世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(11)

2024-04-30 00:00:00 | Weblog

(8) 間違いの8、旅順第一回総攻撃失敗の後”要塞戦の正攻法である坑道掘削 

  作戦をとらなかった”は間違いである。p166~167 

  1904.8.30の作戦会議で第二回総攻撃では坑道掘削作戦が採用されて、要 

  塞外壁爆破により各堡塁を攻略した。 

  龍眼北方堡塁、水師営堡塁、ナマコ山を占領しロシア軍艦を砲撃したこと 

  を、司馬遼太郎は無視している。 

   

  「ついでながら要塞攻撃については、すでににフランスのボーバンが樹立 

  した大原則があった。 

  先ず、攻撃側が、攻撃用の砲台を構築することであった。この思想はすで 

  に日本では戦国期にあり、付城と言われ、城攻めの露偉人と言われた豊臣 

  秀吉が、織田家の一武将のころからさかんにこの方法を用いた。 

  ボーバンの戦術では、その攻撃用砲台をつくるだけでなく、歩兵の生命を 

  まもるために並行豪を掘る。それによって外壁を地下から爆破する。そ 

  れによって外壁を占領し、次いで胸墻(きょうしょう、胸の高さほどの盛り 

  土)を爆破し、しかるのちに突撃態勢に入るのが原則であり、この当時世界の陸 

  軍における常識になっていた。 

  「それ以外に方法はない」 

  と、ボーバンは断言していたし、欧州における多くの先例がそれを証明し 

  ていた。 

  もっとも、乃木軍はこの「正攻法」をとらなかったわけではない。不徹底 

  ながらも第二回総攻撃はこの正攻法を併用したということはすでに触れた 

  。塹壕を掘ったり、またさまざまな方面から敵の堡塁に向かって坑道を掘 

  ったりしたが、しかしロシアは要塞を守る戦いにかけては世界一と言うべ 

  き戦闘技術を持っており、この程度の幼稚な行動作戦に対しては適切な手 

  を打ち、妨害し、このためあまり功を奏さなかった。」 

  (文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P230~p231) 

 

  などと史実に反したことを書き連ねている。と「ロシア破れたり」には 

   書かれている。 

 

  ちなみに龍眼北方堡塁はNO.10の地図、日露戦争-旅順要塞攻略戦 

  ③(sakanouenokumo.com)で、水師営の右側にあり、ナマコ山は水師営の 

  左下に位置している、様だ。間違っていれば、どしどし訂正願う。 

 

  またP堡塁も奪取に成功している。P堡塁は一戸兵衛第六旅団長自ら切り 

  込み、死守に成功した堡塁である。そのため一戸堡塁と命名されている。 

  この一戸堡塁は、先の絵で「望台」の傍・右上に位置する堡塁である。 

  ともかくも、ロシア堡塁はそれなりに日本軍に奪取されていたのである。 

 

 

日露戦争-旅順要塞攻略戦② (sakanouenokumo.com) より。 

   

 第一次総攻撃に失敗した第三軍は攻撃方針を強襲から正攻法へ切り替え、各堡塁への坑道掘削作業を開始した。九月十九日、第9師団は龍眼北堡塁と水師営南堡塁への攻撃を行い、翌日にこれを占領。一方、第一師団は海軍からの要請に応じて十九日から二○三高地を攻撃したが、苦戦を強いられ二十三日に撤退した。
 この攻撃が行われる数日前に達子房身に二十八サンチ榴弾砲が到着。二十二日に準備が整い、三十日から敵陣地に対する砲撃を開始する。 

 

 そして十月下旬、坑道掘削をほぼ終えた第三軍司令部は第二次総攻撃の実施を決定した。十月二十六日、攻城砲部隊による砲撃を開始。三十日から突撃を開始した歩兵部隊は一戸堡塁などいくつかの敵陣地を奪取した。一方、東鶏冠山北堡塁などの永久堡塁に対しては外壁の一部爆破には成功するが、攻撃は頓挫。各部隊で損害が続出したため、乃木は三十一日に攻撃中止命令を下した。 

 

日露戦争-旅順要塞攻略戦② (sakanouenokumo.com) 

www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen2.htm
 

 

「坂の上の雲」では、 

 

旅順要塞への第二回総攻撃は、むろん第一回ののように単純な突撃では 

なかった。火砲をもって十分にたたいておくという「正攻法」を併用し、 

そのうえで突撃した。この突撃は、いたずらに人間を敵のぺトンに投げつけるだけに終わった。 

(文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P230上段終わり 

 

しかもその乃木軍はその攻撃法を変えず、第二回の総攻撃を遣った。同じ結果が出た。死傷四千九百人で、要塞は微動だにしない 

(文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P229上段始め 

 

  と書いているが、この指摘は事実とかけ離れていると「ロシア破れたり 

  には書かれている。 

(続く)

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