ま、いいか

日々の徒然を思いつくままに。

「海うそ」「女たちのサバイバル作戦」

2014-06-10 14:09:07 | 
「海うそ」  梨木香歩  岩波書店  2014.4.9

 昭和の初め、人文地理学の研究者、秋野は南九州の遅島へ赴く。
 かつて修験道の霊山があったその島は、豊かで変化に富んだ自然の中に、無残にかき消された
 人びとの祈りの跡を抱いて、彼の心を捉えて離さない。
 そして、地図に残された「海うそ」ということば……
 五十年後、不思議な縁に導かれ、秋野は再び島を訪れる。

 いつもながら、梨木さんの文体はしっくり馴染める。
 穏やかな気分で読み進めた。

 民俗学的な内容でなるほどと思ったのは、明治政府の神仏分離に関して、

  「政府は、ともかく神道を国体として確固たるものにしなければならなかった。キリスト教とともに

  迫ってくるような諸外国に対しても、すっきりと論理的に説明できる力強い独自の宗教が欲しかった。
  そういう意味で、本当は、仏教よりも排除したかったものがあった」
  「民間宗教です。この島でいえば、モノミミ、が、まず標的になりました」
  「もともと、この国では神道といっても、何やらえたいの知れない、それこそ八百万の神々がいたわけです。
  けれど、国の礎を確立するために、敬い尊ぶべきは皇統の神々、また、皇室に命を奉げた忠臣、
  日本国民はそういう「素性正しい」公認の神にこそ誠を尽くさねばならない。他の「神々」はいらない」

 海うそ、というのはニホンアシカのこと。
 カワウソに対して、ウミウソ、ともいうのだが・・・

 五十年後に息子と訪れたシーンで、蜃気楼を見る。
 蜃気楼も、海うそ。

  海うそ。これだけは確かに、昔のままに在った。かなうものなら、その「変わらなさ」にとりすがって、
  思うさま声を上げて泣きたい思いに駆られた。

  幻は、森羅万象に宿り、森羅万象は幻に支えられてきらめくのだった。
  世界を見つめる初歩の初歩のようなこの認識は、また森の奥のような常新しいきらめきを放ち、
  「色即是空の続き」は、経のなかでは空即是色だったということを、今さらながら私に気づかせた。


「女たちのサバイバル作戦」  上野千鶴子  文藝春秋  2013.9.20

 日本の働く女性たちは、生きやすくなったか。
 答えは、イエス・アンド・ノー。
 疲弊する総合職、行き詰る一般職、将来が見えない派遣社員。
 自由を手に職場進出したはずなのに、なぜか。
 そこにはネオリベ改革の影があった。

 ネオリベとはネオリベラリズム、新自由主義と約される。市場原理主義と呼ばれることもある。
 市場による自由競争がもっとも効率の良い資源の交換と分配を達成すると看做して、その競争を
 制約しそうな規制を次々に緩和しようとする立場のこと。市場による公正な競争を通じて、
 優勝劣敗が決まる。日本では「構造改革」とも呼ばれ、これを旗印にしたのが小泉純一郎。

 1999年、男女共同参画社会基本法と同時に、「君が代・日の丸」法こと国旗国歌法が決まった。
 ネオリベの進行にともなってナショナリズムが強化される一方でジェンダー平等制作も推進される
 傾向がある現れ。

 男女雇用機会均等法に、多くの女性団体が反対した。
 「男女雇用平等法」なら、OK。
 「結果の平等」と「機会の平等」の違い。
 職場における女性差別を結果としてなくすというのと、男並みの機会を均等に与えるから男と対等に
 伍して競争に勝ち抜け、というのとでは、法律の種子がまったくちがう。
 「機会の均等」なら認めようとしたのは経営者団体。

 他の先進国と比べ、日本では婚姻外出生率がほとんど増えていない。せいぜい2%。
 明治半ばまでは婚外子が大変多かったが、民法の成立を機に急減。戦後はとくに激減。 1960年代半ばには四十歳時の累積婚姻率が100%に近い「全員結婚社会」が生れた。

