老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

エビの米料理

2008-07-27 22:45:30 | 料理
暑い。昨日のテレビで、多治見の最高気温が39度だかそれくらいまで上がったってやってるわきで、駅前のロータリーに置いた温度計は46度を指していた。もともと天気予報で発表される気温なんて百葉箱の日陰の涼しいところの温度だから、実際の道ばたの温度はそれより遥かに高いわけで、まあ、プラス7度ってみておけばいいってことがわかった。だからって、どうなるわけでもないが。

で、暑いときこそあったかい料理ってことで、コレはスペインのリゾットみたいなもの。パエリアは浅い鍋で作るがARROZと呼ばれる米料理は深鍋でじっくり煮込む感じ。

)はじめにアサリを水に入れて強火にかけて、殻が開いたら身を分けておく
)オリーブオイルを熱したところに玉ねぎとニンニクのにみじん切りを炒め、色が付いたら米を入れて軽く火を通す
)そこに)の茹で汁とアサリの身を入れて、ぶつ切りにしたエビとお湯を適当に入れて煮込む
)あとはサフラン少々と塩で味付けしながら米が柔らかくなるまで弱火で煮込む

モノの本にはオマールエビか伊勢海老って書いてあったが、普通のエビでも十分うまい。サフランの黄色とエビの赤が食欲をそそる。

料理はまさに民族の文化で、どういう素材にどういう味付けをして食べるかを知ると、そのクニそのものが見えてくる。そういう意味でインド料理とスペイン料理は世界の2大料理で、それにもうひとつ加えるとすると名古屋料理ではないかというのがワタシの考え。

熊野名物 「めはり寿し」

2008-07-26 08:53:43 | 料理
死のロードもほぼ全勝で無事に帰還。特に最後の福岡は敗戦処理、というかクレーム処理で登板したものの逆転ホームラン的な快勝で、、まあ、どおってことない。家に帰ったらまさに虫プロ、いや蒸し風呂状態で、ワタシの場合、夏に5キロは痩せるからわざわざサウナなんか行ったことない。

それはさておき名物にうまいものなし、とはよく言ったもので、そもそも名物ってほかの町に広まらなかったからこその名物なワケで、ほかに広まりすぎると、元祖だか、本家だか、醜い争いになるだけ。
で、広まらない理由は別にうまくない、というのが最もシンプルで、コレなんかその典型。それなのに紀州に行けばとりあえず食べてみようかという気になる。

まん丸の酢メシのおにぎりに梅干や高菜の刻んだのを埋め込んで、それをまた高菜の葉っぱを漬けたので包んでいる。酢メシがかなり酸っぱいのと、高菜も梅干も共に酸っぱい系でキワメテ単調な味わいだが、店店で微妙な違いを競っているのであろう。
ちなみにコレは大阪空港で買った「可吉」と書いてコウキという店のもの。割烹「浜」の極上寿司飯使用、と謳っている。「消費」期限が買ったときの2日後の24時で、少なくとも2日半はもつというところがスグれているといえばスグれている。ぎりぎりクサル直前くらいのほうがうまいのかもしれない。甘みとか出て。

大阪空港の焼き鯖寿司

2008-07-22 08:23:34 | 料理
暑い、、がそれほどでもない。何度でも言うが我が家には一般庶民が「エアコン」と呼ぶところの汚染空気循環式冷房機がない。環境のためにレジ袋節約しましたくらいのことじゃ何もやってないのと同じ。少なくとも50年前の生活に戻らないと世の中、悪化するばかり。

それはさておき今日から死のロード。大阪、福岡へ3泊4日の打ち合わせが1日8時間、合計32時間のデスマッチ。大阪はもっと暑いらしいからどうなることやら。
で、これは先週末に大阪に行っていたツマのみやげ。太陽の光で焼いてある。わけない。

『まほろば』@新国立劇場

2008-07-21 16:44:19 | 演劇
このシリーズ、結局3つとも見てしまった。こういうおもしろい企画を立てると官僚上がりで天下りのオバハン理事長に嫌われて、芸術監督をクビになるってことか。アタシ、あの人嫌い、みたいに言ってるんだろうが、そう言っている姿は臭うような老醜をさらしているとしか見えない。

