老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

逗子海岸の夕日

2006-10-31 21:58:55 | 散歩
日曜日に見てきた夕日。
じっと帆にしがみついて、横滑りするだけのウィンドサーファー。
あれくらい無意味で充実した時間はなかろう。
日が海に沈むまで、持ちこたえていただろうか。

名古屋コーチン炊き込みご飯

2006-10-29 10:42:13 | 料理
昨日の晩御飯。ツマは芝居見物、ムスコは学園祭で両方とも帰りは9時過ぎ。一人で食べて「弁護士・灰島秀樹」を寝転んで見た。気楽だ。永井荷風の晩年に通じるものがある。
で、今朝も残っていたので食べた。

名古屋出張のお土産。600円くらい。
名古屋で養鶏の近代化を進めた伊藤和四五郎氏が創設した三和グループの逸品、「三和の純鶏 名古屋コーチンとりめしの素」で簡単に作れる。また買ってこよっと。

カルボナーラ

2006-10-28 14:01:26 | 料理
我が家にはチーズがない。ワタシが乳製品が苦手だからなのだが。で、ベーコンと卵しかないとなると、、チーズ抜きのカルボナーラを作ってみた。

)スパゲッティを茹でる湯を沸かす。
)ベーコン(塊のがあればそれにこしたことはない)を1cmくらいの幅で切って、オリーブオイルをひいたフライパンでカリカリになるまで弱火で炒める。
))が沸騰したら塩を入れて麺を茹ではじめる。麺はリングイネがいいという説もある。
)卵1個+黄身だけ1個分(2人前の場合)をボウルの中でかき混ぜて、)の茹で汁を若干加えとろみをつける。卵は冷蔵庫から出してすぐだと冷たすぎるので注意。
)麺が茹で上がったら湯を切って一気に)に放り込んでかき混ぜる。麺の熱で卵がとろとろしてきたら)のベーコンを入れてさらにかき混ぜる。
)皿に盛って粗挽き黒コショウをたっぷりかけて完成。簡単っ!

結論的にはバターでもいれればよかったかも。味に深みが足りなかった。チーズがあればワタシだって入れるのもヤブサカではないのだが。
ところでカルボナーラとはカルボ=「炭」が降り積もったような、という意味らしい。黒コショウが炭の代わりである。これまでカルボナーラといえば卵だと思っていたから、コショウが主役とは思いもしなかった。

脇役が主役のように扱われるってことはどの世界でもよくことだが、作家をさしおいて編集者がしゃしゃり出たりとか、デザイナーより営業屋が会社の中で出世したりとか、、ウグッ、、すぐ現実に戻ってしまうところがカナシイ。思わず卵に同情。

『ららら科學の子』 矢作俊彦

2006-10-27 15:42:25 | 文学
3年前に発表されて、読もう読もうと思いながら、とうとう文庫本になってしまった。うれしいような、カナシイような。

30年前に学生運動のさなか、警官をコロシてしまった男が文化大革命の終わりかけていた中国(そういう状態の中国)に逃げ、テレビもないような農村で過ごした後に密航船で日本に戻る。30年前の自分の家が地上げ屋に地上げされた挙句、金はだまし取られ、親は死に、妹だけが派手な生活をしていることがわかる。そして、・・・。そんな話。

ヒトサマにはどうでもいいことだが、ワタシは本に関しては食わず嫌いなところがあって、矢作サンの本も初めて読んで、なんとなく違和感はあった。ストーリーとしては面白いのだが、30年前に男が妹に買ってあげた絵本のことが最初から最後まで、意味ありげに持ち出されたり、昼間っからビール飲んでた女子高生と男が親しくなって、心を通わせていく、そのいき方があまりにあり得なさそうでありふれているというか、、うまく計算されて作られているというのがぼんやりした印象。
とはいえ、小説としては読んでおもしろかった。今のニッポン社会への批判としても共感できるものがあったし。

ららら科學の子、というのはもちろん鉄腕アトムの主題歌の一節。作中にもでてくるが、何年か前に流されていたお茶のコマーシャルで、中国の女の子が中国語で口ずさんでいたあのシーンを見てこういう物語がひらめいたんだろうと想像した。
あのコマーシャルの、完全に思想的な時代がひとつ過ぎ去った中国の風景と、鉄腕アトムという、ニッポンの高度経済成長期のヒーローの組み合わせから感じられる、40~50代のワレワレのような日本人がもっている時間の喪失感のようなものが、全体に匂いのように流れている。

『カポーティ』

2006-10-14 17:15:19 | 映画
朝日新聞の夕刊に毎月1回掲載される沢木耕太郎氏の映画批評、「銀の森へ」で紹介(10/2)されていた映画。銀座の1館だけで上映されていたが、今日から拡大されたようだ。休日に多摩川を越えて出かけるのには余程の決心が要るワタシとしては大変ありがたい。

