老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『ジャックとその主人』

2008-02-28 23:16:38 | 演劇
昨日の夜、仕事をテキトーに切り上げて吉祥寺まで中央線に乗って見てきた芝居。見たときは若干難解で、意味不明な芝居だったが、よーく考えてみると意外に単純な話だったりして。
作者はミラン・クンデラという人で、「存在の耐えられない軽さ」を書いた人といえば、ああなるほど、という感じ。
といってもコレを見ようと思ったのは、去年、荻野目慶子サマ主演で三軒茶屋まで新玉川線に乗って見に行った「ヒステリア」に続く、串田和美・白井晃コンビによる3年連続3芝居の2本目だったから。内田有紀が出ているといっても、慶子サマほど惹かれたわけではない。

芝居は電気がついたままいきなり始まって、主演の白井晃サンが客席のほうにはみ出しながら芝居したりする一方、舞台の上には小さな小屋みたいなのがあって、カーテンがあいたり閉じたりしながら、中で別の芝居が繰り広げられる。ストーリーは貴族役の白井サンと串田サン演じるそれに付き従う家来のジャックが旅をしながら昔の思い出話を語り合うという単純なもの。
舞台の中の舞台で、思い出ばなしが入れ子の中で演じられるわけだが、内田有紀が3人の女役を演じてるとわかったときには時には、もう、話の細かいところはよくわからなくなっていた。3人の女を演じていても、それらがみんな同じような生き方で、ジャックとその主人も同じような昔ばなしを語っている、というあたりがミソで、しかもそういうのが全てあらかじめ誰かに書かれた物語にすぎない、というようなことが土台になっている。

で、こういう難解なのを見ると芝居ってそもそも何?ってなことを考えたくなるものだが、ちょうど昨日のアサヒの朝刊に加藤典洋サンの文芸時評が載っていて、文学とは生の1回性の感覚だ、ということを書いていて、なるほどと思ったシダイ。生の1回性というのはワタシの一生は他人のものとは取り替えることのできないワタシだけの一度限りのもの、ということ。だからこそ空想の中で空想の人物にあらぬコトをさせてしまったりする文学というモノが成り立つ、ということかどうかはわからないが、音楽や絵画にはそういう感覚がないのは確か。
ちょっと脱線するが生の1回性が文学なら、死んだら次はマントヒヒに生まれ変わるみたいなことを信じさせられる宗教は文学と対極のものということ。文学の反対語は宗教ということだ。だからインチキ宗教が出してる本なんか本屋に置くべきではない。

この一生は1回限り。それもあらかじめ誰かに書かれたものであるなら、この金欠・パワハラ・花粉地獄にどうあがいても結論はもう決まっている。ただその結末がわからないだけ。だからこの世は受け身。こっちから切り開いていくなんて、錯覚もいいとこだ。
串田、白井両氏はセリフを噛みっぱなしで、それも演劇の常識をくつがえす演出だったりして。内田有紀は声がよかった。

串田和美 演出・主演
08.2.27 吉祥寺シアターにて

『長江哀歌』

2008-02-23 18:05:08 | 映画
去年、いろいろなところで評判の高かったコノ映画。見よう見ようと思いながら年を越して、先週、出張先の福岡でやっと見た。で、面白かったかというと、途中で寝てしまったくらいの面白さ。
小さいな映画館のレイトショーで客は3人。すいてたもんだからど真ん中の席でビール飲みながら見たのが敗因。というのは謙虚な言い方で、ハッキリ言って退屈しまくり。

長江の三峡ダムの建設現場の、もうすぐダムの底に沈むムラに以前住んでいた男が帰ってくる。別れた女と娘に会いに。男はダムで沈む建物の解体現場で働きながら女の行方を捜すがなかなか見つからない。そこにもう一人、別れた男を捜しに一人の美人がやってきて、、この辺で寝てしまった。
長江の雄大な風景に朗々と響きわたる歌声。誰だって眠くなる。結末としては、男が金で買われた女を取り返すために、故郷に帰って危険な炭鉱労働に励むことを決意するあたりでおしまい。

途中気になったのはヘンテコなオカルトシーンが何回もあったこと。UFOが飛んできたり、宇宙船が飛び立ったり、巨大なビルが突然崩れたり。昔のATGの映画で寺山修二が監督した「田園に死す」を思い出した。アレはアレで独特の世界が醸し出されていたが、コッチのは取ってつけたようなもの。

