老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

La Veranda & Chen Sea Resort in Phu Quoc

2011-09-05 21:51:39 | 旅行




久々の更新。朝のランニングの途中で倒れたワケじゃない。夏休みをからめてホーチミンにシゴトで行って、ついでに南の島のリゾートに雨を見に行ってきた。太陽が出たのが着いた日の夕方のほんの1時間くらいであとは豪雨。寒かった。ま、方角的に悪いんだろう。もう行かない。

リゾートでは天気以外にもひどい目にあった。おフランスの有名チェーン系の、島で一番いいと言われているホテルを予約して行ったんだが、通された部屋はこのホテルでいちばんひどいんじゃないかと思われる、陽が当たらなくてジメジメして薄暗い納屋のような部屋。ペンキでやたらサイケに塗ってなんとなくリゾート風に仕上げているが、わざわざこんな部屋に1泊200ドルも払って泊まりに来たわけじゃないので部屋を変えてもらおうと思ったら係のオンナが典型的なベトナム人で、ワタシには部屋を変えるギムはないしきょうはタマタマ満室だ、みたいな言い方するもんだからキャンセル料払ってほかに移るもんね、って言ったら、もう少しいい部屋があるのでそこに変えてあげようか、みたいな言い方してきて、アンタの態度が気に入らないからホテルを変えるんじゃって言ったら、ニッポン人を甘く見たのを後悔したらしく、キャンセル料はいりまセン、みたいにやっと客対ホテルの受付係という関係になって、シンセツにもライバルホテル系のタクシーを呼んでくれて、そのタクシーの運チャンおススメのホテルに移動したらソコはまあまあ良かったのだが、結局3日間雨だ。

ちなみにコレはジジツだから名前を上げておくと、ひどいほうのホテルはココで、まあまあヨカッタほうのホテルはタイ系のココ。Agodaの評価はアテにならないということの見本。絶対にウラがある。あんなのがFantasticなわけがない。フーコックに行くとしたら、納屋で寝るのが好きな人以外は絶対にアッチには泊るべきではないとワタシは断言する。

Hue旅行

2011-07-09 19:56:03 | 旅行





先週のはなし。ん? 日、月、火だから今週のはなしか。いや?、先週の日、月、火だ。ということは限りなく先々週に近いはなし。時間が経つのが超ー早い。砂時計の砂が最後のほうで一気に減っていくような感じだ。

ま、ソレはソレとして、Hue/フエはベトナム最後の王朝、阮/グエン朝の都がおかれた町。1802年~1945年のこと。1945年で終わった、ということはニッポンの敗戦と何か関係があるかというと、おおいにある。べトナムに侵略していたフランスが1940年にヒットラーのドイツに負けるとそのどさくさに紛れてニッポンは北部ベトナムに侵攻した。ニッポンはフランスとも手を組んでベトナム全土を支配しようとした。それに対してベトナムの共産党はベトミン(ベトナム独立同盟会)を作ってニッポンとフランスの二重支配に対抗していく。でもって1945年8月15日にニッポンが降伏すると19日にはハノイで八月革命が起こって、最後の皇帝のバオダイ帝は退位して阮/グエン朝が滅んだ、というコト。ジツに素早い動き。