それはさておき、今回のは劇団モダンスイマーズを率いる蓬莱竜太作、栗山民也演出の、なんと言うか、オンナの佐賀、いや性をテーマにした傑作。6人の女優が10代から70代までの、50代を抜いた6人の女を演じている。
ニンシンとかヘイケイとか、オトコには理解のしようがない動物としてのオンナの部分にオトコである作家がもぐり込んで、そこはやっぱりクニのまほろばだと言っているような内容。
役者の大袈裟な新劇そのもののような芝居が気にはなったが、国立であればそれも仕方ない。全体的にはしっかりしたまともな作りで、前作の前田司郎サンとは大違い。アレはアレでワタシ的にはヨカッタのだが。

舞台は長崎の山奥の何代も続く旧家。家を守る母の元に東京で働いている長女が夏の祭りに帰ってくる。家には父親が誰なのかわからずに娘を産んで、いままた妻子あるオトコとくっつくべきかどうかを悩んでいる次女が、そのオトコの娘をあずかっている。そこに次女の娘が都会から突然帰ってきて、妻子あるオトコとできてニンシンしていると告げる。周囲を気にして家を守る母はそういうことを恥と思いながらも、そんなことはどうでもよくて、長女が誰とでもいいから結婚して、跡継ぎを産んでくれることだけを願っている。
そこでヘイケイだ。長女はまだ40になったばかりだが生理がとまってジブンはヘイケイしたと言う。そんなことはあるはずがないという母と、ヘイケイだと叫ぶ長女。どたばたお笑いでとなりに座ったかなりカワユイ女の子も笑いすぎて泣くくらい。
で、結局、長女には覚えがないものの、酒を飲むとあとはまったく覚えていないというクセが災いして、というか幸いして、カイシャのダメな上司と飲んだ夜に家まで送られてそのあと、、覚えていないがデキてしまったということで、それを産むかどうかというこれもまたオトコには理解できない状況はさておき、母はすっかり喜んで、祭り太鼓が頭の上に鳴り響いて、妊婦が二人もいるコノ家がまほろばだという結末。

「まほろば」とは「まほら」から転じて、すぐれた立派な場所のこと。
倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣山籠れる倭しうるはし と、古事記にある。
母役は三田和代。長女役の秋山菜津子が、田舎から出てきてキャリア姉さん頑張ってます的なオンナをそれっぽく演じていた。

2008.7.20

『今夜、列車は走る』

2008-07-20 08:40:45 | 映画
失業、貧困が映画のテーマになるなんて、格差切捨て社会の日本では考えられないコト。今の世の中を切り開いてきたものの、用がなくなって捨てられるダンコンの世代、いや、団塊の世代のような人たちがアルゼンチンにもいて、絶望の果てに反乱を起こしたものの出口が見つからずモガいていたら、そのムスコ、ムスメの世代が明るい明日を信じてスイスイと進んでいく、そんな社会派直球映画。ブンカ的な溝をそこここに感じながらも、深く染み入るような一編であった。

鉄道と共に栄えたアルゼンチンの小さな町。時代の流れに取り残されて鉄道の廃止が決まる。強制的な自主退職を強いられた鉄道員たちは金で釣られて分断され、それぞれの失業後の生活を生きていく。ところが世の中はかつての繁栄を支えたジブン達を必要としていない。よくある話だ。
子どもが病気で入院しても、保険に入っていないからまともな治療も受けられない若いオトコの家族や、タクシーの運転手になってマジメに働こうとしても追いはぎにあって痛めつけられるオトコなどがいる一方で、権力の側にすり寄ってマンマといい生活をして生き延びているオトコもいて、、これもよくある話だ。
それでもって溜まりに溜まったものが爆発してスーパー強盗を決行するオトコがいて、話は一気に盛り上がって哀しいながら、やや取ってつけたような明るい未来!みたいな結末を迎える。かなり無理のある展開だがそれは映画の世界。

