得たもの 2


NIKON 1 V1 + 1 NIKKOR 10mm f/2.8

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地震の後の一週間は地獄であったという。
ガスも電気も水道も停止し、食料も供給されることはなかった。
結局自分で何とかして、生きていくしかなかった。

生き残った人たちが集まり、食べ物を出し合おうとしたが、皆大した備蓄はなかった。
自治会の会長は地元の工務店の社長であったが、会社は津波で全壊してしまい、精神状態がおかしくなり何も出来なくなっていた。
頭を抱えて何もしたくないと塞ぎ込んでいる。
仕方なく残った人たちで、どうしたらいいか話し合った。

まずは一人暮らしの老人宅をリストアップし、手分けして生死を確かめて回った。
その後の食料供給の停止を考えると、その確認をしなければ新たな死者が出ただろう。
食料は農家などを回り、少量ずつ分けてもらった。
バーベキューで使った炭をみつけ、大きな鍋をみつけ・・と、ひとりひとりがアイディアを出し合った。
おかずはもちろん入手できず、ご飯に梅干だけの生活が続いた。

水の確保が生命線で、これに一番苦労したという。
最低限水がなければ、生きていくことが出来ない。
毎日川まで歩き、容器に生活用水を汲んでくるという、原始的な生活になった。
飲料水は配給に頼るしかなく、給水車を保有する会社に頼んで貸してもらい、それで毎日2回みなに運んだ。
地域の人たちが知恵を出し合い、共同して生きるための努力をした。

地震に備えて3日分の食料を確保しておけといわれるが、実際にはそれでは足りなかったという。
救援物資は、家を失い避難所で暮らす人たちには届いたが、自宅に留まった人たちには届かなかった。
市が届けてくれたのは、一週間でカロリーメイト2本だけであったという。
2箱ではなく2本である。
家族が3人いるから3本くれないか頼んだところ、一軒あたり2本が決まりだからと断られた。

これでは生きていけないと避難所にも行ったが、狭い体育館に600人からの人間が詰め込まれており、臭いがきつくて辛く、結局自宅に戻った。
その人たちに比べれば、まだ自分たちは幸せだった。
しかし自らの力で生きていくしかなかった。

給水活動への感謝の意味で、パンを2個支給されたが、賞味期限切れのものであった。
避難所には大量の食物が届けられており、その中から新しいものを選って食べていくので、どうしても古いものが残るのだ。
職員に期限が2日過ぎているよと言ったら、「大丈夫です、私なんか一週間過ぎたのを食べましたから」と言われ、そういう問題ではないだろうと苦笑したという。
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