ソレでベトナムは独立できたかというと、ポツダム宣言で北部は中国が、南部はイギリスがニッポン軍の武装解除をすることに決まったのに、イギリスの支援でフランスが再侵略してきて、北緯15度線から下はフランス支配に戻って、南北分裂時代が始まってしまったというワケ。
そのあとはホーチミンさんが率いる北とフランスとの間で第1次インドシナ戦争が始まって、1954年の、北西部のラオスと中国国境に近いディエンビエンフーの戦いでフランスは負けて、、コレで終わったかと思ったら、ジュネーブ会議で停戦協議が行われて、今度は北緯17度線で北ベトナムと南ベトナムに分けられてしまったというからあーら不思議。このへんがアメリカの狂気の始まりだったというコト。アメリカはどうしてもベトナムが共産主義国家になるのを食い止めたかったワケだが、何でよそのクニにまでのこのこ出てきて、そんなよけいな世話をするのか。その狂乱のアメリカが1960年に南ベトナム解放民族戦線と始めたのが第2次インドシナ戦争で、ちなみにソレを推進したのはケネディで、暗殺されて悲劇の大統領みたいに言われているが、実際は、いまのカレら自身の言葉を使えば、ケネディこそがテロ国家の首謀者だったんだな。ジャクリーヌさんがキレイ過ぎたってことかも。
そのあとのジョンソンの時代の1964年からは北部への爆撃も開始した。でもって1968年の旧正月に北のベトナム軍や解放民族戦線の総攻撃が始まって、狂気のアメリカは1972年2月にハノイを大爆撃して、その後双方譲らずに1973年のパリ協定でアメリカが撤退すると決まったにもかかわらず介入を続けた。まさに狂気。地獄の黙示録のセカイ。
で、その直後、北が総反撃を始めて1975年4月30日にサイゴンが陥落してアメリカはとうとう負けて逃げ帰っていく。長い道のりだった。ただベトナムの苦難の道はソノあとも続き、1979年には中国が侵略してきて対立関係が1991年まで続く。

その間の1966年2月にフエは最も激しい戦いの場となって王朝の建物の大部分はアメリカ軍によって破壊された。で、今回はその瓦礫を見てきた、というおはなし。

ま、ワタシは今、とっても疲れていて苦しいので、そういう時は楽しいことを考えていたいから写真は泊ったリゾートの風景とかを中心にまとめまシタ。最後のはお部屋のスケッチ。現実逃避のひとつの産物。

Angkor Wat再び/アンコール・ワット旅行その20

2011-02-27 01:26:53 | 旅行


昼を食べに前半に泊ったFCCのレストランに行ったら、愛想の悪かったウェートレスのおジョーがワレワレを見てニッコリ笑って迎えてくれた。ナーンだ、帰ったんじゃなかったのぉ、みたいな。もう一人のムッチリおジョーは前以上にムッチリニコニコでビールを運んできてくれた。こういうのは文句なしにウレシイ。
食べている途中にはトゥクトゥクのニーちゃんが道路から手を振ってきた。カレはこのホテルの看板を付けたトゥクトゥクに乗っていてホームベースはこのホテルなのだ。ナーンだ、結局ココかよ、みたいな。
着いた日を入れれば6日間。あっという間に終わったと思っても、いろんなことがあった。

午後の1時過ぎに着いたアンコール・ワットは太陽の日を真上から受けて、地面の明るさと対比的に、濃い影をくびれの下に落としていた。旧正月が本格的に始まって初日の数倍の人出。ベトナム人もかなりいた。もちろん一番多かったのは中国からの団体客で、同じ帽子をかぶって、同じTシャツを着て、同じようにワメき散らしている。
騒々しい見物ルートを外れて、広々とした芝生の上からじっくりと全体像を眺めた。聞こえてくるのは鳥の声と遠くのざわめき。時間がゆっくりと過ぎて行った。
あとは少しだけ歩き回って、3時過ぎにおしまい。


最初にも書いたがこの旅行が終わってワタシの中の何かが確実に変わった。何かが終わった、といってもいい。ワタシの一生の中の大きな節目を越えたような、イツキ寛之センセがインドの故事から引用して書いたように、一生を4つに分けたうちの2番目の家住期が終わって3番目の林住期に入ったと確実に感じられるような、、そんなキモチ。もうジタバタするのはやめて、林の中に入ってコレまでのことを振り返る時間が来たんだなと、、、、、。

