酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「容疑者の夜行列車」に乗ってミステリアスな蜃気楼に辿り着く

2017-08-12 11:14:35 | 読書
 老いを実感する日々だ。老眼に加え、耳の調子もおかしい。テレビを見ていて音割れを感じたが、傷んでいるのは耳の方だった。記憶力低下は絶望的で、例えば「相棒」……。亀山(寺脇康文)、神戸(及川光博)の時代は言うに及ばず、甲斐(成宮寛)のシーズン11~13でさえ初めて見るように再放送を楽しんでいる。

 凡人の俺は仕方ないが、驚異的な記憶力、直感力、観察力を誇る柳家小三治でさえ、スポーツ紙のインタビューで「アルツハイマー病を患っている可能性がある」と告白していた。小三治は頸椎の手術で夏場を休養に充てるという。5月の独演会(調布)で、声の衰えが気になった。名人も77歳……。「頑張れ」と言う方が酷ではないか。

 日本では遠からず年金がストップし、富裕層以外はボロ雑巾で死を迎えるだろう。絶望的な未来を前提にもてはやされているのが、摂理に反するアンチエイジングだ。「記憶改善薬」のCMには慄然とする。俺のような半惚けが常用すれば、記憶力が回復すると謳っている。特攻隊員はヒロポンで意識を高揚させられ散華した。滅私奉公がこの国の倣いなら、覚醒剤を解禁すればいい。

 多和田葉子著「容疑者の夜行列車」(2002年、青土社)を読了した。多和田の作品に接するのは「犬婿入り」(1993年)、「雪の練習生」(11年)、「献灯使」(14年)に続き4作目になる。

 第1輪「パリへ」から第13輪「どこでもない町へ」から成る短編集で、夜行列車の旅が描かれている、俺はタイトルの〝容疑者〟の謎に難渋した。主人公の<あなた>はコンパートメントで、不思議な人、怪しい人、犯罪者と思しき人たちと出会う。「容疑者との夜行列車」ならしっくりくるが、<あなた>に一体、何の嫌疑がかかっているのだろう……。20年以上も〝多和田荘〟で暮らしている知人が、笑いながら教えてくれた。<容疑者→Yogisha→夜汽車>……。作者の遊び心に「へえ」である。

 俺は本作の読者に適さない。パスポートを申請したこともない〝井の中の蛙〟のくせに、多様性の尊重やアイデンティティーの浸潤を説いているからだ。〝旅する人〟多和田は対照的に、俺が書くと空虚になる言葉の本質を把握している。複数の言語に通じ、ドイツ語と日本語で小説を発表する多和田と俺では、吸う空気が違うのだ。

 ドイツに渡った多和田の葛藤は、「ペルソナ」(「犬婿入り」併録)に描かれていた。ドイツと日本の境界で被るべき仮面が見つからないと悩む主人公に、等身大の作者が反映されている。本作のテーマも、多和田ワールドに通底する<アイデンティティーの追求>ではないか。

 「雪の練習生」で熊のクヌートは、<わたし>という一人称を体得し、アイデンティティー探しを始めた。「容疑者の夜行列車」の主人公が<あなた>になった経緯は第12輪「ボンベイへ」に示され、<その日以来、あなたは、描かれる対象として、二人称で列車に乗り続けるしかなくなってしまった>と結ばれている。最初の旅は第12輪で、<あなた>が日本人であることも紹介されている。

 <あなた>がダンサーを夢見た学生時代、もがきながらキャリアを積んだ修業時代、評価が定着した現在……。時を行きつ戻りつ、<あなた>は13輪に填め込まれる。いずれの場所でも他所者で、言葉で伝達することに限界を覚える。永遠に<わたし>になれない<あなた>とは、アウトサイダーとしてしか存在できない状況のメタファーなのだろう。

 <俺は本作の読者に適さない>と上記したが、親しみを覚える点がある。それは主人公――こう決めつけること自体、読みが浅いのかもしれないが――のダンサーが寝台で頻繁に、酔生夢死状態に陥ることだ。悪夢にうなされ、帰ってきた現実にもリアリティーを感じない。<あなた>を操る語り手の作意が窺えるのだ。

 俺の従兄はアジアを中心に活動する旅人で、フットワーク良く世界を回る知人もいる。彼らは一様にコミュニケーションに長け、発想も自由だ。今更、彼らのようになれない俺は、〝迷路を彷徨う旅人〟といったところか。読書も旅程のひとつで、時に想像を超えた光景に辿り着く。「容疑者の夜行列車」は俺を<ミステリアスな蜃気楼>に導いてくれた。
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