こういうことの背景にあるのは、今、世界中を覆っている格差社会。銀行のカネ貸し業やメディア産業がのしてきている一方で、農業やら重工業やら鉄道などの世の中の基盤になっている産業が衰退していく。
虚業が実業を押しのけて広がっているわけだが、そんなものだけで食べていけないのは今の食糧危機を見たって明らか。アメリカのバイオ燃料投機のせいでアフリカで餓死者が出ている。それを救うためと称してヒモ付き援助をして利権を独占する。そろそろ大戦争が起きてもまったく不思議じゃない。
あの本当にどうしようもないバカ息子が大統領になったことが全ての始まりであるのも、明らか過ぎるくらい明らか。

新鋭ニコラス・トゥオッツォ監督の第1作。
2004年、アルゼンチン映画。
08.7.19 横浜・黄金町 シネマ ジャック&ベティにて。来週はココでこんなのがある。


パエリア ②

2008-07-19 09:10:24 | 料理
第1回夏休み、というわけで、ツマが旅行に行き、ムスコはクラブ活動で、、完全自由だぁぁ~~っ。と叫んで、今日はとりあえず昼間はネットでお馬さんの切符買いながら、夕方から映画見に行って、明日はまた芝居。カネとイノチの続く限り。

で、これは先週の日曜に作ったパエリア。だんだんコツがつかめてきた、といってもワタシは本当のパエリアを食べたことがない。何が本当かはさておき、イロイロと写真を見ると本場のものはこんなに具が山盛りになっていないようで、だからまあ、パエリアのようなものと言っておこう。なんてケンキョ。

2度作ってわかったのはウチのパエリア鍋は米1合が限度で、2人分用だということ。老後にはぴったり。で、今回はエビが硬くならないように先に茹でて、その茹で汁も使いながら米が柔らかくなったところで再投入、というワザを使ってみた。結果としてエビは当然うまかったが、コメ全体の味はどうだったか。
基本的にパエリアはコメを食べる料理であるから、具はダシをとるためと考えるべきで、こんな風に具を完全に別に作って飾りみたいにするのはいかがなものかと思いませんか、そこの奥さん。

というわけで、次回はもっと具が目立たないのをつくる。

蜻蛉玉@ギャラリー元町

2008-07-13 07:49:25 | アート
おとといまでは涼しくてもの足りないと思っていた夏が、昨日一気に来てしまったようで、散歩に出たものの、ヨレヨレになって帰ってきた。

とりあえず寄ってきたのはココ
この前、高円寺で買った蜻蛉玉の作家のひとが展覧会をやっていて、狭いギャラリーも空いてると思って入ったら、次から次に、オンナのひとばっかり入ってきて、暑苦しさで意識がモウロウとしかけたところで不覚にもツマにコレを買わされた。

作家のたかはしともこさんはケッコウ豪快っぽいひとのように見えた。わずか2、3センチのガラスの玉の中にメルヘンを埋め込んでいく、ああいう繊細な手ワザを駆使しているときは別人になるんだろか。人は見掛けによらない。

で、蜻蛉玉って今はやってるの?? 流行に疎いので、あの混雑はまったくの想定外で、まさか買うなんて、、ネコの小指ほども思ってなかったもんだから。

『歩いても 歩いても』

2008-07-06 07:33:24 | 映画
出張強化WEEKが終わって金曜の夜にレイトショーでコレを見た。レイトショーもコレが最後か、というのももうすぐ夫婦割引が使えるようになるから。いや、やっぱり一人で見たいエロっぽいのとか、安く見ようと思ったらレイトショーに行くんだろうな。そういう元気さがあればの話だが。

題名はいしだあゆみの名曲「ブルーライトヨコハマ」から。歩いてもぉ~っ 歩いてもぉ~っ 小船のよお~おおぉ~にぃ~、ってあの部分。ジンセイの晩年にさしかかった親を見ながら、歩いても歩いても世間の波に揺られていつか沈没してスクラップになっていく、というような話を小腸、いや象徴している。(昨日に続いてくどいか)

