平成が終わろうとしている今、元号に関するニュースも多い。
元号や天皇を利用した詐欺も多発しているとか。
元号と天皇制は密接に関連するが、一世一元は明治からだから歴史的には新しい。
個人的には西暦だけの方が世界的に分かりやすいし、面倒がないと思うのだが、
文化としてなら、あってもいいかという程度。
で、天皇という名称(言葉)について。
この言葉は、中国から輸入したもので、
最初に使われたのは「壬申の乱」で勝利し、『日本書記』の編纂を命じた天武。
ここから○○天皇という呼称が始まったいう事実はかなり知られている。
では、その後はそのまま今日まで続いたのかというと、
平安時代前期の村上天皇までだったという。
つまり、300年にも満たない短期間だったのだ。
その後は、天皇という名称(言葉)は用いられなくなり、「○○院」に変わったという。
「天皇が、かつての権力を喪失して、せいぜい京都周辺に君臨する都市王権の首長になってしまった以上、その呼び名も対外的に通用するグローバルなものである必要はなくなり、天皇にゆかりの京都とその周辺の地名でいったローカルなもので十分」となったことを反映して、「○○天皇」から「○○院」へとのこと。
口語での呼び方は、みかど(御門)、おかみ(御上)、しゅじょう(主上)、こんじょう(今上)、とうぎん(当今)などだった。
「天皇」という言葉が復活するのは、平安時代から800年以上経って、
徳川幕府の力が衰えてきた江戸時代後半、光格天皇(1779年即位)からとのことで、
その後今日までの240年間は「○○天皇」と呼ばれる人物がいたわけだ。
明治になり、神話上の人物を含めて時間を引き伸ばし、
しかも、すべて天皇という呼び名に変えて、
「紀元は2600年」と宣伝した明治-昭和前期政府が、
日本を「天皇(現人神)を中心とした神の国」としたのだった。
さて、
現在、世界で「エンペラー(emperor・皇帝)」と呼ばれる人物はたった一人だけで、
それは日本の天皇。
世界に王はいるものの、皇帝は天皇を除いて、残っていない。
国際社会において、天皇のみが「キング(king・王)」よりも格上とされる「エンペラー」と見なされる。
「天皇」は中国の「皇帝」と対等の称号なので、
「キング」ではなく、「エンペラー」であるのは当然だと思われるかもしれない。
これは日本人にとって当然かもしれないが、
欧米人もこうしたことを理解して、「エンペラー」と呼んでいたのか。
一般的な誤解として、
天皇がかつての大日本帝国 (the Japanese Empire)の君主であったことから、
「エンペラー」と呼ばれたと思われているが、そうではないらしい。
1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布時よりも、ずっと前に、
天皇は欧米人によって、「エンペラー」と呼ばれていたとのこと。
17世紀、すでに天皇は「エンペラー」だった。
シーボルトよりも約130年前、1690年から2年間、日本滞在した
ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルが、帰国後、『日本誌』を著した。
この『日本誌』の中で、ケンペルは「日本には2人の皇帝がおり、
その2人とは聖職的皇帝の天皇と世俗的皇帝の将軍である」と書いていて、
天皇とともに、将軍も「皇帝」とされているのだ。
1693年ごろに書かれたケンペルのこの『日本誌』が、
天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられている。
ケンペルは日本の事情に精通しており、
「天皇」の称号が中国皇帝に匹敵するものであるということ、
さらにその歴史的な経緯をよく理解したうえで、天皇を「皇帝」とした。
1716年にケンペルが死去した後、『日本誌』の遺稿はイギリスの収集家に売られ、
1727年、その価値が認められて、
『The History of Japan』というタイトルで英語訳で出版された。
この本は話題となり、フランス語、オランダ語にも翻訳出版され、
ヨーロッパ中で大ヒット・ベストセラーとなった。
18世紀後半、ドゥニ・ディドロが『百科全書』を編纂した際、
日本関連の情報のほとんどを『日本誌』に典拠し、
ケンペルの『日本誌』が普及したことで、日本の天皇および将軍が
「皇帝」と呼ばれることがヨーロッパで完全に定着したのだった。
こうした背景から、1853年、ペリーが黒船を率いてやって来たとき、
天皇と将軍をともに「emperor(皇帝)」と呼んだのだ。
ペリーのみならず、日本にやって来た欧米各国の学者や外交官たちも
天皇と将軍を「皇帝」と呼び、日本には「2人の皇帝が存在する」などと記録している。
また、ケンペルは『日本誌』の中で、
