老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『妻の家族』 ラッパ屋

2007-03-31 13:42:52 | 演劇
オトコにとって妻の家族とはビミョーな存在である。当然ながら真っ赤な他人なのに、ジブンの親が死んだりすると、通夜のドサクサにまぎれて、今日からワタシのことを父親だと思ってくれ、、みたいな、落とし穴のような状況が口をあけて待っている。ツマが長女の長女だったりすると、女子大生の従妹がいて、突然オニイサンなんて呼ばれたり、そういう時は思わずほおが緩むが、まったく未知の他人に馴れ馴れしくされるのは基本的にはキモチのいいもんじゃない。
だからこの芝居のパンフを見たとき、世の中のオトコはみんな同じような境遇で、そういうところでうまく生きていくにはどうすればいいか、そういう芝居かと思った。

ラッパ屋は以前から個人的なつながりもあって見たいと思っていたのだが、20年目にして初めて見た。以前は「サラリーマン新劇・喇叭屋」を名乗っていたが、いつの頃からか単に「ラッパ屋」になった。とはいえ、芝居の傾向が一般庶民の日常生活の隠れた部分の可笑しさのようなものを描いている点はずっと変わりがない。演出家の人柄なのだ。
今回のこの芝居は、いろんな失敗や悩みを妻や夫に隠して抱え込んでいる家族のひとりひとりが、新しくその家族に入ってきた末娘の夫である男の言動をきっかけに、家族としてのつながりを取り戻していくという、実にカンドウ的な情景を描きながら、それをドリフターズもびっくりのドタバタ喜劇の中で、その根本的なところで、ニッポン社会の無意味な競争の行き着く果てをわらい捨てるようなところがあって、その辺が一番おもしろかった。

世の中には失敗をしてもまわりが取り繕ってくれたり、犠牲になって死んでくれたりして、ジブンに責任が飛んでこないようになっている人たちの集団がある。役人社会とか、子会社や孫会社をドレイのようにつなぎとめている大企業とか。ミノモンタのように、死者にムチ打つように、失敗をした企業を責め立てて喜ぶような勘違いニンゲンもその仲間だ。
一方で、他人の失敗まで背負い込んで、日々、針のムシロの上を這いつくばるようにして生きていて、自動販売機のお釣りが10円余計に出たくらいの幸せを喜ぶしかない人もいる。クルシイが仕方のない生き方だ。
で、作者はコッチの側の人たちを優しく描いている。仕方ないのは前世がヒトバシラだったからに違いない。あるいは神経細胞の揺らぎがいつも悪いほうにしか揺らがないのかもしれない、として。実際、その程度の差でしかなくて、それでもって死ねばみんな灰にしかならないというわけだ。

俳優は全部で12人。木村靖司や、弘中麻紀、福本伸一など、うまくて飽きさせない。
それにしても久しぶりに腹がよじれるくらい笑って、瞬間的だが、生きるキボウすら感じた。

脚本・演出 鈴木聡
3/29、紀伊国屋ホールにて。この後、1回だけだが大阪公演もある。

『ながい旅』 大岡昇平

2007-03-27 07:11:58 | 文学
太平洋戦争末期に捕虜として捕らえた米兵を、裁判にもかけずに死刑にしたことで、敗戦後、B級戦犯として絞首刑にされた東海軍司令官、岡田資(たすく)中将の裁判を追った作品。と書くと、いかにもそんなことしたら死刑になるのも仕方ない、と思えるだろうが、立場によってモノの見方はまったく変わってくるというわけで、コレを読んで、この前のイラク戦争開戦のときに、ドイツ人作家のギュンター・グラスがアサヒ新聞に投稿した「強者の不正」ということばを思い出した。
この場合の強者もアメリカのことを指しているわけだが、なんの証拠もないのに、というか、石油の利権を略奪するだけのために、独裁者という、都合のいい標的があったことからイラクに侵略したブッシュに対して、それを「強者の不正」といって非難していることに、この本の中で詳細に記述されたアメリカ側の攻撃が、同じような「強者の不正」だったと思えるような内容になっている。

