今からここに書く事柄は、日本でも中国でもあまり知られていないと思う。
つい先日、江西省日中友好の歴史の生き字引である博堅先生から直にお聞きしたことだ。
日本では戦後「戦友会」という組織がたくさん作られた。
私も聞いたことがないわけではなかったが
その名称から、
(戦争が終わってからも“貴様と俺~と~は~”など軍歌を歌って、
戦争当時を懐かしんでいるような団体)という
勝手な印象を持ち、それを確かめようともせず長年放置してきた。
自分のその怠慢と傲慢を恥じる。
大阪府吹田市の戦友会「椿会」(資料1)の会員約130名が1986年、南昌を訪れた。
その会の前身は日中戦争のとき、
江西省、湖北省各地を作戦地域として戦闘を展開した日本軍部隊だという。
博堅先生はその会メンバーがが南昌を訪問した時、
同行した17人の日本語通訳の1人だった。
博堅先生の記憶によると、
会長はバンバさんという野戦病院の院長で少将だった人、
副会長は井上豊治さんという奈良県の人。
他にも、西村完さん、有田正男さん、島田さんという名前の人がいた。
その椿会の人たちは何をしに南昌に来たのか。
そのメンバーは、最も若い人でも現在健在であれば103歳ぐらいだという。
’86年当時はその人だと76歳ということになる。
皆、大変高齢になってからの訪問だった。
彼らは、博堅先生ら通訳を伴い、かつて戦闘作戦地だった
武漢、宜春、萍郷、南昌新建県・安義県・永修県など各地を訪れ、
戦争時に自分たちがした行為を謝罪したのだった。
博堅先生はその時の様子をこう語る。
「南昌新建県のある村に行ったとき、
井上先生(註:博堅先生は誰にでも『先生』を付ける。『さん』という意味だそうだ)が
村長に向かってこう言いました。
『私たちは罪人です。私たちの部隊は、新建県のたくさんの人達を
殺しました。本当に申し訳ございません。これからは、日中友好のために尽くしたいと
思います。』と。
村長がどう答えたかははっきり覚えていませんが、うん、うんと頷いて握手し、
二人とも涙を流していました。」
椿会の人たちは何しに南昌に来たのか。
まさか観光気分で浮かれて来たのじゃないのか。
話を聞く前に湧いたその疑念は、私の無知と傲慢さによるものだった。
本当に恥ずかしい。
彼らは自分が死ぬ前に、きちんと、自分たちのしたことを謝りに来たのだ。
戦闘作戦を命令されて実際に担ったのは、
主に、日本全国からかき集められた農民やお店屋さんやサラリーマンやらだった。
「兵隊に取られる」という言葉があるように、
一般人は、喜んで兵士になったのではない。
国の命令に従ったのだ。
軍隊に入れば、「一人前の兵隊にする」という名目で
たいへんな虐めに遭った。
その中で、生き延びるために、次第にまともな神経を麻痺させ、
残虐な殺戮をも平気でするようになる。
ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」で、
ある元兵士が、自分がやったことの資料を見せられ、
「おれが、それをやったのか…」と絶句していたシーンがあった。
忘れなければ、生きていけないようなことをしてしまった元兵士たち。
それでも、忘れることなどできないし、忘れてはならない。
いくら国家の戦争政策だったとは言え、自分がそれに手を染めたことの
責任は逃れようもない。
そうした思いの謝罪の旅だったのだろう。
日本では、最近、
日本的に言えば侵略はなかったかのような言辞を弄した首相がいた。
(まだ首相をやっている)
彼はさらに、その発言についてアメリカからちょっと厳しく言われたら
「侵略していないとはいっていない」
と言い逃れをした。
昨年早早に「南京大虐殺はなかった」と根拠もなく言った名古屋市長といい、
歴史を改ざんしようとしている政治家の多いこと、多いこと。
こんなことがなぜまかり通る日本になったのか。
近代から今まで日本がアジアの国々に対して、
具体的に何をしたのかを嘘偽りなく調べ、、
実際に日本の政策に現場で関与した人々の証言を、証拠として真摯に認め、
謝るべきはきちんと謝り、正すべきは正すという基本的なことが
なぜできないのか。
こんなことでは、日本の子どもたちは、これからもずっと、
アジアの国々に対して肩身の狭い思いをし続けなければならないのだ。
1995年の村山談話で、
(日本もようやくきちんと謝罪した。
これでアジアの人たちに顔をあげて挨拶ができる)
と、ホッとしたのもつかの間、
雪崩をうって靖国参拝をしたりする政治家たちや、
よりもよって「731」番号の自衛隊機内でホクホクと手を振る
日本の総理大臣が出現したりしている(資料2)この現象を、
江西省に謝罪に来た日本軍元兵士たちは、
もし、今も生きていたらどう思うだろう。
(資料1)
戦友会研究会(Research on Japanese "Sen'yukai")の戦友会データベース
http://www.senyuken.jp/database/search/
戦友会名:椿会
所在地:大阪府
部隊名:歩兵第34師団衛生隊
*「大阪吹田・椿会」で検索するとこの椿会が出てきた。
この椿会が1986年に江西省などを訪問した団体の可能性が大だが、
(「衛生隊」がたくさん人を殺したりしたんだろうか?)という疑問も湧く。
「戦友会」についての資料は唯一この戦友会研究会のものしか分からなかった。
どなたかいい資料をご存知ないだろうか。
(資料2)
安部総理大臣の本物の写真(合成じゃない)
4月12日、安倍晋三首相は、宮城県松島基地の『ブルーインパルス』の操縦席に座り得意満面、親指を立てるポーズで写真撮影に応じた。(逝きし世の面影さんブログより) http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/e0516e05dd33a346fe1136b7669ba9a8
