昨日の続きで、お目当ての重森三玲によるお庭のこと。
東福寺の方丈に彼の代表作がある。方丈というのは、禅
宗寺僧侶の住居のことなんだけど、さすが東福寺、大き
い。訪問客もほとんどいないから、よけいに感じる。
その四方が重森三玲作の庭で囲まれている。もともと「方
丈の四周に庭園を巡らせたものは、東福寺本坊庭園のみ」
だとか(東福寺公式サイトより)。
靴を脱いで上がると、右の小さな「東庭」と左の大きな
「南庭」が目に入る。「東庭」は7本の円柱で構成されて
いて、北斗七星を表現。
「南庭」は枯山水の様式に、新しい試みが合わさってい
る。特に6mの細長い石が使われれいることが目を引く。
昨秋、三玲が作庭した当時を復元する試みが、別のお孫さ
んの重森千(作庭家。重森庭園研究所代表)さんによっ
て行われたとか。もうその砂紋はないやろうけど、初期の
息吹が感じられたかも。
「南庭」を曲がると「西庭」の市松模様の庭で、ここから
が三玲の真骨頂だと思う。当時はさぞ斬新だっただろう、
今だって。
重森三玲(1986-1975)は独学で作庭を学び、1935年頃~39年
に日本の庭園を調査したものが『日本庭園史図鑑 全26冊』とし
て結実。
凄いなぁ。40歳過ぎてるし、大学に職があるわけでもないし。
39年といえば第二次世界大戦が始まった年。盧溝橋事件は37年。
東福寺の調査を手がけていた時、造園計画が持ちあがり、永代
供養(つまりボランティア)で庭づくりを引き受ける。大きな
チャンスだったのかもしれず、これが実質的なデビュー。以降
たくさんの作庭を手がける。
そして右に曲がると、かの「北庭」。「西庭」の市松模様を受
け継いだ配置が崩れていき、そして最後はまばらになって消え
ていく。なんという独創性。
廊下というか縁側に座って眺めていた。4つの庭のつながりや、
物語を思い浮かべながら。
東福寺の方丈に彼の代表作がある。方丈というのは、禅
宗寺僧侶の住居のことなんだけど、さすが東福寺、大き
い。訪問客もほとんどいないから、よけいに感じる。
その四方が重森三玲作の庭で囲まれている。もともと「方
丈の四周に庭園を巡らせたものは、東福寺本坊庭園のみ」
だとか(東福寺公式サイトより)。
靴を脱いで上がると、右の小さな「東庭」と左の大きな
「南庭」が目に入る。「東庭」は7本の円柱で構成されて
いて、北斗七星を表現。
「南庭」は枯山水の様式に、新しい試みが合わさってい
る。特に6mの細長い石が使われれいることが目を引く。
石組みの基本は神や仏を宿す躍動的な立て石にあった
が、江戸中期を過ぎると石を寝かせて配置することが
多くなる。
重森三玲は昭和期において立石本意のモダンな枯山水
の復興に努力し、抽象的な表現を模索しながら現代的
な石組みを作り上げている。
重森三明さん(孫) 重森三玲庭園美術館館長
が、江戸中期を過ぎると石を寝かせて配置することが
多くなる。
重森三玲は昭和期において立石本意のモダンな枯山水
の復興に努力し、抽象的な表現を模索しながら現代的
な石組みを作り上げている。
重森三明さん(孫) 重森三玲庭園美術館館長
昨秋、三玲が作庭した当時を復元する試みが、別のお孫さ
んの重森千(作庭家。重森庭園研究所代表)さんによっ
て行われたとか。もうその砂紋はないやろうけど、初期の
息吹が感じられたかも。
「南庭」を曲がると「西庭」の市松模様の庭で、ここから
が三玲の真骨頂だと思う。当時はさぞ斬新だっただろう、
今だって。
重森三玲(1986-1975)は独学で作庭を学び、1935年頃~39年
に日本の庭園を調査したものが『日本庭園史図鑑 全26冊』とし
て結実。
凄いなぁ。40歳過ぎてるし、大学に職があるわけでもないし。
39年といえば第二次世界大戦が始まった年。盧溝橋事件は37年。
東福寺の調査を手がけていた時、造園計画が持ちあがり、永代
供養(つまりボランティア)で庭づくりを引き受ける。大きな
チャンスだったのかもしれず、これが実質的なデビュー。以降
たくさんの作庭を手がける。
そして右に曲がると、かの「北庭」。「西庭」の市松模様を受
け継いだ配置が崩れていき、そして最後はまばらになって消え
ていく。なんという独創性。
廊下というか縁側に座って眺めていた。4つの庭のつながりや、
物語を思い浮かべながら。