ま、いいか

日々の徒然を思いつくままに。

「料理通異聞」

2018-08-29 22:34:07 | 

 

 「料理通異聞」 松井今朝子 幻冬舎 2016.9.10

 

亀田鵬斎、大田南畝(蜀山人)、酒井抱一、谷文晁ーー

そうそうたる時代の寵児たちとの華やかな交遊、そして、

想像をかきたてられる江戸料理の数々ーー

相次ぐ天災と混乱の時代に、料理への情熱と突出した才覚で、

一料理屋を将軍家のお成りを仰ぐまでにした四代目善四郎、八百善の実質的な創業者の一代記。

彼は、『料理通』を著している。

この本では、八百善での四季折々献立を公開し、特殊な料理には簡単なレシピも添えられている上に、

著名な文化人が序文や挿画を寄せている。

 

さて、この作品での善四郎は、

困っている者を見ると放っておけなくなる性分で、

思ったことをすぐ口にしてしまうこともあり、

その性分が様々な出会いに繋がる。

 

大奥に上がり出世した千満が言う。

「人の上に立つ者には余得もあれば、それ相応の苦労もある。余得を望んで、苦労は願い下げというわけにはいかぬ。ただし苦労はしても、上に立てば見晴らしが良い分、下の苦労は物の数ではないように思える。人はそうして高みに上ってゆけるのじゃ。

初めから上らずに済ますこともできようが、それでは下の苦労をずっと続けることになろう。同じ苦労をするなら、下でつまらぬ苦労を嫌々続けるよりも、自ら苦労を買って出て、少しどでも見晴らしが利くようになりたいものじゃ」

 

晩年の蜀山人は言う。

「たしかにおぬしにも欲がないとはいえんだろう。だが最初から見返りを求めた親切ならば、人は断じて寄ってはこぬ。まずは、おぬしの生まれ持った親切心が人を惹き付けるのだ」

 「相手が誰であれ、おぬしは気の毒に思うと放っておけなくなるんだろうが、相手が求めもせんのに手を出すのは難しい。なかなか出来ることではないが、思いきってそこに踏み込んでこそ、人を救う道にもつながる。踏み込んで親切を施すには、それなりの勇気と度胸が要る。それは持とうと思って持てるもんではない。天性の勇気と度胸が備わったればこそ、おぬしはこうして江戸一の料理屋が営めるのだ」

 

もちろん、料理の場面も多々あった。

資料や文献から作者が想像を巡らせて組み立てたとあったが、

読者としても、想像が広がった。

 

現在も八百善は続いているが、残念なことに店舗はない。

通販で取り寄せてみるほどの熱意は……ないなぁ (^^;

 

新たに覚えたマメ知識。

そもそも日本では各自がめいめいの膳に向かう恰好で、ひとつの卓を囲んで食事をする作法がなかった。

唐土に倣ったその作法は卓上に敷く布の称から卓袱と呼ばれた。卓袱の漢字は中国音でチャブとも聞こえるため、後世には卓袱台を「ちゃぶ台」と呼び習わす。

 

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「赤毛のアン」

2018-08-28 16:58:34 | 

 

「赤毛のアン」 ルーシイ=モード=モンゴメリ 朝日出版社 2018.6.20

 

訳 岸田衿子

絵 安野光雅

 

「赤毛のアン」と言えば、何といっても村岡花子さんの翻訳が有名で、私が初めて読んだのも村岡訳だった。

全巻を揃えた角川文庫の翻訳者は中村左喜子さん。

 

小学生の頃から数えきれないほど何度も読んで、

そらんじている程の日本語訳を基に、原作も一通り読んだものだ。

 

で、この本を見つけた。

岸田衿子さんは岸田今日子さんのお姉さんだとか。

1969年に刊行された翻訳に手を入れないまま、

安野光雅さんが挿し絵を書いて、素敵な本に仕上がっている。

 

村岡訳が完訳ではなく、所々省略されているのは知っていたが、

村岡、中村さんの後にも多くの方々も翻訳していることを、改めて知った。

 

1973年 神山妙子

1975年 猪熊葉子

1987年 茅野美ど里

1989年 石川澄子

1989年 きったかゆみえ

1990年 谷詰則子

1990年 谷口由美子

1990-1991年 掛川恭子

1992年 曽野綾子

1993年 松本侑子

 

そうそうたる方々が訳してる。

全部を読もうとは思わないが、掛川さんの翻訳を完訳シリーズを読んでみよう。

 

 

というわけで、

 

「赤毛のアン」 訳 : 掛川恭子 講談社 1990.5.20 第1刷発行

 

図書館で読んだのは、2000年3月6日 第15刷発行。

つまり、けっこう版を重ねたってことだ。

 

各巻の書名は、村岡さんのシリーズを踏襲したと、あった。

山本容子さんの銅板画が、私にはちょっと……

 

村岡さんの訳に馴染み過ぎているせいか、

アンが名付けた地名など、ちょっと違和感を感じることもあったが、

素直な翻訳だと思った。

 

 

 

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「無暁の鈴」

2018-08-27 20:50:23 | 

 

「無暁の鈴」 西條奈加 光文社 2018.5.30

 

「むぎょうのりん」と読む。

 

