼児性の面で、最早、精神科医の領域にあると見るべきである。

高橋哲哉「靖国問題」 ちくま新書、2005年


歓びを歌にのせて ケイ・ポラック監督作品

2006-08-06 09:23:44 | 映画
原題は As it is in heaven 、心を病んだ人間が回復していく過程を描いた映画である。主人公が最後に死ぬところが、楽天的商業主義のアメリカ映画などではあり得ない展開といえようか。

スウェーデンでは合唱が盛んで、暗く長い冬も日曜日には教会に集まって、みんなで歌い、コーヒーを飲むことが唯一の楽しみのようだ。
そういう狭い社会での複雑な人間関係の中で、かつてその村を追われるように出て、やがて世界的な指揮者になりながら、心を病んで再び村に戻ってきた男が癒されていく。
そういう、人間の精神の微妙なバランスのようなものの描き方がおもしろい。

主人公の男に惹かれながら、アル中の夫から逃れられない女、ガブリエラ(ヘレン・ヒョホルム)が一人で歌うテーマ曲がすばらしい。

2004年スウェーデン映画、2005年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。
Bunkamura LE CINEMA配給、今年の正月に公開された。


ひかりごけ 武田泰淳

2006-08-03 22:42:45 | 文学
毎朝の満員電車の楽しみは、なるべく早くつり革までたどりついて、いつ立つか、いつ立つか、と前に座ってる人のちょっとした動作に心動かし、多くの場合、最後まで立ち続けたときの、苦しみに耐え通した達成感を味わうことです。
今日も一日が終わりました。。

でも小説世界の苦しみは、そんなもんじゃない。
戦争中の人肉喰いの話である武田泰淳のこの傑作は、精神病院を舞台にはしていないが、ワタシ的には精神病院文学と呼ぶべきもの。

そこに共通するテーマは、世の中、まともに見える人間が本当は異常で、多くの人から異常と思われている人間こそが、まともだ、ということだ。

この作品は3つの場面で構成されている。

最初は作者自身が取材のため、北海道の羅臼を訪れ、ひかりごけという、洞窟の中で微かな光を発する植物を見た後、その土地に伝わる、戦争末期の遭難船での人肉喰いの話を聞く場面。ドキュメンタリー調である。
野上弥生子の「海神丸」や大岡昇平の「野火」を持ち出して、この人肉を喰った主人公の船長の異常さを強調している。今読んでも斬新な導入。

2つ目はその人肉喰いの場面をきわめてリアルに、そして最後は、その船長が裁判で裁かれるところを社会派っぽく、どちらも、戯曲形式で描いている。
ドキュメンタリーの中にドラマが挿入されているこの構成、何か覚えがある、と思ったら、テレビのドキュメンタリードラマみたいな、伊丹十三とかテレビマンユニオンとかが得意とするあの手法ではないか。やはり斬新だ。

中身については読まないとわからない。途中、吐き気をもよおすような場面もあるが、最後は感動の嵐。マチガイないっ。
戦争中、人肉を喰べた人間を、人肉を喰べずにすんだ者が裁く。そんなヤツに裁かれたくないと、主人公がその代表としての天皇までも激しく批判する。
そして最後には、人肉を実際は食べていない側の人間こそが、本当は、皆そろって、人肉を食べていたことになるのだという、船長の弱々しい怒りを、洞窟で微かに光るひかりごけの光のように、静かに語らせている。


戦後60年、そこいらのカラオケではしゃぐサラリーマンのような、プレスリー猿まね総理を頂くわれ等は、われ等自身が見ても世界の笑いもの。ついでに金で勝たせてもらった、あの目つきの悪いプロボクサーも。

こういう本を読むと、終戦後から昭和30年頃までの、ニッポンのまともさがよくわかる。