医者を廃業してすることのない原田芳雄と樹木希林の老夫婦の家に、かつて家を飛び出して勝手に暮らしていて今は失業中の阿部寛と子連れで結婚した夏川結衣の夫婦が1年に一度のオツトメで帰ってくる。海で溺れた子どもを助けて代わりに死んだ兄の命日ということで。
家には阿部の姉のYOUが存在感のない夫と騒がしくて可愛げのない2人の子どもと先に来ていて、親が死んだら家をもらおうと、イイ娘ムコ夫婦を演じている。
阿部のほうは跡継ぎになることが期待されていた兄に比べて出来が悪かったことから父親とうまくいってなくて、しかも子連れのバツ一オンナを連れて帰ってきたもんだから嫁さんに対する嫌みに耐えながら1日を過ごす。そういう1日の中で親の老いをひしひしと感じ気持ちが微妙に変化する。
前の芝居と同じで人間が生まれて混じりあって消えていく、そういう波が押し寄せて引いていくようなおんなじことの繰り返しの中で、一度立ち止まってゆっくりその意味を考えてみたら、みたいな映画だ。

ストーリーは大きなヤマもなくタンタンと進んで終わる。カンドーの押し売りみたいなのを求めているヒトには退屈のキワミのような映画だが、映画としてはそういう退屈さも含めた全体で何を表現できているかが重要なのでコレはコレでよくできている。
唯一の強い表現だったのが死んだ兄が助けた子どもが大人になって毎年線香をあげに来るのだが、大学を出て就職もできず、ただぶくぶくデブになっているだけで汚い靴下履いたそのオトコに樹木希林がやさしく言うところ。また来年も必ず来てね、って。オトコが帰ったあとで、あんなどうしようもないヤツのためになんで息子が死ななければならなかったのかと父親はムナシクやりきれない思いを抱く。もう来てもらわなくていいんじゃないかという阿部に対して樹木希林が静かな怒りをこめて言う。そう簡単に忘れられたんじゃたまらないって。生かしながらコロシ続けるような場面だ。

夏川結衣のツレ子が、死んだ人に話しかけて何になるのかと繰り返し聞く。年をとると、たくさんの死んだヒトのタマシイにまどわされ続けて生きなければならないが子どもにはそれがわからない。越前クラゲの大群のように体の回りに霊魂がまとわりついている。それでもってだんだんその重みに耐えられなくなって底のほうに沈んでいく。

監督、原作、脚本、編集が是枝裕和。樹木希林とYOUはさりげなく腹の裏側のほうまで見せるような演技。
2008.7.4 川崎・チネチッタにて

たつみ寿司@福岡・岩田屋

2008-07-05 17:17:34 | 料理
久々の太巻き。先々週の出張中に福岡で食べたモノ。
卵焼きがかなり大勢力を誇っていて、まわりを干瓢、椎茸、鱈のすり身、ほうれん草、三つ葉などが取り囲む。気分的にはもう少し米が食べたいところ。

たつみ寿司は本店が長浜にある、あら・ふぐ料理の店ということで、一度そういうところであら料理を食べてみたい。どういうものかわからないけど。
岩田屋では上の階に寿司屋も開いている。地下2階の店ではこの太巻きのほかに小ぶりの稲荷寿司が名物。一口でいけそうなくらい小さい。

で、クレグレも断っておくがワタシはこの太巻きがうまいから世間の皆サンにオススメしたいとか、そんなことはネコの鼻の穴ほども思っていない。もともとどこどこのアレはうまいとか、そういうことにはまったく興味がない。太巻きの類型化とでもいうか、コレクターの一種だ。もちろんうまければそれに越したことはないが。

だからウナギなら中国産だろうがベトナム産だろうがニッポンの四万十川産だろうがやばいクスリが使われてなくて、ほどほどの値段で、そこそこうまければなんでもいい。そんなことにこだわるのはメメしい。いま話題になっている食品産地偽装とか、ハッキリ言ってくだらんのだ。残飯喰っておいてさすがにキッチョーはおいしいとヨロコンデきたオバハンたちがいまさら騒ぎたてるのはジブンの恥さらし以外のなにものでもない。
テレビ見てたらスーパーに売っている食材は全部疑わしいから、ジブンで産地まで直接買いに行くという料理屋のオッサンが出てきたが、それも病的な自己満足に過ぎない。

