
満州新京 或る日本人家族
満州の統制経済、ある意味では国家社会主義的経済といわれるものだが、それを実験?といっては疑問も残るが、その携わった人脈が戦後の高度成長を成し遂げたとの記述が「歴史街道」という月刊誌に掲載されている。
小生も若かりし頃、満州国古海総務次長や関東軍高級参謀片倉衷氏、あるいは自治指導部、満鉄調査部、はたまた満州浪人といわれ戦後右翼の大立者、終戦証書に署名した安倍源基内相など、小僧だったせいか異様な厚誼があった。
そのなかで理屈はともかく日本人の特性を基にした数々のエピソードを聞いたことがある。またこの特性を融解させ個々バラバラにしてしまう誘引要素もその中にあった。
よく国家の為とは言うが、それは「不特定多数の利他の為」と彼らは理解していた。そして、その「他」と同様な憂いと喜び、そして危機感にともなう衰退を先見して対応をする、といった指導的立場の基本的要素について始終議論していた思い出がある。
明日の飯や自己矛盾を他に抗する不満にしている部類には理解しがたいものだが、彼ら善男善女の行く末を含めて真剣で、ある時は喧嘩腰の討論があった。
余談だか、毎回意見開示のお鉢が回ってくるが、戦後生まれは小生のみなので彼らにとっては小僧である。すると「この○○(小僧)にとって我々は何が出来るか!」と重鎮が大声で不規則発言をする。
続けて喝破する「年寄りは早く死ぬことである!」
頷き、誰も怒る人はいない不思議な空気である。
たしか高度成長のはしりのころだった。もちろん新幹線に執念を燃やした十河国鉄総裁も満州人脈だ。
勤勉、正直、礼儀、忍耐、まさにそれなりのぶつかり合いだった。
だが、呉越同船というべきか、現地で抗論し合った縁者の葬儀や祝儀事にはことの他大切にしていた。
所得倍増は三倍となったが、人は浮かれ、人心は微かになった。
しかし、彼らのような真剣な議論は聞くことがない。
理屈は如何様にも付くハナシだが、昨日東北部(旧満州)の当時大財閥の老いた縁者が尋ねてきた。 若かりし頃落合の尾崎行雄宅に寄宿して自由学園に留学していた。2,26事件の時は自分の部屋の押入れに重臣が潜んでいたと笑いながら思い出話を語る人物でもある。
「私たちは国家とはどのようなものか、民族を超えた人々の人情、そして不特定多数に対する貢献や連帯について日本人から学んだ」
その縁者の親類には満州国張景恵総理もいるが、面白いことを言っている。
「日本人は四角四面だ、あと戦争に二、三回負けたら丸くなるだろう・・」
確かに彼の地では丸くならなければ生きられないだろう。
しかし、日本人は四角四面でなくては経国が成り立たない。
儒教だ、教育だと騒がしくもなるが、検証、論拠を借りるまでも無く、順目、逆目も「なるほど」とその有効性を飲み込んでしまう双方の言でもある。
人には色々ある、歴史の隘路もあるが、敢えて問うまい。
小生は縁者の言葉に、久々無条件に耳を澄ました。
【満州人脈との会は毎回30名ほどで、建国の精神的支柱であった笠木良明氏を偲ぶものである。墓地は世田谷豪徳寺であるが訪れる人は少ない】
《満州についての参考拙書ですが》
http://sunasia.exblog.jp/d2007-11-06
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