たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

母を送る6 帰宅

2012年04月24日 | 日記

小中学校跡地の二宮金次郎像は淋しそう

母の葬儀は多くの皆様方のお力添えのお陰で立派な葬式を出していただきました。
死去の日(土曜日)の午後、隣りの下呂市長選の応援の途中立ち寄ったと、自民党現職国会議員先生の弔問まで受けた。

「ある勝負師の生涯-将棋一代 木村義雄 文芸春秋、埼玉福祉会(大活字本)」
を、大分昔読んだことがある。木村名人は幼い頃祖父が亡くなって、家が貧乏なため葬式を出せないから、朝まだき、町の人々が起きてこないうちに、リヤカーを借りてきて人目につかないように、父と火葬場へ祖父を運んだ。何としても普通の葬式を出せる身分になるために、縁台将棋から名人になる・・自伝を思い出した。

穏やかな飛騨路の春がつづいて、昔なら葬式洗濯の日、今日はお客が泊まった布団干しに絶好の日和となった。農耕の時期の早い飛騨では絶好の葬式時期でもあった。
小中学校の級友の女性が、人工透析を長く受けていて入院していると聞いていた。
見舞ってやりたいと姉に近隣の方に電話してもらったら、未だ入院中で飛騨市古川町の病院だと分かった。30kmくらい、午前中に見舞うことにした。

途中、祖先のルーツを再確認するため高山市図書館へ立ち寄った。合併前の旧町史を見るためだ。受付で案内してもらい閲覧し手続きしてコピーを取った。この図書館は昔は小学校の跡地、校舎はその後長く古びた市役所の庁舎として使っていた。

またも道草して、新築移転し5月1日に開院する、母の最後を看取ってくれたJA系新病院を見に立ち寄り写真を撮った。全駐車無料、全個室トイレ付きという豪華病院だそうだ。

古川町の病院はすぐ見つかった。見舞い時間外なのを謝って、2階のナースセンターを教えてもらい行くと、彼女は透析中で12時過ぎまでかかる由。待てるか聞かれ事情を話しお見舞を預かってもらえないか聞いたが、予想通り駄目だといわれた。
諦めて受付へ戻りそう話すと、案内嬢が気を利かせてくれて奥の事務員数人と相談し透析室へ電話してくれた。

自分の名を聞かれて、透析中なのに会わせてもらえるとのこと、案内されて透析室まで闖入する横着になり、担当ナースさんがベッドまで案内してくれた。
彼女は昨年9月の同窓会も欠席したし、ベッドに寝たままで少し元気が無かったが喜んでくれた。
透析中の患者は20数人、大いに迷惑をおかけし、慢性のお気の毒な患者が多いことにも驚いた。

予定通り12時前に姉宅へ帰宅し、遠く広島から姉の孫娘の若夫婦が会葬してくれて、彼女らと昼食を共にできた。彼女らは昨日夜は高山市のホテルに予約が取ってあったらしい。
泊まったホテルの裏が昨日の午後火事があって、民家3軒が焼けたと云う。その地に夜間高校の級友のレンタル・サイクル店があり、裏二階が焼けていたという。

帰宅経路を変更し見舞って帰ることにした。火事現場は通行止めで、商店街青年部が後片付けをしていた。半焼した家へ入り声をかけると、ヘルを冠った軍手の級友が「おや、お前は○○ではないか」とすぐ分った。隣りのパン工房からの類焼で、全焼と変わらないと気を落としていて、外側を何とか再利用して再建したいと嘆いていた。些少の見舞いを渡して早々と辞去した。

郡上八幡経由の道中は疲れで眠気が襲い危険で、車中休眠を何度も取ってゆっくり高速に入り、ようやく長い母の葬式は終わった。