そうは言ってもコッチじゃ毎日闘わなければいけない場面の連続だ。相手は歩いているワタシの肘に後ろからミラーをぶつけてくるヘタクソな運転手だったり、絶対にジブンの間違いを認めないベトナム人のスタッフだったり。ま、でもそんなのは実際タイシタことなくて、ホントウの敵、ホントウに打ち倒さなければいけない相手は、自己セキニンを認めない集団監視と足の引っ張り合いだけのニッポン社会、というか、ニッポンのカイシャ、というか、ま、ハッキリ言っておバカなヒト達。
1-0で負けてるのにロスタイムに自陣でバックパスを繰り返しているような、ギリギリまで追いつめられていても攻めない。ジブンが失敗しない一番簡単な方法に逃げている。あるいは、内輪もめを繰り返すだけ。外から見てるとニッポンはこのまま時間切れで集団ジケツでもするつもりなのかとさえ思える。
ま、ニッポンとか、カイシャとか、そんなことを考えること自体無意味なんだろうけど。


アンコール・ワット。ソコで見たモノは、ひと言で言えば無限の時間。コッカやニンゲンは必ずいつか滅びても、ソコには目に見えないモノが残り続ける。それだけで、あり余るほど十分なのだ。
またいつか旅に出よう。できれば、終わりのない遠い旅に。

Siem Reap/アンコール・ワット旅行その19

2011-02-26 02:35:59 | 旅行






最後のアンコール・ワットの前にシェム・リアープの町について。と言っても町中をじっくり見て回ったわけじゃない。夜、レストランとかに歩いていきたいと思っても、トゥクトゥクのニーちゃんが、歩くなんてとんでもなーいい、みたいなふうに言うもんだから、つい乗せられて、、実際、特に夜の治安はよろしくないという話はいろんなところから聞こえてくる。ま、実際はアブなくないかもしれないのだが、照明とかが暗くて、道に迷うコトはあると思った。

ホテルのまわりとか、トゥクトゥクからの眺めとか、そして唯一、ホテルから歩いて買い物に行った途中の風景とか、写真のとおりでシタ。
町の中心、ラッフルズがあって王さまの別荘?があって、大きな公園があって、5スターの大きなホテルが立ち並んでいるあたりは緑も多く、しかもよく手入れされていてキモチいい。特にラッフルズの東側には、はじめ見た時は大金持ちの邸宅かと思ったような平屋のキレイな、ヒトを寄せ付けない格式の高そうな建物があって、看板も何も出ていなくて、地図を見てあとでソレがやっとあのアマン・グループが経営するアマンサラだとわかった。看板出さない。すごい自信。で、1泊8万円。安くても。1泊素泊まりってわけにもいかないだろうから3泊30万くらいの余裕があれば一度は泊ってみたい。それに値するモノがソコにはあると思った。

その中心から北へ行くとアンコール・ワット。途中には大型高級ホテルや博物館、病院などが並んでいる。国道6号線を西に向かえば空港、東に向かえばきのうまでに書いたロリュオス遺跡群で、南側はカンボジアの中心に大きく広がるトンレ・サップ湖の北の端がある。このトンレ・サップ湖から南の方向にトンレ・サップ川が流れだしてプノンペンでメコン川と合流する。プノンペンのFCCカフェからはその合流地点が真正面に見える。ちなみにプノンペンとSiem Reapをつなぐ船があって格安。
街全体としては国道6号線沿い、特にロリュオス遺跡群に向かうあたりがマーケットとかが立ち並ぶ繁華街になっている。空港方向はホテルばっかりが並んでいる。

赤い花のような、種のような、ソレを葉っぱの間にぶら下げた大木を町の中で多く見かけた。足元に木の名前が表示されていて“CHHEUTEAL / Dipterocarpus alatus”とあった。遺跡の中にも、ホテルの庭にも、高さ4~50mでそびえ立っている。で、そこから赤い羽根を回転させながら種か花かが舞い落ちてくる。赤い部分はまだミズミズしく、種に付属した羽としてそれを遠くに飛ばす役目はもっていない。鳥がそれをナニかの生きモノと間違えて口にくわえて遠くに運んで行く、そういうことはあると思った。
最初に泊ったFCCの階段に落ちていたのを、珍しかったから拾って部屋の机の上に置いておいたら、翌日、掃除のおジョーに捨てられた。町の人には、当然のことながら珍しくも何ともないモノ。意識の差がそのように目に見えて表れることに気付くのは異なる文化に触れるひとつの楽しみでもある。

