「多少ノ時日ヲ費スモ確実ナル方法」とは、もちろん工兵が坑道を掘って
爆薬を仕かけ、堡塁を爆破する方法である。乃木軍としては、期たるべき
満州平野におけるロシアとの大会戦に備えて、兵力を温存する必要があっ
たのである。だから多少の時日を費やすも兵力を温存する方法をとると言
ったのである。
そして1904年12月19日午前九時、攻撃命令を下達カタツした。
すなわち、二龍山は第九師団、東鶏冠山は第十一師団、松樹山は第一師団
が引き続き担当した。
乃木軍の用意周到な攻撃により、(4/26のNO.10の旅順概要図参照の事)
二龍山は12/28攻撃開始、翌日の12/29の早朝に占領(第九師団)
東鶏冠山は12/17攻撃開始、12/18占領(第十一師団)
松樹山は12/31攻撃開始し、当日に奪取成功した。(第一師団)
そして望台は、12/31夜半より、第九師団が、更には第十一師団も駆けつ
けて、独断突進を始めて、年が明けた1/1の午後3時30分頃望台頂上に
翩翻ヘンポンと日章旗が翻ったのである。
(桑原嶽著の「乃木希典と日露戦争の真実」p188)
この望台こそが乃木第三軍の攻撃目標でであり、旅順要塞の要の砦であっ
た。
これを見た旅順要塞司令官の「ステッセル中将」は「もはやこれまでだ」
とつぶやいたという。(「ロシア破れたり」のP190)
二〇三高地後もこのような激戦が行われていたのであるが、司馬遼太郎
の「坂の上の雲」は、
「二〇三高地の陥落後もなお、旅順要塞の攻防は続いている。
ただし、戦勢は逆転した。砲兵力も日本軍の方が優勢となり、…諸事
車が坂を下るようにして容易になった。いわば、残敵掃蕩期に入ったと
いうべきであろう。」
(文藝春秋社「坂の上の雲」四,S46年第15刷 P214下段)
「残敵掃蕩期に入った」などと勝手なことを言っているが、それは望台を
とってからの話であり、司馬遼太郎の勝手な作り話である。
「乃木希典と日露戦争の真実」(p189)では「司馬氏は、二〇三高地が落ち
たあとは、残敵掃蕩期に入ったなどと言っているが、とんでもない見当違
いである。・・・残敵掃蕩戦というような生易しいものでは、決してなか
ったのである。」(p189、190)と言っている。
(続く)