「あちらにいる鬼」 井上荒野 朝日新聞出版 2019.2.28
そうか、瀬戸内寂聴と井上光晴は付き合っていたんだ。
光晴には妻子があったのに。
この二人と光晴の妻の話を、井上光晴の娘が書く、
しかも瀬戸内寂聴がコメントを書いている。
作者の父井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった。
五歳の娘が将来小説家になることを信じて疑わなかった亡き父の魂は、
この小説の誕生を誰よりも深い喜びを持って迎えたことだろう。
作者の母も父に劣らない文学的才能の持ち主だった。
作者の未来は、いっそうの輝きにみちている。
百も千もおめでとう。
そう、きたか!
作家の感覚は、どうも一般人とは違うようだ、
と思いつつ読んでみた。
(書中では)長内みはると白木篤郎、その妻の笙子との関係を、
みはると笙子の視点から交互に描いていく。
書き出しは1966年春の、みはる。
セックスというのは男そのものだと思う。うまいもへたもない。セックスがよくないというのは、ようするにその男が自分にとってよくない、ということなのど。
そして、同じく1966年、夏から冬の、笙子。
あの女とはなんでもない、と篤郎は言った。何かあったとしても、それはたんに肉体だけのことで、あんたと俺の繋がりのようなものではない。全然違うのだから、と。なんという理屈だろう!でも私は許してしまった。
1971~1972、みはる。
ただ、今の自分に白木以外の男と寝ることができるかどうか、試してみたかっただけなのだ。簡単なことだった。簡単だが意味はなかった。わたしは男と寝ただけで、彼を愛したわけではなかったのだから。
1973.11.14 みはるの剃髪式
(家を建てた白木の反応を見て)
わたしにはわかってしまった。家。家族。それらが象徴する幸福。あるいはそれらが保証してくれるかもしれない幸福。白木にはそれが必要なのだーー本人がどんなに認めまいとしても。そしてわたしは、それが必要ない人間だった。そんなものはいらない。どうでもいい。(略)ずっと、家庭のある白木に自分が合わせているのだと思ってきた。でも違ったのかもしれない。白木がわたしに合わせていたのかもしれない。
描きようによってはドロドロするであろう内容だけど、
湿っぽくもネチっこくもない。
みはるも笙子も魅力的だ。
この作中の白木篤郎という男性は好きにはなれないけど、
二人にとって特別な存在だったらしいし、
たくさんの女性とも浮名をながしたのだろう。
当事者にとっては魅力的だったのかな……。
それにしても、井上荒野さんーー
つくづく作家なのだなぁ。