岡田中将は裁判を「法戦」ととらえ、戦争そのものには負けたものの、ニッポン民族として、その一方的に決め付けられた戦争犯罪を裁く裁判には負けられないとして、凄まじい執念で強者の側の裁判官や検察官に挑んでいく。
岡田中将が捕らえた米兵は、国際法に違反して、一般市民を殺害するために名古屋周辺を無差別に爆撃していた者等で、捕虜としてではなく、戦争犯罪人として捕らえた、というのが岡田中将の主張で、多くの証言から、それは誰が見ても明らかに見える。犯罪人だから、戦時の混乱の中、略式の裁判で死刑にした、という実にわかりやすい流れなのだが、占領側による裁判は、自国民向けのポーズとしても無罪にはしようとしない。
もちろん岡田中将は、自分が無罪になることを求めて戦っているのではなく、戦争という混乱の中で、勝った側が負けた側を一方的に裁くことが正しいことなのかということを、戦争を共に戦った人間同士として訴えている。原爆をはじめとして、アメリカ側にも裁かれるべきことがあるだろうに、ということだ。

負けたんだからしょうがない、という考えも当然あって、それが今の卑屈なアメリカ属国主義を生んでいるのだが、無差別爆撃という、今日なお続けられている「強者の不正」に、一人の人間として立ち向かい、アメリカ側の裁判官や検事の一部にも少なからず共感を呼ぶ。そういう微かな勝利を得て、岡田中将は満足して処刑台に上がっていく。出版された頃の、高度経済成長を経たニッポン人に、奇妙な自信を与えた本だったろうと思う。
こういう裁判では必ず登場する、完全にニッポン人の側に立って、真剣に弁護するアメリカ人弁護士の姿も、今では遠い、民主主義の香りを伝えている。

大岡作品のいつもの例にならって、本文のあとに後記があり、その後に膨大な参考文献リストが続く。ただそれで終わればいいものを、残念なことにこの本に限っては上坂冬子氏の「解説」が、求められてもいない押し売りのガラクタのように本を汚している。

新潮文庫版、1986年刊

『パフューム ある人殺しの物語』

2007-03-24 08:18:50 | 映画
あと少しで50歳になると夫婦二人で映画が2000円。今は一人で1800円だから約半分になる。夫婦一緒じゃなければいけないというのも変な話だが、戸籍抄本が必要なわけでもないだろうから、それはどうにでもなる? 片方が50歳以上ならいいので、入口の前で、札持って立ってたりして。
で、まだその割引は使えないので、昨日は8時までシゴトして、9時からのレイトショーへ。1200円だからそれでも安い。

派手に宣伝していた映画で、少し違ったものを想像していたが、内容はかなりキワモノ的オカルト風猟奇殺人ホラーコメディとでもいうか、ニッポンのマンガを映画化したような、嘘っぽい絵を偏執的にリアルに描いたようなモノだった。
最初の、主人公の男が生まれるシーンから、アリエネーって状況をこれでもかってディテールで見せてくる。18世紀のパリが本当にあんなだったら、ブンカだゲイジュツだとは言ってられない光景だ。
ストーリーはフシギな才能を持って生まれたこの男が、奴隷から成り上がって、香水をつくる天才的な調香師になっていき、最後は、、、。香水で体臭を消していたパリの上流社会の中で、最高の香りはやっぱり若いオンナの体から発散される匂いそのものだと、、この辺は同感だが、その匂いを保存するために何も殺さなくたってと思うのはワタシだけではないだろうが、それでは映画が成り立たない。なんで髪の毛まで切るのか、とか、この男を利用してひともうけした人間が簡単に死んでいったり、とか、PG-12の映画なのだが、子どもに説明つかないことばっかり。ただコノ、話のこまかな筋をいちいち通さないというつくり方は、奇妙に心地よく感じられた。

主演はベン・ウィショー。イギリス人の若手俳優で、最新作ではボブディランの伝記映画にも出ているというから見てみたい。ダスティン・ホフマンが落ちぶれた調香師役で中盤を盛り上げている。コロサレ役の若いオジョーちゃんはレイチェル・ハード=ウッド(ほかにもたくさん)。15歳であのカラダっ!というほど露出はしていないが、ゲイジュツ点10点満点の演技だった。
監督・脚本、トム・ティクヴァ。
2006年、ドイツ・フランス・スペイン合作映画。