「ティファニーで朝食を」などで知られる作家、トルーマン・カポーティが田舎町で起きた一家4人惨殺事件の犯人の心の闇に迫ろうとする小説「冷血」を書く過程で、犯人の若者に近づき小説のネタをうまいこと引き出したものの、やがて逆に若者の死刑がなかなか執行されないことで追い詰められていく。このあと、カポーティはアル中になって一作も書かずに死んでいくわけだが、沢木氏も書いている通り、途中のカポーティの描き方がやや物足りないものの、真の表現者としての作家の苦しい生き方を十分に見せてくれている。

日本でも宮崎勤とか永山則夫とか、死刑囚に近づいて作品のネタにしようというのはどこでもよくあることで、作家にとって死刑囚はよっぽど魅力的な存在なんだろうということがよくわかる。ただ、カポーティの場合は自分自身が子どもの頃から親からも疎外されて孤独な人生を歩んできたことや、しゃべり方で明らかなようにカンペキなオカマであることから、死刑囚の若者への同情がつのり、単なるネタとして利用しきれなかったことが悲劇だったということだ。
苦しい映画と対照的に、静かな風景が美しく印象的。

主演のフィリップ・シーモア・ホフマンはこの作品で第78回アカデミー賞主演男優賞を受賞した。
監督はベネット・ミラー。

10/14、川崎 チネチッタ
2005年 アメリカ映画

『薬指の標本』 

2006-10-10 09:28:49 | 映画
小川洋子さん原作の小説がフランスで映画化されたもの。原作は標本室の中だけの男と女の話だが、映画では港に出入りする船乗りとか、のぞき見する子どもとか、いろいろオヒレが付いている。それが効果的だったかどうかはむずかしいところ。
いずれにしても象徴的、暗示的、思わせぶり的なゲイジュツ的映画で、特に男が若い女に贈る赤い靴がこの映画のキモになっている。男による支配と女からの服従の象徴として、この赤い靴だけを履いて全裸になる場面や、最後のところなど。もちろん若い女がなくした薬指もいろんな意味を持たされている。

50過ぎの標本づくりのおぢさんと、20そこそこの超かわいいオジョーちゃんのこんな話、ありえないと言ってしまえばそれまでだが、ありえない世界を目の前に描きだすのが映画づくりだともいえるわけで、わけのわからない標本(音楽の標本とか!)つくって生活成り立つのかなんて考えてはいけないのだ。
若い女役のウクライナ出身のモデル、オルガ・キュリエンコが魅力的。
ディアーヌ・ベルトラン監督は女性でこれが監督としては2作目で、『アメリ』のもとになった作品で助監督などをやっていたとのこと。

2005年 フランス映画 エレファント・ピクチゃー配給
渋谷 ユーロスペースにて

ミズナとアサリのスパゲッティ

2006-10-08 18:17:04 | 料理
昨日の晩ごはん。グチュグチュ西瓜のあとでさっぱりしたものを食べたかった。

)スパゲッティを茹でるためのお湯を沸かす。
)フライパンにオリーブオイルを入れてニンニクを炒めたあと、適当に切ったマッシュルーム、赤ピーマン、アサリをぶちこんで炒める。
)この辺でスパゲッティ用の鍋に塩を入れスパゲッティを茹で始める。
))にお湯をコップ3杯くらい加え鰹だしの素を溶かし、醤油と酒、バターで味付け。
)グツグツ煮たったら、5cm位に切ったミズナを放り込む。
)茹で上がり1分前にスパゲッティをあげて)のフライパンに入れる。パセリの乾燥みじん切りを振りかけながら混ぜあわせれば完成。

バターをスプーン1杯入れたのがミソ。それがないと和風うどんになってしまう。

『西瓜』 

2006-10-07 19:04:04 | 映画
土曜の午後に見るのにちょうどいい卑猥な映画である。
ひと言で言えば音によるエロス。

渇水のため水道が止まってしまった真夏の台湾で、西瓜を水代わりに飲むような生活に耐える若者たち。SEXにも西瓜を使って、2つに割った真っ赤な実に男が指を突っ込んでこねくりまわす。そのグチュグチュする音がSEXそのものの音と重ねられ、せりふのほとんどない映画の中で性的な興奮が盛り上がる。
ストーリーはあるようなないようなだが、映像と音で、見るものの心理ではなく生理に訴えかけるような映画だ。
西瓜まみれになったSEXの後で、エレベーターに乗った女の体を蟻が這い回り、狂ったように服を脱いでいくシーンがよかった。