ロリュオス遺跡群2/アンコール・ワット旅行その18

2011-02-24 22:58:01 | 旅行


続いて残りの二つ。ひとつはロリュオス遺跡群の中心的建物、バコン。名前もシンプル。今は仏教寺院というか、仏教学校のようなモノが敷地の中に作られていて、オイノリだか説教だかがスピーカーでノベツマクナシ流れていてうるさいが、ま、意味がわからない分、耐えられた。
参道を進んでいくと大きな塔が、一見パイナップル塔のように見えるが、よく見ると付け根のあたりのタメがない、というか、パイナップルをむいた感じが、まだココには現れていない。その塔のまわりにも図面上では8本の塔が建っているが、壇の上ではなく地面に立っているためほとんど目立たない。

頂上への階段はキワメテ緩やか。ウサギ跳びでも登れる。3段くらいある段々の隅にライオンとかゾウとかが外側を向いて据えられている。ナニかをナニかから守っている。あるいはナニかに対してナニかをアピールしている。守られかつアピールしているのは中央の塔であるのは間違いないが、その姿勢の相手はナンなのか。宗教的背景を知らないと理解できない。もちろん中央の塔も、ソレはタダ実体としての塔ではなくナニかのナニかなのだ。

ロリュオスはモノ売りはほとんどいなかったのだが、いたるところに寄付を求めるハコが置いてあったりコドモがいたりして、特にコドモにはウンザリさせられる。コッチだってコノ遺跡群が守られていくならいくらだって寄付していいキブンでいるのに、イカにもいかがわしい念仏みたいなのを唱えて近づいてくるもんだから逃げたくもなる。オニサン、カコイー、ワンダラー、とか。



で、次はロレイ。午後はアンコール・ワットでシメるつもりだったから、コレが今回行った最後の寺院、にしては、あまりに崩壊のキワミだった。
ココは大きな駐車場があって、ソコからニッポンの神社の境内に上がっていくような感じで石段を上る。普通の石段。その上がり口には青年団のオニーさん、オネーさんが寄付を求めて机を出している。ま、こういうのは十分、理解できマス。寄付しまシタ。ココも仏教のお寺がすぐ脇に作られていて、おボーさんがオレンジ色の服を着て歩き回っている。遺跡自体はヒンズー教シヴァ派のモノだから、カレラの中でどういう位置づけなのか、答を聞く場面はなかった。

修復工事をしているようにも見えるが、手を付けられなくてあきらめているようにも見える。レンガの外壁に漆喰の像が残っているあたりは最初に見たプリア・コーとおんなじ。配置的には中央に小さな、ダンコンを象徴するリンガが置かれ、ソコに水を注ぐと四方に流れ出て塔の間を流れていく仕組みでほかにはない形。モノの本によれば治水事業を象徴している、ってことは、農業の豊作をココで祈願したのだろう。そういう場面をアタマの中にイメージしてその場の空気に浸ったりするのは、こういう遺跡見物の楽しみのひとつだ。

ロリュオス遺跡群、3つ見まシタ。もうこれであとはホテルに戻って荷物をまとめてチェックアウトして昼メシ食べて、そして最後にアンコール・ワットに別れを告げに行くだけ。また来るから、ってココロの中で思いはするが、ソレが実現するかどうかは誰にもわからない。

ロリュオス遺跡群1/アンコール・ワット旅行その17

2011-02-23 22:09:24 | 旅行



5日目。とうとう最終日。その日の夕方には空港に行って、ハノイ行きの飛行機に乗って、夜にはワタシにとっての日常であるハノイのアパートに帰る。夢のような5日間がもうすぐ終わろうとしていた。
で、急に思い立って行くことにしたのはSiem Reapの東側、トゥクトゥクで30分くらいのところにあるロリュオス遺跡群。アンコールに都がおかれる前のわずかな期間、ミヤコだったところ。802年~889年の話。
前の夜、トゥクトゥクのニーちゃんに昼前ぐらいに行く、って言ったら、あそこは朝日がキレイだから早起きして行ったほうがいい、と言われて、5時に起きて6時に薄暗い食堂で一番乗りで朝ご飯食べて、7時前にホテルを出た。