 娘の高等教育は母娘二代がかりの達成、と上野さんは感じるという。
 母親の世代の女の怨念が、娘の選択の背後にゆらめいているような気がする、とも。
 自身を振り返って、確かにゼロではないよなぁと、妙に納得(^^;

 少子化の子育ては、絶対に失敗できない子育て。
 だから、少子化のもとの若い親たちは、かつての親たちが決して味わったことのない子育ての重圧がある。
 子どもが多いと、アタリハズレもあって当たり前だが、たったひとちなら…ふつうに育ててあたりまえ。
 絶対に失敗は許されない。後がないから。

 子どもがひとりなら、日本では女児が好まれる。
 これこそ日本にある女性差別の効果だと、上野さんは仰っている。少子高齢化社会のなかで
 「ケアする性」としての女性の地位が変わらないからこそ、女児選好が強まったのだ、と。

 男女雇用機会均等法とは、同じような競争のゲームに、これまで参入を許されなかった女も、
 参加を認めてやろう、というもの、ゲームのルールはもともと男向きにできており、女が参加したからと
 いって、それに変更はない。
 圧倒的に男に有利にできているので、女は負けるべくして負ける確率が高い、つまり家庭責任の
 ハンディなしで、そのうえ帰れば主婦である妻にかしずかれて、自分の全生活を仕事にコミットできる
 男のほうがゲームの勝者になる確率が高い。しかし、タテマエ上、ゲームのルールはジェンダー中立的に
 できていることになっているから、勝てば本人の努力と能力とを賞賛され、欧文の報酬を受けとり、敗者は
 自分の能力と努力が及ばなかったことの責めをわが身に負い、勝者の配当を承認する、ことになっている。 
 言い換えれば「機会均等」とは少数の勝者を、多数の敗者が支える原理。
 この原則のもとでは、勝者は敗者に対する理解や同情を持たない。他方、敗者は勝者に対して
 羨望や嫉妬を抱く。

 現在の自分の状態が「自己決定・自己責任」の結果となれば、たとえその状態に不満があっても、
 他の誰かにぶつけることができない。そうなれば、自分の外側に敵を見つけて批難することもできないし、
 女にとって共通の敵を求めることはむずかしくなる。分断され、孤立していく・・・

 男性の未婚率はずっと上昇し続け、2010年のデータでは、四十代前半でも27.9%。

 「ひきこもり」とは、ひきこもることのできるだけの「子ども部屋」という住宅インフラ、
 夫に経済的に依存して家事育児専業となった妻、という「近代家族」の装置抜きには成り立たない現象。
 付け加えるとすれば、息子の状態と妻の苦境を見て見ぬふりをする無関心・不干渉の、父にして夫の存在。 

 2000年代に、ネオリベ改革とそれが推進した「男女共同参画」政策へのバックフラッシュ(ゆりもどし)。
 そしてナショナリズムが同時進行する。
 ネオリベは競争と選別の原理。使える者は誰でも使うという点では、すくなくとも「機会の均等」
 「競争の公平」という原則を持っている。その点では、性別も国籍も問わないユニバーサリズム
 (普遍主義)の原理。他方、ナショナリズムは「男らしさ」「女らしさ」が大好きで、国境と国籍が
 大事な排外主義。根拠もないのに「ニッポンがいちばん」というローカルな特殊主義。
 ほんらい相容れるわけがないのに、なぜだか結託し、その結託からネオリベが利益をえるから。
 女叩きは、保守 conservtive ではなく、反動 reactionary だった。

 フェミニズムを聞いたことも見たこともない若い女性たちは、自分たちの力を、他の女とつながるために
 ではなく、他の女を出し抜くために使っていると思えてならない。

 キャリアウーマンの妻は夫に、職場で不利になるかもしれないような育児参加を望んでいない。
 例えば子どもを引取りにいかねばならなくなったとき、「なぜいつもわたしばかりが」という思いを
 呑み込みながら、自分が会社を早退する。 エリート女の泣き所、がここにある。女の自縄自縛。
 エリート女は自分の夫がエリートでないことを許せない、ということ。