映画を見ているあいだ中、なーんか、キツイ香水の匂いが気になった。

『ある島の可能性』 ミシェル・ウェルベック

2007-03-21 16:22:35 | 文学
映画『素粒子』がやっと一般公開される。ドイツ映画祭で上映されたのが去年の夏だから、やっぱりコレはいろいろとムズカシイというギロンがあったのだろう。
ウェルベックの書くモノは、だれもが抱える精神病や孤独、ゴミのように捨てられる老化、教祖がチンポ丸出しの宗教(ニッポンじゃ、どの新興宗教もコノ類いだが)、バーのカウンターの下でのSEX、それにクローン技術が花形の科学、等等。ネガティブな思考を嫌い、この先に破滅しかなくてもひたすら前進あるのみのニッポン社会では受け入れられ難い作家であることは明らかだ。この新作も、キワメテ地味に発売された。本屋に並んでいるのを見て始めて知ったくらい。

話の骨格は、現代に生きる人間が書いた自伝を、2000年後の末裔が読むことによって体験する、それをどう受け入れるか、というような話。
2000年後には今の人類は猿のような存在になって、旧人類の遺伝子を引き継いで高度に進化した「ネオヒューマン」が繁栄している。「ネオヒューマン」は50年くらいで死に、死ぬとすぐに次の代がすでに成長したモノとしてどこかから送られてくる。肉体はほとんど変化しないで、精神(そいうものがあるかどうかはわからないが)が成長して老化していく。SEXはしない。食べ物も食べず塩の錠剤を飲んで生きている。もちろん働かない。コンピューターのようなものを操作して、どこかの誰かと対話しながら、それだけで生きている。

描かれた未来の一部は既に現実のものになっている。これまでは人間が「社会的な存在」であったのが、インターネットによって組み替えられた世界では「社会」が存在しなくなっている。個々の人間が無作為かつ非継続的に点と点でつながっている。
農業や工業などの労働はどこかの野蛮な国で行われていて、新しい社会では働かなくても食べていける。広告料という霧雨のようなものが絶えず降り注いで、画面上の操作だけで金が吸い上げられどこかに溜まっていく。
あらゆるものがリース化される。モノは大部分がリースなのは当然として、SEXもリース(電話一本で配達される)、そのうち家族もリース。引き継ぐものがないから、子どもをつくる意味がなくなる。ペットとしてなら犬や猫を買ってくればいいだけだし、それもそのうちリースになる。

ウェルベックはこういう現実を発展?させている。人間の肉体はクローン技術によって滅びることはなくなるから、ある程度の年なると誰もが自分からすすんで死んでいく。そして精神のほうは、みんなが「人生記」を書いて、それを後の世代が読んで体験を共有していく。後の世代にとってはそれだけが体験になる。
そういう中で、主人公のダニエル1の末裔であるダニエル25が、わずかに生き残っている猿のような旧人類の社会に帰ろうとする。ダニエル1の「人生記」に書かれた愛とかSEXのある人間関係の、リアルな感触のようなものを求めて。

まあ、あまり具体的なことは書かずに。。
読み手の側に何か問題があるのか、『赤い鯨と白い蛇』と同じテーマのように思えてきた。人間が肉体と精神=記憶によってなりたっているモノだとして、一方はその記憶が消えていくことの怖れを描き、こちらではクローン技術と書かれた記録によってそれが永遠に引き継がれていく。ただそれが2000年間続くことで、実体のない仮想の記憶に変化して、それに人間が耐えていけるか、ということがテーマになっている。
人間が老化していくコトを積み残したまま既に始まっている仮想社会のなれの果てが、目の前に突き出されている。

中村佳子訳
角川書店 2007年刊

富士山 070320

2007-03-21 14:02:37 | 窓際
Auroraを見たあと、飛行機で福岡へ。
横浜上空からは、船の姿もはっきり見えた。長い桟橋の2/3くらいを占めて、やはり大きい。ランドマークを横に倒したくらいの長さだから。

富士山はこの前よりは雪が減って、黒い筋が山頂近くまで延びていた。
麓の人工スキー場のゲレンデだけが、真っ白に光って異質に見えたが、冬がやっと過ぎていったことを実感できた。

Aurora@大桟橋

2007-03-20 09:24:53 | 散歩
昨日は名古屋日帰り。今日はこれから福岡へ。まさにビンボー暇なし状態だが、早起きしてコレを見に行く暇はあった。見るのはタダだし。
7時過ぎに港に着いたが船はまだ見えず。帰る人までいて、ありゃ、、っと思ったが、少し遅れてベイブリッジの下をぎりぎりに通り抜けてきた。