ソコに向かう道はアンコールからプノンペンにつながる国道6号線。真東を向いているから朝日に向かって走る。イージーライダーのセカイ。まぶしかった。
ロリュオス朝の時代はアンコール黄金時代の前段なのでクメール王朝時代の中の初期アンコール期として歴史上の区分がされている。あしたココに書く基壇状ピラミッドのBakong /バコンを中心に、9世紀の後半に集中して10か所以上の寺院が建てられた。そのうちの3つがキレイに見れるようになっている。

で、最初に着いたのがプリア・コー。「聖なる牛」という意味。3つの中で最初に建てられたモノ、ということはアンコールの遺跡群の中で一番古い。周りを取り囲む壁が低かったのか、はたまた崩壊し尽くしていたのか、広場に面して直接、奥のほうに寺院が建っているように見えた。実際は2重の周壁があって、その中央の低い基壇の上に5つの塔が建っている。
ワレワレのほかに誰もいない。レンガじゃなく石でできている表面が、ホンモノの朝日を浴びて赤く染まって見えた。ところどころ白いのは、伊豆の長八もびっくりの漆喰の跡。鏝絵のセカイ。そういうモロイものが1000年以上も残っているのは奇跡としか思えない。かなりキレイなのは去年、ドイツの協力で修復が終わったばっかりだから。ダンケ、ドイツっ。

Banteay Samre~Ta Som/アンコール・ワット旅行その16

2011-02-22 21:55:54 | 旅行




まだまだ続きマス。
遠出の帰りはまっすぐホテルに戻るつもりが、柵の外側からのパンダ見物状態にナットクいかなかったのか、トゥクトゥクニーちゃんの勧めるがまま、2か所、寄り道した。とっくに昼メシ時間は過ぎていたのに。

最初はバンテアイ・サムレ。アンコール・ワットより少し前にできたヒンドゥー教ヴィシュヌ派の寺院。サムレ族の砦、という意味デス。
通りから赤茶色の土の参道を歩くとワリと簡素な門が見えてくる。コッチが西門。外周の重厚な壁が回廊状に二重になっている。ヘビの脱皮の跡の薄皮が落ちてたりして、やや不気味。その内側に回廊があって、真ん中に中央祠堂がある。そのへんはアンコール・ワットの第三回廊の内側とおんなじ。
外周壁が重厚な分、内側の、包まれている感じが強い。静かだ。壁の彫刻が繊細で彫りが深い。中央祠堂はパイナップル型の塔になっている。機が熟してきた、ってなところ。入ってきた反対側の東門に抜けるとソコに円柱で支えられて完全に宙に浮いたテラスがあって、シンハ像がオケツを向けて並んでいる。東門が正門ってことだ。静かでいい寺院だった。

西門に戻ると、行きにあとでね、っていっておいた人形売りのおジョーがケナゲに門の前で待っていた。控えめなモノ売りには弱い。よく見るとオサレだったりして。ウシも産道を、いや参道を歩いていた。




で、空腹で倒れんばかりだったのに、ホントに帰る途中だから、ってことで、もう1軒ハシゴ。それがタ・ソム。コッチは12世紀末の建設でバイヨンと同時代。だから門には菩薩像が彫られている。ただ樹木による浸食が進んでいて倒壊寸前。
ココの見どころは彫りが深くて繊細な壁面の彫刻。女神像の表情が豊かだ。ココも西門から入って東門に抜ける。東門のほうはとくに樹木の根っこが絡みつきがすさまじくて、ギブアップ寸前状態。逆に木を切り倒したら組まれた石はバラバラに崩れ落ちるしかないくらいになっている。いかにもアンコール・ワットらしい遺跡でシタ。

そんなこんなで4日目はオシマイ。ココまで来て相当疲れてもいたが5日目はちょっと目先を変えてアッチに行くか、というキモチがフツフツとわきあがってきて、ソレはすぐに、だれにも止めることができない大きなカタマリになっていった。