現代アートなんかでも同じことだが、若手文化エリートといっても、所詮、あんな共産党独裁国家でのこと。コネが全ての世界だ。だから、ちょっとがんばってみたつもりでも、見ている側はコッ恥ずかしくなるようなしろものだったりする。それを踏み台にするニッポンやらヨーロッパのエセ文化人も情けないが、まあ、そんなものを鵜呑みにしてわざわざ見に行ったワタシもヒマというかバカというか。

2006年 中国映画
08/2/19 福岡・天神 ソラリアシネマ2にて

通天閣

2008-02-21 08:01:01 | 旅行
このところ出張続き。先週末は木曜に福岡に行って金・土・日と大阪へ。仕事は夜だけで最悪。今週になって月曜は休みで火曜の昼から福岡で夜まで会議。水曜の昼に東京に戻ったかと思ったら、今日は夕方から札幌に行って、明日の深夜に戻る、つもり。
たいした出張ジマンだ。

で、土曜の昼間、前から登ってみたかったここへ。
おととい、国営放送のハイビジョンで、コレを設計した内藤多仲センセの番組があったので知ってる人もいると思うが、東京タワー、名古屋のテレビ塔を設計したセンセのある意味傑作。

地下鉄の動物園前駅を下りて、塔のほうに向かって歩いていくと新世界の賑やかな町並みが続く。ソース二度漬け禁止の串揚げ屋とか、一皿に3つ乗って300円のすし屋とか、将棋・マージャンの広々としたプレイコーナーとか、これもある意味New World。

塔はエッフェル塔のように道路をまたいで建っていた。下を通り抜けられるのは東京タワーにはない快感。丸いエレベーターに乗って上の階から最上部の展望台へのエレベーターに乗り換える。
展望室は2階建てで狭かったが、これまた塔の足元から放射状に延びる町並みはパリを彷彿とさせる。  ?
夜はネオンでもっときれいなはずだが、さっきも言ったとおり、つまらぬ会議に引っ張り出されて見ることができなかったのがキワメテ残念。。

『キムチうどんすき』

2008-02-11 20:55:07 | 料理
今日は月曜。生協の配達日だ。注文したのはツマで、ワタシは受け取るだけ。何が届くのか、まったくわからない。気持ちのいい笑顔のニーちゃんが10時過ぎにピンポン押した。
何ヶ月か前には小顔になるためのナンタラかんたら、みたいな本が混じっていて、生協がオカルト商法か、と一瞬引いたが、今は本棚の隅でホコリをかぶっている、と思う。顔、小さくなってないし。
今日はやっぱり、というか冷凍餃子50個入りが入っていた。世の中過剰反応で、昭和天皇が亡くなる直前みたいに、何でもかんでも自粛だ。この前九州のラーメン屋に入ったら、当店の餃子は安全だけど、当分休みます、みたいな。あほらし。さっそく今日の晩ご飯は餃子。これから焼きます。もし何かあったら、、、思い残すことはありません。楽しいウン十年でした。。

で、これは昨日の夜に食べたキムチ入りうどんすき、の、写真はうどんを入れる前の状態。うどんが入っていなくても、うどんすきとして作っているので、これはうどんすきなのであーる。
鶏肉、エビ、あさり、ワタリガニ、カキ、豆腐、油揚げ、ミズナ、ネギ、キムチ。鍋があふれんばかり。半分くらい食べてからうどんを入れた。
結構食べ切った。

今週はまた明日から悲惨な日々が始まる。金、土、日も仕事。あと全部休んでも有給休暇を使い切れないのがザンネンだ。毎年のコトながら。

『ら抜きの殺意』 永井 愛

2008-02-09 15:50:01 | 文学
来月、この人のコレを見に行くので、予習の意味でこれを読んだ。なにやら戯曲づいている。
ひと言で言えば社会派コメディ。別にひと言で言わなくてもいいのだが。別にぃ、だ。で、思い出したように、芸能人の謝罪会見って、結局は三流テレビ局の視聴率稼ぎの道具でしかないことは、前々からわかっていたが、予告があって、会見があって、その後の○○さんみたいなのがあって、復帰会見があって、いくらコクミンが白痴化されているといっても、電波の無駄遣いもいい加減にして欲しい。

