老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

菅さん

2011-09-09 21:28:58 | ヒト
菅さんが辞めるときに評価は歴史に任せると言ったのは、クソみたいなマスコミのお前らなんかに評価されたくない、というキモチだったからだろう。経団連のアホ会長とか、電力会社からの広告料を失いたくない寄生マスコミとか、さっそく野田サンを持ちあげてちやほやしているのは見ていてホントにキモチ悪い。
そんな中、情報に疎いコッチにもあの加藤典洋センセがマイニチ新聞に書いた記事のことが伝わってきた。さすがに加藤センセだ。コッチでは記事の中味を読むことはできないがだいたい想像がつく。「疑問だらけの菅降ろし」という文章の中には、たとえば「脱原発依存」を言いだしたときに、ソレを「延命策」だと言った、ヨミウリやサンケイなどの右翼マスコミの報道に対する違和感が書かれているらしい。マイニチはそれを、その頃の報道は後になってどう評価されるのか、ってまるで他人事のように書いているが、影響力が少ないから相手にされないだけだと思うんだけど。

ま、ソレはソレとして、いったいいつまで、あるいはニッポンは永久にこの不幸なマスコミから逃れられないのかと心配になってくる。たとえば今のニッポンで“死の街”とか言って、それが大問題になったり、原発から何キロ以内は今後何十年住めない、とか言うとそこの市長やら村長やらが怒ると、そんなことがその発言者の人格を疑うかのような書き方で寄生マスコミによる追放キャンペーンに発展する。
街が死んでいるように見える、というような言い方は日常的にごく普通の言い方だし、ましてや住民が避難して人っ子ひとりいなければ死んだも同然なのは誰が見たって明らかなのだ。ソレを見た通りに言ってはいけない、と、キモチを傷つける、と。そして市長やら村長が怒っている、と。なんかエライ幼稚な、ガキが何か悪いことをして、オマエのオヤヂがエライ怒っているぞ、と言って大騒ぎしているようなのと同じレベルのくだらん報道だ。
確かに傷つくヒトはいるだろう。ソレは仕方のないことだ。そうじゃなくて、傷つけるコトを言ってはいけないという、なにか思いやりジゴクというか、やさしさジゴクというか、そういう現実から逃避することが被災したヒトタチにとって一番いいことだと勝手に考える発想自体がワタシは間違っていると言いたいのだ。

菅さんが辞める前の日に福島に行ってソコの市長だか村長だかに直接説明した。ソレを報道が伝える通り、突然で失礼だ、みたいに相手が言ったとしたら、じゃあイッタイどういう伝え方が突然じゃなくて失礼じゃないのかと聞いてみたい。ワタシの想像では、実際はその市長さんか村長さんは、確かに多少の戸惑いは示したではあろうが怒ってはいないと思う。だいたいニンゲンはそんなことでいちいち怒らないはずなのだ。むしろカレ等のほうが現実を受け入れようとしてるんじゃないかと思う。ソレを寄生マスコミがニッポン中を思いやりジゴクの中に落とし込もうとしているのだ。寄生マスコミはそういうことを書いて、被災者ではない圧倒的大多数の読者の賛同を得て発行部数を伸ばし広告収入を上げようとしているのだ。結局はソレだけなのだ。

新聞はもはや過去のメディアだ。もう死んでいる。テレビはそれ以前に死んでいるけど。小さなコトバの使い方だけで大臣が辞めたりして、ソレでいったいジミン党とそれにツルんでいる財界とか官僚とか以外にだれが得をするのか。そんなくだらない報道はもういらないんだけど、でもソレを求めている、思いやりジゴク、やさしさジゴクに安住しているニッポン人もたくさんいるんだろうなとは思うわけで、やっぱりあきらめるしかない。いろんなことに。
ただ、アソコまで叩きに叩いても、最後、15%は支持していたというのは、ニッポンにもまともなコクミンが15%くらいはいるということで、多少の救いではある。

二郎さん

2011-03-10 23:48:01 | ヒト


二郎さんっていえばやっぱり野球拳だな。ココロの中で負けるな、って応援してた。
最後に勝って、女優とかが舞台の袖のカーテンの中で脱いでるときには、ホントにコーフンした。10歳くらいの頃。
なにもかもが、いい時代だった。