Banteay Srei~地雷博物館/アンコール・ワット旅行その15

2011-02-21 22:35:22 | 旅行





4日目はトゥクトゥクで片道1時間の距離にあるココへ遠出。トゥクトゥクは基本的にバイクだから風がビュンビュンカラダに当たって寒い。特にこの季節、朝は軽井沢の高原で乗馬してるときくらい寒い、ってしたことないけど。で、思わず、ハノイで着ていたユニクロのフリースを着る。

ココはガイドブック的には東洋のモナリザがあるところ。なんだかうすら笑いをしたオンナの人の彫刻が壁にあって、その昔、占領していたフランスの、その頃はどの程度のニンゲンだったのかは知らないが、のちのドゴール政権の文化大臣、アンドレ・マルローがソレをはがして持ち帰ろうとして、空港で逮捕された、ってことらしい。近くで解説をしているガイドの、英語も中国語も韓国語もニッポン語も、そしてフランス語はどうだったかわからないが、みんなソノ中に、アンドッホェレ・マゥッフゥルローみたいな単語があった。
だからって、そんなにすごいものかどうかはわからない。なにしろ遺跡の中心部には柵があって入れない。遠くからじゃわからなかった。近くで見える彫刻に限って言えばキワメテ精緻。スバラしいものデス。

でもってココは遠くにあるからでもあるが、観光バスの駐車場やらみやげ物屋やらトイレやらインフォメーションセンターやら、その他いくつもの施設がカンペキに整備されていて、完全に観光地化されている。おそらくどこかの先進国が、文化財保護と観光開発の両立とはこうあるべき、みたいなおせっかいな考えを押し付けているんじゃないかと。まさかニッポンじゃないだろな。かなりアヤシイ。
そのうち全部の遺跡がこんなふうになったらアンコールの魅力はまったくなくなる。なにしろ近づいて見れないんだから。ロープで仕切られた外側を美術館のように並んで歩くだけ。

途中で中国人が通路のど真ん中だっつーのにカメラの前でポーズとっている。ベトナムでもそうだが、他人の迷惑にならないよう気を配る、という概念はカレラには説明つかないだろう。
あそこまで自由ホンポウに振る舞えたら、とも思うが、アソコで感じた羞恥心を伴う苛立ちは3~40年前のジブン達ニッポン人の姿をソコに見たからかもしれない。

で、遺跡を出て帰り道なのでコノ地雷博物館に寄った。受付のおジョーが戦闘服を着ていたのが印象に残った。なんで? 
コノ周りにはつい数年前までは地雷がたくさん埋められていて、もちろん今でも立ち入り禁止区域がたくさん残っている。地雷に足を吹き飛ばされたヒトが実際に目の前を歩いている。平和、って、ホントにおもての皮一枚。そしてアメリカや中国が北朝鮮と同じように対人地雷禁止条約への署名を拒否している。北朝鮮と同じようにデスよ。
ま、こういうのも見ないと遺跡観光も片手落ちってこと、ダね。

Phimeanakas~Bayonの夕陽/アンコール・ワット旅行その14

2011-02-20 14:13:02 | 旅行





夕方4時を過ぎていよいよ3日目のシメ。初日はアンコール・ワット。2日目3日目はアンコール・トムとその周辺の遺跡を見てきた。4日目は遠出して5日目はその時点では何も考えていなかった。次に来るときの楽しみのためにあえていくつか取りこぼしてある。タイ国境の山岳遺跡プリア・ヴィヘアにも行きたいが、先週からまたキナ臭くなってきた。戦いは今でも続いている。この同じアジアで。平和であればこその観光旅行だ。ワレワレは探検家じゃないし。

というわけで前の日に外からだけ見たピミアナカスと、もう一度バイヨンを、今度は夕陽に染まったところを見てみようということで行った。行った、と言っても、万博で別のパビリオンに移動するくらいの距離。
ピミアナカスは11世紀初めに建てられた、基壇が何層にも積み重なったピラミッド型の寺院。3mくらいの幅の石段の、片側60cmに木の仮設階段が取り付けられている。石の部分は擦り減ったり欠けたりしていて登る人はいない。だから片側1車線交互通行状態なので団体が来たりすると10分以上逆方向には通れなくなる。タイミングを見計らってササッと登ってササッと下りた。