この芝居はそういう言葉をめぐって殺意までモヨオシテしまうのかと思ったら、殺意といってもリアルなものではなく、ごく日常的に、ワタシなんかも前の席に座ってるムカツク上司に抱いていたり、駅までの道でタバコ吸いながら追い越していったヤツに対して抱くような、そういう抽象的な殺意である。
簡単にいえば、別に簡単に言わなくてもいいんだが、ある国語の教師がアルバイトしようとしてある会社に行ったら、そこの人がら抜き言葉を使うのが気に入らなくて、で、ある時、その人の弱みを見つけて、ばらさない代わりにら抜き言葉を使うな、ってことになって、ひとついいことをしたと思っていたら、今度は国語教師のほうが弱みを見つけられて、逆にら抜き言葉を使わないとばらすぞ、って言われて、、、、そんな感じで、~ってゆうかぁ言葉とか、~みたいなぁ言葉とか、~じゃないですかぁ言葉とかが飛び交っているなかで、最後はそれはそれでいいんじゃないですかぁ、みたいな、ってゆうか、言葉はそれぞれの社会がつくり出すものだってナ結論で、ホンワカして終わる。

最近、本にまでなってしまったKY言葉なんかも、小さな社会の中だけで通じる言葉をカレラが作り出して、それを楽しんでいるわけだから、その意味がわかるかとか、なんでそんなふうに略すんだって言ったって、そんなことはわからなくて全然構わないのだ。それが本なんかになってしまうと、まったくドッチらけで興ざめなのは明らかなのに、それをまた三流テレビが取り上げて、商売のネタにしようとしている。
情けないのは、そういうことに対する根本的なスタンディングポイントが不明確というか、そもそもないということで、、総理大臣があんなだから、テレビも、それを見るコクミンもみんな同じになってしまうのは仕方がないと諦めるべきか。

今度の芝居は2年前にやったものの再演で、卒業式で立ち上がって右手を斜め右上方に突き上げて?、君が代を歌うかどうか、みたいなことがテーマになっているが、それも歌いたい人は堂々と歌えばいいし、歌いたくない人は座って鼻クソでもほじくっていればいいと思うのだが、それをビデオに撮って証拠にしたり、マイクで声の大きさを測ったりする滑稽さをネタにしていて、内容的にはかなり期待できる。

光文社文庫版 2000年刊

『魚の祭』 柳 美里

2008-02-02 09:06:25 | 文学
名古屋の仕事が終わって新幹線の出張がなくなったもんだから、本を読む時間が一気に減った。大阪は飛行機のほうが楽だし。朝の電車も飛行機も、なかなか本を読む気にならない。というわけで、去年はじめたヴェルヌの読み直しはその後進まず、そうこうしているうちに2月になった。
で、戯曲って言い方もちょっと古臭くて変だが、そういえば戯曲って、これまでほとんど読んでなかった。なんか、楽譜読んで音楽楽しめるか、っていうのはちょっと言い過ぎで、CD聴いてオペラがわかるか、、もしくは、写真だけでイケるか、人形とヤレるか、みたいな。下品なたとえならいくらでもできる。

結論から言うと戯曲だけで結構読めた。芝居をナマで見たような気分。実際、芝居では、役者が動き回って、表情つけて、音楽が鳴ったり、夕焼けが見えたるするわけだが、本で読めるのは文字だけだから、読んだらすぐに風景とか臭いとかが浮かび上がるくらいの表現がされていないと戯曲だけじゃ物足りないもので終わってしまう。塩だけのスパゲッティみたいな。
で、この本の場合はセリフを発する人物の顔とか、化粧の濃さとか、髪型なんかも目に浮かぶようで、その場に引きずり込まれるような気がした。

話のほうは重くて暗くておかしい。ばらばらの家族が、その家族を憎み、全員を殺したがっていた次男が事故で死んで、その葬儀のために集まって、家族としての結びつきを何十年ぶりかに感じる、、という、よくまあ、そんな設定を考えられる、というような設定の中に、突然、西瓜割りの場面が割り込んだりしながら展開する。死にむさぼりつく家族、みたいな感じで。

柳美里って、家族ってものに対して期待を捨て切れない、というか、もともと崩壊したものとして描いておきながら、最後は希望が感じられて、で、それも脆いもんだ、って突き放すような。暗くて絶望的ななかに、崩壊した家族が立ち直るぎりぎりの糸口みたいなものを書こうとしているのか。

文庫本にはもう1編、女子高を舞台にした「静物画」も載っていて、1冊で豪華2本立て。独特の空間を文字でつくり出すこの人は、やっぱり天才に近い人で、ワタシとしてはアノあそこまでイッテしまった本が気になってしかたない。

平成9年、角川文庫版