ホントに、サヨナラだ。

Honda

2010-06-30 16:48:32 | ヒト
パソコンの背景画面に毎日新聞のニッポン決勝T進出!の号外を貼り付けた。遠く、、でもないが、ニッポンを離れて、故郷を思う。こんなキモチは久しぶりだな。
本田サンのコトバがなかなかいい。「これまで批判してくれた人に感謝する」とか、「僕がニッポン人かパラグアイ人でなければ今日の試合は見ていない」とか。世界の注目を集める舞台まではたどりつけなかったという意味。

前回は強豪外国クラブのオファーを受けることを考えてプレーするヤツが一人でもいたら許サン、みたいなコトを言っていたヒトもいるが、結果を見ればニッポン人の大好きな協調性ってのをはき違えて、ただ足を引っ張り合ってただけってこと。ココで名前を売ってより華々しいリーグに出ていこうと考えるのはプロであれば当然のことだ。イギリスの新聞が、ニッポンには野心がなかった、と書いているようだが、岡田さんもジブンにもう少し執念のようなものがあったら、といっているし、本田サン以外はみんなどこかで満足していたんだろう。

大部分のニッポン人に欠けているのはこの「野心」で一般的には悪い意味さえ持っている。「ユニーク」とか、「妥協」とか、ニッポンでは悪い意味でとらえられているコトバで、本当は今のニッポン人に必要なモノがまた一つ見つかった。逆にそういうところを狙ってイキていけば世界で通用するということかな。ユニークで、野心的で、妥協上手。ニッポンのカイシャなんかでは使いにくいニンゲンの代名詞で、まるでジブンのコトのようにも聞こえるが、、正直言って、野心は忘れかけていた。

本田サンがいうようにまだサッカー人生が終わったわけじゃないし、、パラグアイの監督があんなに喜んでいたのがワタシは密かにウレシかったし。

菅さん

2010-06-06 20:52:23 | ヒト
ワタシが菅さんに出会ったのは中学の頃だから今から35年前くらい。毎朝クニタチ駅の駅前でメガホン持って演説していた。その頃はまだ一市民運動家で落選続きの頃で向こうも20代だったから若さビンビンで演説には迫力があった。ワタシはときどき遅刻するのも気にせず演説に聞き入った。雨の日にはジブンで傘をさして演説していた。そういうことの積み重ねであの辺=東京の西のほうの武蔵野、国分寺、クニタチ辺りでは絶大な人気で一度当選してからはいつもだいたいトップ当選している。

菅さんは最初当選してからは二院クラブに属していた? 記憶があいまいだが、、その後、社民連をつくってだいたいいつも5人くらいの少数勢力で15年くらいコツコツやってきた。それでもまあいつか天下を取ると、ワタシは確信していていまシタヨ。
その後ヒョンなことでさきがけかなんかで厚生大臣になって、官僚が隠していたエイズの資料を暴き出して名前を挙げた。その先はとんとん拍子、と行きたいところだが女性問題とか年金未納とか、政治家としてはどうでもいいことで引きずりおろされてムダな時間を過ごした。ニッポン人がもう少し、そういう本質的でないことに寛容だったらニッポンはココまで落ちぶれなかっただろうに。

それでもついに天下を取った。これからはヤリたい放題やってほしい。アタマの悪い親の七光り議員を追放して、コトなかれ主義の官僚をムチでたたいて、世間をあざむくだけのマスコミの悪を暴いて、大連合でも、消費税アップでも、憲法改正でもなんでもやってほしい。菅さんなら絶対に間違ったことはしないという確信があるから。すべてお任せ、じゃないけど、有り金全部賭けてもいいくらいのキモチ。


コリー

2009-08-03 23:11:45 | ヒト
コラソン・アキノさんとは直接会ったことはないが出身地のマニラ北部のタルラック州で仕事をしたことがあって、その頃はもうラモスさんに代わっていたのだが、車でタルラックに入るといきなりとてつもなく広いサトウキビ畑の農場が広がっていて、一緒に行った人にココがアキノさんの実家だと教えてもらったことがある。