台湾ではこの映画が去年の興行収入1位だったそうで、みんなでこんな映画見て、あの国も盛り上がったことだろう。
それに比べてニッポンでは路上キスくらいで大騒ぎして、しかも主婦相手のお昼のワイドショーが代議士やニュースキャスターのモラルを問題にしてるあたりは滑稽のキワミだ。
主婦の皆サンは本当は代議士は1回で果てたのか、それとも2回3回とがんばったのかを知りたいんじゃないのか。それから不倫好きのキャスターはどんなテクニックで攻め立てたのか、代議士がどんな風にヨロコンダかを知りたいんじゃないのかね。
「人のセックスを笑うな」って小説を見たとき、題名として大いに共感した。みんなひとがどんなセックスしてるかなんてわからないし、わかったところでわが身を省みれば笑えるもんじゃあない。意外な人が意外な楽しいセックスをして充実したジンセイを送っているかもしれないわけだ。

それにしても最後のシーンはさすがのセックス好きのニッポン人もびっくりというくらいの激しいものだった。喉を通り過ぎる、というか、そういう感じの音のリアルさがすごい。それだけでも見る価値がある映画である。おまけに突然挿入されるミュージカルシーン?も味わい深いものとなっている。

ツァイ・ミンリャン監督作品
2005年 台湾映画 プレノンアッシュ配給


『血族』 山口瞳

2006-10-07 00:48:59 | 文学
山口瞳の名作。
自分の母方の祖母の家業が母親によって自分に隠されてきたという疑いにはまり込んで、母の死後、それが何であったかを突き止めていく話。
家族ではなく、血のつながりとしての血族として、自分の血の中に流れているものの深さを描いている。
本人が作中で何度も書いているが、それを知ったところで何になるのかということを、それを知らなければ自己の存在が否定されるかのように追い求める姿が、本当に痛ましい。

誰でも自分の生まれや育ちについて一つくらいは疑問を感じるものをもっている。
ワタシの場合は自分の本籍がどんなところかを学生のときに見に行って、神戸の三宮駅前の超一等地であったことがわかって、それが一体何を意味するのかという思いは既に30年近く消えないままなのであるが、結局それについては知らされないまま、今となっては知る方法もなくなっている。
昭和のはじめに全財産をもって台湾に進出した出発点として、それを本籍に残したのか。あるいは終戦後、全財産を奪われて帰国した際に、そのときの自己を否定して過去に立ち戻るためにそのようにしたのかと、想像はいくらでもできるが。
3代くらいでも血筋を遡ればすぐに明治のはじめの頃の風景が目の前に広がるようで、それ自体は楽しいことかもしれないが、結局は、それを知ったところで何になるのかと、振り出しに戻ってしまう。
どんなことをしても自分の中に流れている血は換えようがないということだ。

全然話は違うが、ワタシは他人の子どもをかわいいと思ったことがない。子どもという存在そのものがもともと好きではないということかもしれない。
一方で自分の子に関しては自分で言うのも変だが溺愛状態で、自分の命よりも大切であると言い切れる。
にもかかわらず、自分の子が時々嫌な存在に見えることもあって、それは子の中に自分自身を見てしまう時なんじゃないかということが最近になってわかり始めた。
明日できることは今日やらない、とか、結果が見えている勝負はがんばらない、とか。
ほんとうにどうしようもない血のつながりだと、この小説を読んで、あきらめるしかないと思った。

文春文庫版 1982年刊。

高橋哲哉 判決を「異例」にせぬために

2006-10-01 17:03:03 | 評論
国民性とか民族性とかは実際に存在するもので、また、簡単に消えるものではない。最近ヒットした日本映画をみても、結局は戦争で死ぬことを美化しているから、日本人が戦争好きな民族であることは否定しようがない。
だから先日の国旗・国歌訴訟の判決も、どうせ控訴すれば石原東京都が勝訴するのは明らかと思われている。

そんな空気の中で高橋哲哉東大教授がこの訴訟に関連して、教育勅語に十分な拝礼をしなかったとして教育の場から追放された明治24年の内村鑑三不敬事件を例に挙げ、今の日本が100年以上も前の時代に逆戻りしていると指摘している。
今回の判決に関しては、石原知事の、バカな裁判官もいるもんだ、的コメントを、ジミン党政権お抱えマスコミが繰り返し垂れ流したことで、判決が「異例」で「画期的」で「歴史的」なものであることをコクミンに印象付けることに成功しているが、高橋氏は現憲法や現教育基本法に極めて忠実な判決として評価している。
しかし、わざわざ「現」と書いているのは今まさに、アベ政権がそれらを改変しようとしているからで、そのことに対する危機感に直面してわれわれに何ができるのかと高橋氏は問いかけている。

小中学生が国旗に向かって直立不動で天皇を賛美する国歌を歌う。その声量を教員がマイクで測り声の小さな子どもを叱る。今の日本はそんな国で、総理大臣はへらへら笑いながら戦争に向かって突き進んでいる。
戦争で死ぬのは結局のところコネも金もない一般庶民であり、二世、三世が大半を占めるコッカイ議員共は高みの見物を決め込むというわけだ。
リスの目をした日本人は一体どこまでだまされれば気が済むのだろうか。

朝日新聞 2006年9月30日 朝刊より。