つい先日、江西省日中友好の歴史の生き字引である博堅先生から直にお聞きしたことだ。
日本では戦後「戦友会」という組織がたくさん作られた。
私も聞いたことがないわけではなかったが
その名称から、
(戦争が終わってからも“貴様と俺~と~は~”など軍歌を歌って、
戦争当時を懐かしんでいるような団体)という
勝手な印象を持ち、それを確かめようともせず長年放置してきた。
自分のその怠慢と傲慢を恥じる。
大阪府吹田市の戦友会「椿会」(資料1)の会員約130名が1986年、南昌を訪れた。
その会の前身は日中戦争のとき、
江西省、湖北省各地を作戦地域として戦闘を展開した日本軍部隊だという。
博堅先生はその会メンバーがが南昌を訪問した時、
同行した17人の日本語通訳の1人だった。
博堅先生の記憶によると、
会長はバンバさんという野戦病院の院長で少将だった人、
副会長は井上豊治さんという奈良県の人。
他にも、西村完さん、有田正男さん、島田さんという名前の人がいた。
その椿会の人たちは何をしに南昌に来たのか。
そのメンバーは、最も若い人でも現在健在であれば103歳ぐらいだという。
’86年当時はその人だと76歳ということになる。
皆、大変高齢になってからの訪問だった。
彼らは、博堅先生ら通訳を伴い、かつて戦闘作戦地だった
武漢、宜春、萍郷、南昌新建県・安義県・永修県など各地を訪れ、
戦争時に自分たちがした行為を謝罪したのだった。
博堅先生はその時の様子をこう語る。
「南昌新建県のある村に行ったとき、
井上先生(註:博堅先生は誰にでも『先生』を付ける。『さん』という意味だそうだ)が
村長に向かってこう言いました。
『私たちは罪人です。私たちの部隊は、新建県のたくさんの人達を
殺しました。本当に申し訳ございません。これからは、日中友好のために尽くしたいと
思います。』と。
村長がどう答えたかははっきり覚えていませんが、うん、うんと頷いて握手し、
二人とも涙を流していました。」
椿会の人たちは何しに南昌に来たのか。
まさか観光気分で浮かれて来たのじゃないのか。
話を聞く前に湧いたその疑念は、私の無知と傲慢さによるものだった。
本当に恥ずかしい。
彼らは自分が死ぬ前に、きちんと、自分たちのしたことを謝りに来たのだ。
戦闘作戦を命令されて実際に担ったのは、
主に、日本全国からかき集められた農民やお店屋さんやサラリーマンやらだった。
「兵隊に取られる」という言葉があるように、
一般人は、喜んで兵士になったのではない。
国の命令に従ったのだ。
軍隊に入れば、「一人前の兵隊にする」という名目で
たいへんな虐めに遭った。
その中で、生き延びるために、次第にまともな神経を麻痺させ、
残虐な殺戮をも平気でするようになる。
ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」で、
ある元兵士が、自分がやったことの資料を見せられ、
「おれが、それをやったのか…」と絶句していたシーンがあった。
忘れなければ、生きていけないようなことをしてしまった元兵士たち。
それでも、忘れることなどできないし、忘れてはならない。
いくら国家の戦争政策だったとは言え、自分がそれに手を染めたことの
責任は逃れようもない。
そうした思いの謝罪の旅だったのだろう。
日本では、最近、
日本的に言えば侵略はなかったかのような言辞を弄した首相がいた。
(まだ首相をやっている)
彼はさらに、その発言についてアメリカからちょっと厳しく言われたら
「侵略していないとはいっていない」
と言い逃れをした。
昨年早早に「南京大虐殺はなかった」と根拠もなく言った名古屋市長といい、
歴史を改ざんしようとしている政治家の多いこと、多いこと。
こんなことがなぜまかり通る日本になったのか。
近代から今まで日本がアジアの国々に対して、
具体的に何をしたのかを嘘偽りなく調べ、、
実際に日本の政策に現場で関与した人々の証言を、証拠として真摯に認め、
謝るべきはきちんと謝り、正すべきは正すという基本的なことが
なぜできないのか。
こんなことでは、日本の子どもたちは、これからもずっと、
アジアの国々に対して肩身の狭い思いをし続けなければならないのだ。
1995年の村山談話で、
(日本もようやくきちんと謝罪した。
これでアジアの人たちに顔をあげて挨拶ができる)
と、ホッとしたのもつかの間、
雪崩をうって靖国参拝をしたりする政治家たちや、
よりもよって「731」番号の自衛隊機内でホクホクと手を振る
日本の総理大臣が出現したりしている(資料2)この現象を、
江西省に謝罪に来た日本軍元兵士たちは、
もし、今も生きていたらどう思うだろう。
(資料1)
戦友会研究会(Research on Japanese "Sen'yukai")の戦友会データベース
http://www.senyuken.jp/database/search/
戦友会名:椿会
所在地:大阪府
部隊名:歩兵第34師団衛生隊
*「大阪吹田・椿会」で検索するとこの椿会が出てきた。
この椿会が1986年に江西省などを訪問した団体の可能性が大だが、
(「衛生隊」がたくさん人を殺したりしたんだろうか?)という疑問も湧く。
「戦友会」についての資料は唯一この戦友会研究会のものしか分からなかった。
どなたかいい資料をご存知ないだろうか。
(資料2)
安部総理大臣の本物の写真(合成じゃない)
4月12日、安倍晋三首相は、宮城県松島基地の『ブルーインパルス』の操縦席に座り得意満面、親指を立てるポーズで写真撮影に応じた。(逝きし世の面影さんブログより) http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/e0516e05dd33a346fe1136b7669ba9a8
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