やっぱりとんでもないお金持ちのオジョーさんだったわけだが、あの忘れもしないマニラ空港でのベニグノ・アキノ氏暗殺の後、それが独裁者マルコスのシワザだというのは誰が見ても明らかで、選挙で不正までして当選しようとしたマルコスをフィリピンの民衆が立ち上がって軍までも味方につけて、マルコス夫妻はイメルダの歌声と何千足の靴を残してマラカニアン宮殿からヘリコプターで逃げていく。あれはサイゴン陥落とかルーマニアのチャウシェスク処刑と同じくらいの歴史的な大事件だったと今でも思うが、その後大統領としてフィリピンを潰れない程度に統治した。

マルコスの亡命を引き受けたアメリカのことをやはりよく思っていなかったのか、ピナツボ山が噴火してアメリカ軍の空軍基地が灰に埋まって使えなくなったのを機に駐留していたアメリカ軍を追いだしてアメリカによる精神的占領を終わらせた。
この点ニッポンはいまだ核爆弾を投下したアメリカに占領されていて、日米安保なんかいらないとでも言おうものなら、なぜかジミン党などの戦争愛好派からもアサヒ新聞などの戦争反対派からも袋叩きに合う。核に反対しながらも北チョーセンという仮想敵国の前でアメリカの核に守られていることを肯定するという自己矛盾から抜け出せない。そういう意味でコラソン・アキノさんの最大の功績は、とりあえずアト先考えずにフィリピンを真の独立に導いたことといえる。

政治的には次のラモスさんが国を一つにまとめたと思うが、ラモスさんとは飛行機で一度一緒になって、こっちがビジネスクラスでのんびりしていたのにそこにカーテンで仕切りを作って、その中で葉巻を吸っていたのがとんでもなく迷惑だった。
そんなこんなでこのベトナムもそうなんだがヒトの名前を道路とか空港とかにつけるのはなんとなくキモチ悪い気がするが、マニラのニノイ・アキノ国際空港には今でも亡霊が漂っているように感じる。

マイケル

2009-06-27 00:28:52 | ヒト
マイケルとはワタシがフィリピンで仕事をしていた時に一度、偶然同じホテルの近い部屋に泊まったことがあって、そのころはもう孤独なロックスターの頂点に上り詰めていたから、別に廊下ですれ違って、やあ、とか言ったわけでもなく、この同じ建物の中にマイケルがいるんだと思いながら、眠れなかったことを覚えている。
今、調べてみると、あれが最後のワールドツアーで1996年か97年のことだ。「HIStory tour」で35カ国58都市をまわったうちの1回がマニラでの公演だったわけで、ワタシはいつも泊っていたホテルが満室だったためにたまたまマニラで一番格式の高いマニラホテルに泊まることになって、まだ明るいうちにチェックインしたらホテルのロビーがやたらざわざわしていて、何なのかよくわからないまま正面玄関の上の3階か4階のの部屋に入っていた。
夕方になったらざわざわしていたのがもっとすごくなって、窓の外を見ると人がたくさん集まってきて何なのかと思っていたらやがて白バイに先導されて黒塗りの大きな車が車寄せに入って来た。その先の状態は上から見ることができなくて、ヤジ馬的に見に行こうと思って下のロビーに降りようとしたらエレベーターが使えなくなっていて階段で降りていったら2階か3階が立ち入り禁止になっていてホテルのニーちゃんに誰?って聞いたらマイケルだって教えてくれた。
あとはもうこの状況をだれにどう伝えるべきか、とりあえずロビーまで下りて行ったら自分のいる側が立ち入り禁止側で、逆にロビー側に出て行けない状態で、おいおいおいみたいに、もう上に行ったり下に行ったりのコーフン状態。結局何をしたかは覚えていない。もしかしたらこの頃はムスコが小さかったので出張に行くと家に絵葉書を送っていたから、このことを書いて送ったかもしれない。
でもよくマイケルが泊まる部屋の上に一般客を泊まらせたもんだと、、今から考えるとまだあの頃はブッシュが世界を壊す前ののんびりした時代だった。

マイケルは真の天才で20世紀を代表するパフォーマーで、美しく繊細でありながら同時に革新的でオリジナリティーにあふれていた。この世に生まれたのがワタシと1か月しか違わないのにもう先に死んでしまって、、天才らしいというか、そんな気持ち。