何食べてもいつか死ぬわけで、累積したイエローカードを次の試合に持ち越しながら、混じりあうこと、消化すること、消えることだけの一生なのだ。

『混じりあうこと、消えること』 @新国立劇場

2008-07-05 09:15:25 | 演劇
夜中に虫が手の甲を這いまわるのに眼が覚めた。暗闇の中で虫は見つからず、手に残る痒みだけが現実として朝まで残った。それも今は消えて、あれはホントにあったのかさえも、、。考えてみれば記憶の全ては同じようなもので、こうして何かに書いておく以外は全部あぶくのように消えていく。
特にこんな悪い夢みたいな芝居なんて、ホントに見たのかさえ、あっという間に疑わしくなる。だからってわけでもないが、思い出しながら何か書いておこうかと。

コレはこの前見た「鳥瞰図」に続く「シリーズ・同時代」の2作目。脚本は今をときめく五反田団の前田司郎サン、演出もときめきっぱなしの白井晃サン。破綻の予感を秘めながら、いきなりすっ飛んで始まった。
喪服のオトコが葬式帰りに小さな公園に来るとオンナと若いオトコがコンクリートでできた鳥の頭のようなシェルターの中で何かしている。オンナはジブンがこの水底の町で最初の人間でアナタはもともとピラニアで私の体の一部を食べて人間になったワタシの夫だという。で、若いオトコはアナタの息子で、お父さんよ、あいさつしなさい、みたいにして話が始まる。
オトコのほうは記憶をどこかに捨ててきたと言い何も覚えていないが、それならそれでという感じで家族っぽいことを始めようとするが、家庭のダンランってなんだったっけ、みたいに、現代シャカイの中の崩壊した家族像みたいなものがテーマかと思わせながら今度はアナタのムスメよってな感じで若いオンナが登場する。
若いオンナはひもにつながれていてニンゲンにまだなりきっていないピラニアで、オトコが白い歯を見せると獲物だと思ってクビもとに食いつく。。。と、ここまで書いて話がまともじゃないことは明らかで、で、コレはナニかを小腸、いや象徴している寓話のようなものだろうという気持ちで見続けるがそう簡単には割り切れない。

オトコがオンナに、ムスコはもう死んだんだということを何度も言う。もうあきらめよう、みたいに。だから、オンナは息子が死んだショックで気が狂っておかしくなっているという設定であれば話は簡単になる。死んだ人が生きてる人と同じように舞台に出てくるのはこの前の前田サンの芝居でもあったことだ。それにオトコが誰の葬式帰りかということも、それがムスコの葬式帰りで、もう全てを忘れたいみたいになっているということであればツジツマが合う。
だがそれなのに、そうじゃない。そういう解釈をすることを拒否しているような芝居と書くと簡単すぎるが、解釈以前のところに大事なものがころがっていて、それを見てくれ、みたいな芝居なのだ。

タイトルの混じりあうことというのはセックスのことで、消えることというのは死ぬことを意味している。この辺はわかりやすい。前田サン本人の文章を読むと、一人の独立した人間として生まれたワレワレは、結局は死んで消えていくのにどうしてわざわざ他と混じりあおうとするのか、と。
家族というあぶくのような幻を産みながら人間が世代交代をしつづけることの意味というか、二酸化炭素とか、年金とか、コジキ役人の接待タクシーとか、どうせいつかは死ぬと思えばホントにどうでもいいそういうことを取り除いたところにある根源的な問題のようなものをあぶりだすことこそが芝居というゲイジュツの意味だろうというようなことを言っているようで、その辺はタイヘンわかりやすい。

白井晃サンは、演出家の役割は脚本を誤読することと書いていてなかなかの力作。オトコ役の國村隼サンもこんなんでいいんだろうか風にはみせない板についた感じで、圧巻はやっぱりオンナ役の南果歩サマで、こんなヒトにならもてあそばれても文句言いません的なカワイイ女に見えた。

2008.7.1 新国立劇場小ホール