上からは北側に王宮跡が見える。木造だったので土台しか残っていない、とモノの本には書いてあるが、何もわからなかった。高さ20mくらいまで登ってもまわりにはそれ以上に高い木が鬱蒼と茂っている。完成当時はアンコール・トムとしては他に何もなく、途中で建設が止まったタ・ケウがやや遠くにあって、あとは初日に夕陽を見に上ったプノン・バケンが2キロ先にあっただけ。どんなふうにこの3つが見えていたのか、簡単には想像できない。新宿西口に京王プラザと三井ビルと住友三角ビルができたくらいの状態、かな。ソレも今の人には想像できないだろうけど。

そして夕陽に染まるバイヨン。当然ながらできた当時も夕陽に染まれば同じように菩薩の顔が赤みを帯びて見えたんだろう。ソレを見てみんなどう思ったのか、なあ。前に書いたようにバイヨンは死者の門からまっすぐ来たところにあるから、死んだ兵士の霊魂がこの辺りに漂って、エチゼンクラゲのようにうごめいていたのか、なあああ。ま、そういう感じがした。

3日目はコレでオシマイ。柄にもなくパックツアー並みにかけ足状態になってきた。4日目は目標をピンポイントに絞る。

Preah Khan/アンコール・ワット旅行その13

2011-02-18 22:26:24 | 旅行



アンコールの遺跡群はアンコール・トムを中心にして見ると、西と東にはそれぞれ西バライ、東バライという大きな貯水池があって、といっても東バライはもう完全に干上がってしまっているのだが、どちらもキチっとした長方形で2km×8kmもある、もあった。で、その真ん中には小さな島があってそれぞれ西メボン、東メボンという寺院が作られた。ソレラはどちらも残っている。東メボンとアンコール・トムの間に小~中規模の寺院がたくさん作られ、ソレラについてはきのうまでに書いてきた。

そして南側にはアンコール・ワットがあって、ソレと相対するように北側にはコノ、プリア・カンがある。建てられた時期はアンコール・ワットの7~80年あとで、バイヨンができたのと、それから、鎌倉幕府ができたのともほぼおんなじ。このアンコール・ワットとバイヨンのあいだの時間に宗教の主流がヒンドゥー教から仏教に変わっていく。なのでもともとはヒンドゥー教で作られたのがこの時期に仏教寺院に改修されたりもしている。ま、ダンコンを象徴するリンガを取っ払って、仏像を置いたくらいだろうけど。もっともそのあと、王さまが交代するとヒンドゥー教徒の逆襲が始まって、仏像の顔がはぎ取られたりした。3倍返し。

で、やっぱり、アンコール・トムと建設時期が一緒ということはクニが一番栄えていた頃に建てられたということだから、アンコール・ワットの向こうを張ってどんなモノを作ろうかと相当考えたはずで、プリア・カンはとりあえず平面的には遺跡群の中でベスト5に入るくらい立派なモノ。そして、モノの本によれば単なる寺院としてではなく、さまざまな職種の人が住む村のようなものだったらしい。
見どころはたくさんある。一番有名なのは2階建の建物があるコト。日本橋の日銀本店のような形。ただしそんなに大きくはない。寺院全体が南北、東西にキレイな対称形で配置されているのが、実にビミョーに、その対称性が壊されている、その対称性に乗っからない建物のひとつがソレ。

がちがちの対称性の罠に一度はまってしまうとなかなかそこから抜け出せないものなのだが、ソレをなんとも軽やかに打ち壊してしている。ウマいっ。思わず。自在のワザ、名人のアドリブのような配置。で、ついでに2階建にしちゃった。
リンガが灯篭のように並ぶ参道とか、東門の脇の周壁の巨大なガルーダとか、そういったものもひっくるめてアンコールの中の傑作のひとつ、だろうな。