 このところ、企業の世界ではコンプライアンスやCSRなどとならんでダイバーシティがブーム。
 「多様性」といえばすむのに、わざわざカタカナでいうのは、企業組織内の多様性を高めることが
 グローバル・マーケットを生き延びるための喫緊の課題だという合意が、世界基準になってきているから。

 ダイバーシティとは、異文化共生のこと。年齢も世代も性別も国籍も異文化。情報とは、異文化の
 接点に生れる。あるひとにとってあたりまえのことがべつのひとにとってはあたりまえでない――
 その落差からノイズ(ざわめき)が生れる。情報とはノイズが転換したもの、ノイズなきところに
 情報はない。ということは工学系の情報論者にとって常識。
 国籍の違う異文化のメンバーを組織に迎え入れることが必要なら、その前にまず「女性」という
 「異文化」を集団に迎える学習をしたほうがよいだろう。

 そして上野さんは、「ゴー・バッゥ・トゥ百姓ライフ」という。
 この「百姓」は網野さんのいう「百姓」で、文字通り「百(くさぐさ)の姓(かばね)」、
 つまり多様な職業の組み合わせのこと。
 回帰ではなく、新しいマルチ型の暮し方の創造。
 たとえ日本が「沈没」して難民になっても、どこかで生き延びていけるスキルを身につけてほしい。
 それは資格を集めたり、専門スキルを身につけることと同じではない。自分にたとえ力がなくても
 他の社会的資源を動員できる能力、いわば生きる上での才覚というもの。そして共助け。
 
 ネオリベは強者と弱者を生むが、問題は、弱者も強者と同じメンタリティを共有していること。
 強者にはつるむ必要がないが、弱者は弱者だからこそ、つるむ理由がある。女性はどう考えてみても
 今の世の中では構造的に弱者の立場におかれている。ましてや家族資源のない「おひとりさま」は
 最弱者。だから「おひとりさまの老後」のなかで、弱者の共助けについて書いた。

 制度も政治も変えられないかもしれないけれど、自分の周囲を気持ちよく買えることは
自分と仲間の力で
 できるかもしれない。そうやって機嫌よく日々を生きていくことができたらよい。
 女性運動はそのために存在してきた。たとえ目の前の問題がただちに解決できなくとも、たった今の
 苦しみを共有してくれるひとたちがいることで、困難にへこたれないでいられる。問題に立ちむかう
 元気がもらえる――そうやって女たちは生き延びてきたのです。傷の舐めあい――と揶揄するひとがいた。
 それでけっこう。傷ついた者たちは、傷を舐めあう必要があった。女性にはその必要があったからこそ、
 つながりをつくってきた。

 日本の男性は、時間がないからではなく、過程参加をする気がなく、会社もさせる気があなく、
 何より妻がそれをのぞまない、からと思える。なぜなら妻は夫の職業上の成功を過程のために犠牲に
 することを、けっしてのぞまないから。そのくせ、自分ひとりにしわよせのくる子育てに、
 日本の女は不満と怨恨をためこんでいる。その葛藤のなかで、夫と対立したり、夫との関係を諦めたりする。

 若い人たちに・・・
 日本が泥舟なら、逃げたらよい。泥舟といっしょに沈没するのは船長だけでたくさん、
 あなたたちに責任はない。国なんてその程度のもの。それより、世界中どこででもいいから、
 生き延びていってほしい。
 ですが、もし、ここから立ち去れない、立ち去ろうとしないあなたがいたら……もういちど、
 微力な者たちの闘いを思い出してください。少しは世のなかを変えることができるかもしれないから。
 負けるとわかったせんそうに突っ込んでいったときのオトナがちのように、「あのとき、あなたは、
 どこにいて、何をしていたの?」と子どもや孫たちの世代からせめられないように。

 と結ぶ。

 これまでの上野さんの、とりあえずの総括のように感じた。
コメント
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