このAurora号もイギリスの船で、QE2とほぼ同じ7万トンクラス。今年大桟橋に入港するものとしては最大規模である。今日は午後に5万トンクラスの飛鳥Ⅱも入港して大桟橋の左右の岸壁に並んで停泊する。これは滅多に見ることのできない光景だ。

やはり船の中は年寄りの夫婦が圧倒的に多く、窓越しに朝ごはんを食べている人も見えた。楕円形の8人くらいが座れるテーブルの窓際に二人で座って。のんびりしていて、うらやましい。
イッタイ自分は引退したらこういうことができるのか。
家でも売ればできそうだとわかって、港をあとに、シゴトに向かった。

『赤い鯨と白い蛇』

2007-03-17 21:20:02 | 映画
78歳のせんぼんよしこ監督の映画初作品。5人の女優(一人は子役だが)だけによる、オンナの幸せって何?、というような映画。
痴呆症が始まりかけて、忘れてはいけないことにケジメをつけたい老女役に香川京子、物事のシロクロをはっきりつけないと気がすまなくて、それが原因で夫に逃げられた女役に浅田美代子、その子どもで逃げた父親を憎みきれない少女役に坂野真理(まあまあぎりぎり我慢できる子役)、偽の健康食品を売り歩いて世間の目を避けて生きる中年オンナ役に樹木希林、香川京子の孫役でカレシの子どもを身ごもってしまったキャピキャピ女役に宮地真緒、という顔ぶれ。
戦争中の悲恋話を背景に、「自分に正直に生きる」というのがテーマであることは明らかだが、、話題が多すぎるのか、映画のつくりとしてはかなり説明的で、キャピキャピ女のうるさいせりふだけが耳についた映画だった。

古い茅葺屋根の家の敷地に住む白い蛇が、女に幸福をもたらすオトコのメタファーとして重要な要素なのだが、エンディングに本物の白蛇を登場させなくてもよかったんじゃないかと。それに赤い鯨というのが、戦争末期に考案された潜水艦による特攻攻撃の、その潜水艦が夕陽を受けて赤く見えるというだけのことだったり。ラジコン模型の潜水艦が、夕陽に向かって走っていく絵とか、かなり興ざめだし、全体の流れの中では必然性に欠けて、映画的なイメージの広がりをあえて拒絶するような構成になっていた。
とはいえ、人間が肉体と記憶によって成り立っているという視点から、年老いて、その記憶が薄れていくことの恐怖と諦めのようなものを描いている部分には、少なからずココロ動かされる場面があったのも事実。生真面目すぎる女を演じた浅田美代子が、これまでとは違って新しく見えた。

横浜伊勢佐木町のはずれのシネマ・ジャック&ベティで。
向かいの古い映画館の取り壊しが決まって、最後の上映が行われていた。

2005年、クリーク・アンド・リバー社製作。

『堺港攘夷始末』 大岡昇平

2007-03-13 07:51:01 | 文学
テレビの健康番組のテキトーさ加減が問題になっているようだが、あんなもの本気で見ている人がそんなに多いのかと驚いた。で、それだったらもっとモットもらしい、NHKの「そのとき歴史が動いた、、」みたいなのはどうなんだって、この前見ていて思った。マツダイラさんの喋りも押し付けがましくて胡散臭さぷんぷんなのに、ああやって見せられるとホントのように思えてくる。でもこういう本を読んでみると、テレビのほうは筋書きが先にありきの、都合のいいつくりものでしかないことがわかる。歴史はそんなにシロクロはっきりした、キレイなモンじゃない、ということだ。

大岡昇平氏の最後の作品であるコレは、明治維新前夜、大坂・堺港で土佐藩兵がフランス水兵11人を殺した「堺事件」を、『レイテ戦記』と同様に、多くの歴史資料を読み解いて組み立てなおしたもの。
港に入り込んで勝手に測量などを進め、陸に上がってはニッポン人の風習を踏みにじるような行動を平気でおこなうフランス兵に対し、ケタ違いの軍事力を前に卑屈にも黙ってみているニッポン人。それに我慢できなくなって、純朴な田舎ザムライが引き鉄を引く。みんな、よくやった、と思いながら、これから築いていくクニとクニとの関係の中で、相手の要求に従い、犯人として20人を差し出して、11人がフランス人の目の前で切腹させられる。
そういう大きな流れの中で、ひとりひとりの若者が何を考え、どう行動したかを、戦争体験者としての視点で書いている。若くして腹を切らされた者を、特攻隊で敵の戦艦に突っ込んでいかされた兵士になぞらえるようにして。けっしてすべてが、言われるままにスナオに潔く死んでいったのではないことを。そしてそのことが、民族としてのホコリをかろうじてつなぎとめたということを、大岡さんは、最後の作品で書きたかったのだろう。