天皇は紀元前660年に始まり、当時の1693年まで続いていることに触れ、
「同じ一族の114人の長男の直系子孫たちが皇帝位を継承しており、この一族は日本国の創建者である天照大神の一族とされ、人々に深く敬われている」と説明している。
ケンペルは、皇統の「万世一系」が日本で重んじられていることに言及したのだ。
では、戦国時代の16世紀にやって来たイエズス会の宣教師たちは
天皇をどのように呼んでいたのか。
フランシスコ・ザビエルとともに日本にやって来て、
18年間、日本で宣教したコスメ・デ・トーレスは
「日本には、聖権的な絶対指導者が存在する」と記録し、
その存在を三人称的な「彼」と表記している。
トーレスが「彼」としたのは天皇のことであると考えられている。
織田信長と親交のあったルイス・フロイスは
天皇を「Dairi」(ポルトガル語原文)と表現している。
Dairi」とは 「内裏(だいり)」のことで天皇を指し示す。
「天皇」という呼び名は、明治時代以降、一般化した。
「天皇」は中国などの対外向けに制定された漢語表現で、また、法的な称号でもあり、
日本国内では、普段から使われていた呼び名ではなかったのだ。
明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で
対外向けの「天皇」を一般化させていく。
繰り返しになるが、
それ以前、天皇は御所を表す「内裏(だいり)」と呼ばれたり、
御所の門を表す「御門(みかど)」と呼ばれていた。「みかど」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、
中国を意識した対外向けの表現であったと考えられる。
こうした状況で、ルイス・フロイスは天皇を「Dairi」と表記した。
いずれにしても、16世紀の段階で、天皇を「エンペラー」とする表記はなかった。
天皇は本来、「キング」に近い存在。
皇帝は一般的に、広大な領域を支配する君主で、
複数の地域や国、民族の王を配下に持つ。
つまり、王の中の王が皇帝。
その意味では、天皇は明治時代以前、日本一国の君主でしかないので、
皇帝よりも王に近いと思われる。
「王」を意味する英語の「king(キング)」やドイツ語の「König(ケーニヒ)」は、
古ゲルマン語の「kuni(クーニ)」が変化したもの。
「kuni」は「血族・血縁」を意味し、英語やドイツ語などの「王」には
「血族・血縁」という意味が表裏一体のものとして内在されている。
王は「血族長」として、1つの部族をまとめ、さらに1つの民族をまとめ、
一定の領土を支配領域とすることで、最終的に一国の君主となる。
一方、皇帝は血縁に関係なく、実力者がなるという前例が数多くある。
ヨーロッパでは、ローマ帝国時代から優秀な者を養子に迎え、帝位を引き継がせ、
実力者が武力闘争やクーデターによって皇帝となることもあった。
しかし、王は違う。
王になるためには必ず、血統の正統性が要求される。
例えば、ナポレオンなどは皇帝になれても、王になることはできなかった。
皇帝は王よりも格上の存在だ。
ナポレオンが格上の皇帝になることができて、格下の王になれなかったというのは一見、矛盾した話のように聞こえるが、こうした背景がある。
ただし、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家が世襲しはじめる15世紀には、
皇帝位にも、血統の継承性が重んじられるようになり、
各国の王位の継承性とバランスを取ることが慣習的に定着する。
そのため、ナポレオンが19世紀初頭に突如、皇帝になったことは
ヨーロッパの保守派の間では到底、認められるものでないばかりか、
ほとんど嘲笑の的だつた。
諸説あるものの「万世一系」の皇統を持つ天皇は、
血統による正統な君主という意味でも、「キング」の訳を当てたほうが適切かもしれない。
しかし、天皇という「キング」とは異なる言葉の意味や、
天皇が中国皇帝に対抗したという歴史的経緯もあり、
前述のケンペルをはじめとする欧米人たちは天皇を「エンペラー」と見なし、
そのような称号で扱うことを一般化し、国際儀礼としたのだった。
以上、いくつかの資料を引用した。
江戸時代までは、元号もちょくちょく変わっていたのだが、
庶民の生活にどれほど関わっていたのだろうか。
今でこそ、承久の乱とか、元禄文化とか、享保の改革とか、言ってるけど、
その時代の一般の人々は、自分の生きている「いま」を
そんな風に意識していたはずがない。
一般庶民にとって、時の権力は総じて「おかみ」という感じだったと思うし、
年代も十干十二支を組み合わせた程度だったんじゃないかなぁ。
一世一元になったのは、たかだか明治以降だし、ね。
さて、明日発表される新元号はどんなのかしら。