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ねがうこと、ゆだねること

重森三玲作庭 in 京都東福寺

2015-02-06 | art
昨日の続きで、お目当ての重森三玲によるお庭のこと。
東福寺の方丈に彼の代表作がある。方丈というのは、禅
宗寺僧侶の住居のことなんだけど、さすが東福寺、大き
い。訪問客もほとんどいないから、よけいに感じる。

その四方が重森三玲作の庭で囲まれている。もともと「方
丈の四周に庭園を巡らせたものは、東福寺本坊庭園のみ」
だとか(東福寺公式サイトより)。

靴を脱いで上がると、右の小さな「東庭」と左の大きな
「南庭」が目に入る。「東庭」は7本の円柱で構成されて
いて、北斗七星を表現。



「南庭」は枯山水の様式に、新しい試みが合わさってい
る。特に6mの細長い石が使われれいることが目を引く。



石組みの基本は神や仏を宿す躍動的な立て石にあった
が、江戸中期を過ぎると石を寝かせて配置することが
多くなる。

重森三玲は昭和期において立石本意のモダンな枯山水
の復興に努力し、抽象的な表現を模索しながら現代的
な石組みを作り上げている。
   
  重森三明さん(孫) 重森三玲庭園美術館館長

昨秋、三玲が作庭した当時を復元する試みが、別のお孫さ
んの重森千(作庭家。重森庭園研究所代表)さんによっ
行われたとか。もうその砂紋はないやろうけど、初期の
息吹が感じられたかも。

「南庭」を曲がると「西庭」の市松模様の庭で、ここから
が三玲の真骨頂だと思う。当時はさぞ斬新だっただろう、
今だって。



重森三玲(1986-1975)は独学で作庭を学び、1935年頃~39年
に日本の庭園を調査したものが『日本庭園史図鑑 全26冊』とし
て結実。

凄いなぁ。40歳過ぎてるし、大学に職があるわけでもないし。
39年といえば第二次世界大戦が始まった年。盧溝橋事件は37年。

東福寺の調査を手がけていた時、造園計画が持ちあがり、永代
供養(つまりボランティア)で庭づくりを引き受ける。大きな
チャンスだったのかもしれず、これが実質的なデビュー。以降
たくさんの作庭を手がける。



そして右に曲がると、かの「北庭」。「西庭」の市松模様を受
け継いだ配置が崩れていき、そして最後はまばらになって消え
ていく。なんという独創性。

廊下というか縁側に座って眺めていた。4つの庭のつながりや、
物語を思い浮かべながら。