江戸時代後期、天保の頃、

貧困、凶作、病、飢餓が相次いだ。

生きることすら困難な状況で、人は人を救えるのかーー

 

江戸幕府が定めた『御条目宗門檀那請合之掟』が今日の葬式仏教の基い。

その掟には『戒名を授け、引導を渡すべし』とあるらしい。

家康が発したとされており、ご丁寧に日付までが改ざんされているが、本当は八代・吉宗のころの発布。

むろん、庶民には与り知らぬことだったが、

従わねば戸籍がなくなると僧侶に言われれば、従わざるを得ない。

この檀家制度は寺院にとってまことに都合がよかった。

葬式や法要はもちろん、祭事や勧進といった金集めの名目に事欠かない。

それらをすべて負担するのは、民百姓たちである。

 

さて、

武家の庶子でありながら、家族に疎まれ寒村の寺に預けられた久斎は、兄僧たちからも辛く当たられていた。

そんななか、水汲みに出かける沢で出会う村の娘・しのとの時間だけが唯一の救いだったのだが……。

手ひどい裏切りにあい、信じるものを見失って、久斎は寺を飛び出した。

盗みで食い繋ぐ万吉と出会い、名をたずねられた久斎は"無暁"と名乗り、ともに江戸に向かう。

 

渡世人の一家と縁を結び5年……

堅気に戻ろうとしていた万吉が殺されて

無暁は仲間と共に敵討ちを果たすが、島送りになる。

 

八丈島で当初は人殺しと避けられたものの、

一心に経を唱えるうちに人々に受け入れられる。

実父や兄の尽力もあって、22年で赦免されたときは40歳になっていた。

無暁は出羽三山で修行する。

 

仏教をはじめとする宗教は、本当に必要なのか。

人のため世のために、何か役に立つことがあるのか。

無暁は問い続ける。

 

施しは、共存であるーー。共に生き、共に在るために互いに助け合う、それが施しの真理だ。

 

仏があろうとなかろうと、それを信ずるのは人なのだ。

欲を捨てよと仏の教えは説くが、欲はすなわち生きるためには欠かせぬものだ。食うこと眠ること、性もまた子孫繁栄には必然である。

宗教は常に、人心掌握のために為政者たちの道具に使われてきたが、裏を返せば、それだけ人の心の、拠り所になってきたということだ。

来世にはきっと見返りがあると極楽への道を示し、慈悲の心を忘れてはならぬと戒める。

でき得るかぎり欲を削ぎとった姿が清僧であり、体現することで人々の安堵を誘う。

それをさらに極め、行きついた先が、即身仏ではないのかーー

 

厳しい行に打ち込む姿を、世人は自分たちに重ねる。

民の困苦欠乏は、本来なら為政者が庇護するべきものだが、下々にまでは行き届かない。その穴を埋めるのが、宗教なのだ。

即身仏は、宗教を極めたひとつの完成であり、志す行人への帰依と感謝の念は、想像を絶する。

 

千日行を満願した無暁は、即身成仏の支度をする。

 

無暁がお姿を拝見した即身仏・鉄門海上人は実在の人物。


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「優しいおとな」

2018-08-26 23:23:05 | 

 

「優しいおとな」 桐野夏生 中央公論新社 2010.9.25

 

格差が広がり、荒廃した近未来か……。

家族をもたず、信じることを知らない少年イオンは

児童センターを逃げ出して、渋谷あたりで、

どうにか、ひとりで生きている。

児センの前の記憶はない。

 

おとなは三種類だ。

優しいか、優しくないか、どっちつかずか。

優しいおとなは滅多にいない。

優しくないおとなからは、すぐ逃げろ。

でも、一番僕たちを苦しめるのは、どっちつかずのやつらだ。

しかも、そいつらは数が多い。絶対に信用するな。

 

自分が支えとしていた記憶が否定されてーー

"今"を生きる意味も意志も混乱してしまう。


近未来とは限らない。

世界のあちこちにストリートチルドレンたちがいる現実がある……。

 

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「漫画 君たちはどう生きるか」

2018-08-25 21:57:40 | 

 

「漫画 君たちはどう生きるか」 マガジンハウス 2017.8.24

 

原作 吉野源三郎

漫画 羽賀翔一

 

原作は、だいぶ前に読んだけど、

やはり漫画の方が良かった。

 

自分の生き方を決定できるのは、自分だけだ。

人間としてあるべき姿を求め続ける、コペル君と叔父さん。

 

地動説と天動説……自己中かそうでないか

 

原作を読んだときと重複してるかもしれないが、幾つか、書き抜いておく。

 

 残念な話だが今の世の中では、からだをこわしたら一番こまる人たちが、一番からだをこわしやすい環境に生きいるんだ。

 

 自分の幸せが、めったにあることじゃないと思えばこそ、われわれは、それに感謝する気持ちになる。それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すべきことだ」という意味になり、「ありがとう」といえば、おれいのこころもちをあらわすとになったんだ。

 

 人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じるということは、人間が本来そんなみじめなものどあってはならないからなんだ。

 苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入るものはーー自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。

 僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することもできたのにーー、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのにーー、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあるだろう。

 自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。

 

 

時代を超えて流行るのがわかる。

どの世代の方々にも、読んでほいものだ。

 

 

 

 

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