たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

さようなら バタヤン.

2013年04月26日 | 音楽

かえり船 田端義夫

大利根月夜 田端義夫

 

オッス さようならバタヤン。哀悼バタヤン。いい声だねぇ。
94歳でしたか。私がバタヤンの実演を聞いたのは、いまから60年余前、郷里の飛騨高山市に喜多座という劇場があって、その2階桟敷から聞いたのがはじめの最後だった。昭和の30年前後で勤め始めた事業所の慰安会を兼ねていたのか、先輩同僚と一塊になって酒を飲みながら騒いで聞いた。下で見ていた懇意な旅館のお婆ちゃんが後でうるさかったと叱られた。20歳前後でもち独身だった。

今朝、茶店で新聞を2,3読んだ。読売は「編集手帳」も哀悼文だった。
父と3歳で死別、母は人形作りの内職で10人の子を育てた。小学校では鉛筆や消しゴムはゴミ箱から拾って使った。おかずはいつもオカラばかり、弁当のおかずはいつも紅しょうがばかりだったと。出世して84歳で亡くなった母の亡骸の枕元をもちろん紅しょうがで飾ったとか。栄養失調で右目は失明していたって。

スポーツ紙も読んだ。奥さんは4人目、艶福家だった。最期を看取った奥さんと、妊娠中の娘は孫を見せたかったと。ラスベガスでは1ドルのスロットで7777が3段並んだ得意満面の写真も見た。6400万円の当りで記者会見では、宝くじを配ったって。
オッス、押忍は昔寄宿した大学相撲部の主将と同宿の縁から決め台詞になった。
胸に抱えるギターは、’54年から60年も連れ添った相棒だった。あるとき付き人がタクシーにギターを置き忘れ、数日前に銀座ヤマハで見たギターが良かったので、電話したら残っていて早速買った。米ナショナルギター1124という名器だった。修理しては60年もがんばったらしい。

ギターは独学で板に木綿糸を張って「イター」と言っていた。音域が広い歌手だったとNHKも追悼していた。ご冥福を祈る。
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