『レイテ戦記』と同じように、国家と個人の関係がテーマになっている。コレは普遍的なテーマだ。カイシャとサラリーマン、選手とチーム、力士と相撲協会、、みたいな。
組織のためにジブンを殺すということが美しいことであるという、ニッポン人が民族の遺伝子の中で捨てきれない意識を思い起こさせてくれる。それこそが国民性というもので、よかれ悪しかれ、それが失われる時は国が滅びるときといってもいいくらいのモノだ。

24歳、西村左平次の辞世の句、

 風にちる露となる身ハいとわねと
 こゝろにかゝる国の行すゑ

作品の後半ではフランス兵殺害に加わりながら、くじ引きや、フランス側からの切腹途中での中止要請から、死なずにすんだ兵士たちの、残りの人生を追っている。
生き残り兵は四万十川の奥のほうに流刑となり、死んだものを思いながら、残りの長い人生を生きる。その心の中のどうしようもないモヤモヤのようなものがよく伝わってくる。
そこには、フィリピン戦に加わりながら生き残った、作者自身の境遇が投影されている。

中公文庫版、1992年刊。2004年限定復刊。


鎌倉・来迎寺のミモザ

2007-03-11 16:55:24 | 散歩
鎌倉に来迎寺(らいこうじ)は二つあって、こちらは材木座のほうの来迎寺。門のところにあるミモザの大木が有名で、やはり暖冬の今年は盛りを過ぎようとするぎりぎりのところだった。

黄色の房状の可憐な花が、細長い薄緑の葉とコントラストをなして美しい。
ミモザは本来、オジギソウなどの仲間の属称で、このミモザは房(ふさ)アカシア、または銀葉(ぎんよう)アカシアが正式名称。オーストラリア原産だがいつ頃日本に入ってきたかは不明。
南フランスのカンヌでもこの花が咲く3月下旬にミモザ祭りが開かれるというから、季節を彩るのにふさわしい明るい花といえるだろう。

小雨が降ったりやんだり。お揃いのリュック背負って、似たような服装したジジババ共の仲間には入れられたくないが、晴れた日に鎌倉辺りのの古寺巡りをするのも悪くないと、、老後の練習もだいぶ板についてきた。

Queen Elizabeth 2 @大桟橋

2007-03-06 09:09:04 | 散歩
昨日からの春の嵐の影響か、入港の予定が1時間半も早まって、朝5時に起きて大桟橋へ。駅へ向かう途中で入港開始の汽笛が聞こえ、思わず足を速めた。
関内駅で降りた電車からは同好の士が約4名。ほとんど競歩。着いたときにはちょうどベイブリッジをくぐる頃で、6時10分、ほぼ日の出と同時に着岸した。

朝日を浴びて、やはり本当に美しい。
船体が緩やかな曲線で包まれていて、その輪郭が明瞭だ。近くで見ると皺も見えるものの、それさえも時間の堆積を美化している。
ただ巨大なだけの船なら他にもたくさんあるが、こういう優美さは、部分の集合した全体から醸し出されるものだ。

Queen Elizabeth 2 は毎年、世界一周航海で日本に寄港するが、どうしても京都や伊勢志摩のほうが外国人旅行者には人気があるのか、横浜を素通りして大阪港や神戸港に行ってしまう。横浜に入港するのは3年ぶり。
客船ターミナルには貸し切りバスが何十台も待ち受けて、乗客たちをいろんなところへ連れて行く。箱根?とか、皇居?とか、鎌倉?とか、とりあえずニッポン的などこかへ。なにしろ今日の夕方には出港してしまうので、彼らは意外と忙しいのだ。

船内の人たちと手を振り合って、いつかは向こうの側に、と、はかない夢を思いながら、、次は20日のオーロラ号も、また早起きして。