世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(67)

2011-01-31 12:12:23 | Weblog

このようにして新興国アメリカ老舗スペインの太平洋、大西洋の植民地の全てを分捕ってしまった。このためスペインは凋落の一途を辿り、ポルトガル・スペインと言った一時を謳歌した帝国は、新興国家アメリカに覇権を奪われていき、反対にアメリカの興隆が始まるのである。アメリカはキューバ、プエルト・リコを手に入れ、そしてフィリピンなど太平洋上の島々を侵略して、アメリカの内海としてしまった。ハワイもそのひとつである。

ハワイカメハメハ大王を、ご承知の方も多いことと思う。1810年にハワイを統一した大王である。

カメハメハ王朝はれっきとした独立国であった。1840年代には、ハワイで最初の憲法を発布し、内閣、議会、裁判所を持つ立憲君主制の国家であった。そして明治以来日本と友好関係を結んでいた。1881年には当時のカラカウア王世界一周旅行の途中日本に立ち寄り、日本としても始めての元首訪問であり丁重にもてなした。たいそう感激されたことはもちろんのこと、もともと親日家であった王は、娘のカイウラニ王女のお婿さんに日本の皇族を迎えたいと言う婚姻を申し込むほどであった。この世界旅行の目的には、アメリカの圧力を如何にして逸らそうかと言う外交旅行でもあった。そしてハワイの伝統文化を残す活動も起こしているし、これらの行動でハワイのナショナリズムは徐々に復興していった。しかしハワイはアメリカとの貿易が盛んであり、砂糖をアメリカに関税なしで輸出しておりアメリカ資本のプランテーションが急成長をしていた。そのためアメリカの商人たちが沢山ハワイに入り込んでいた。そのため日本に接近するハワイ王朝に対して、大いに危惧を抱くようになり、アメリカ商人たちは「ハワイ連盟(ハワイアンリーグ)」と言う秘密結社を作ることになる。彼らは、1887年武力を背景に王党派の政府要人を無理やり辞任させ、カラカウア王を孤立させ無理やり憲法を改正させてしまう。

この1887年に成立した憲法はベイオネット憲法と呼ばれている。ベイオネットとは銃剣のことで銃剣で恫喝されて出来た憲法と呼ばれている。この憲法は閣僚の任免は王の権限では出来ず、欧米生まれの在住外国人に限って選挙権を認める、などという滅茶苦茶なものであったため、翌1890年の総選挙では王党派が大勝する。しかしカラカウア王は病に倒れサンフランシスコで療養し結局は帰らぬ人となってしまう。そのため、カラカウア王はアメリカに毒殺されたのではないかと、まことしやかに囁(ささや)かれている。まあそんなところであろう。

これは「カラカウア王」(http://www.legendaryhawaii.com/monarch/mon06.htm)を参照している。

1891年、カラカウア王の妹のリリウオカラニが王位を継ぎ、兄の遺志を継ぎ王の権利を取り戻し「ハワイ人のためのハワイをつくる運動」を起こす。これに対してアメリカは「ハワイ連盟」を「合併連盟」に格上げさせて対抗する。そして1893年1月、合併連盟は米軍艦ボストンから武装兵を上陸させホノルルの町や政府建物を占領する。そのためリリウオカラニ女王は明治天皇に救援を求め、明治政府は1893年2月23日と28日に東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」と「金剛」をホノルルに入港させる。当時、パールハーバーは「ベイオネット憲法」によりアメリカが専有使用権を獲得していたが、アメリカ側へは強い圧力となり、混乱や白人の略奪を阻止することになった。この時ハワイには、25,000人の日本人移民がおり、邦人移民の生命・財産を守るためでもあった。しかし当時わが国はまだアメリカと戦火を交えるだけの力がなく、結局は何も出来なかった。ハワイ議会も白人系が多数を占め女王は監禁され、止む無く女王が退位しハワイは1894年には共和国となってしまう。そしてそれをいいことにアメリカは1898年7月ハワイを侵略し主権をアメリカ合衆国に委譲させ、1900年4月ハワイ領土併合法が公布されてしまう。そして1959年(昭和34年)50番目の州となってしまったのである。(これは先に紹介した「アメリカの太平洋侵略」などを参照している。)

「ねずきちの ひとりごと(アロハ・オエ)」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-406.html)も、是非参照願いたい。ここら辺の事情に詳しい。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(66)

2011-01-28 11:52:20 | Weblog

ちなみに、アメリカはラフ・ライダーズ(荒馬乗り)連隊など17,000人を派遣した。この連隊の中佐として戦いを指揮したのが、後に大統領となったセオドア・ルーズベルトである。地上戦は要所のサン・ホアン高地が1898年7月1日の1日で陥落し、大勢は決していた。そして7月3日に、スペイン艦隊が湾外に脱出したところ、アメリカ海軍に捕捉、攻撃され、スペイン艦隊は全滅している。なお地上戦では、スペイン軍に対するよりも熱や疾病に対処するほうが問題であったと言う。

これは日清戦争で日本が澎湖列島に上陸した時(1895/3/23)に、コレラなど現地病に悩まされたことと同じである。知らないところに出る時は、疾病対策などにも十二分な対処が必要だと言うことである。(2010/12/4,NO.34参照のこと。)

そして7月中にはキューバ島占領してしまう。そして7月25日には米軍は、プエルトリコにも上陸し、8月にはプエルトリコ占領してしまう。プエルト・リコとは、スペイン語で「美しい港」と言う意味だそうだ。コロンブスが最初に見つけて、サン・ファンに入港した時に「なんと美しい港なんだ」と叫んだと言うことに由来する、とWikipediaに書かれている。プエルトリコは、現在米国の自治領である。

旅順港閉塞作戦から話は「米西戦争」へと移ってしまったが、移ったついでにフィリピン、グアムの話をしておこう。

フィリピンもスペインの植民地であったが、ここでも御多分にもれず独立戦争が起きていた。そのため独立戦争を支援すると言う名目で、1898年5月1日、アメリカ太平洋艦隊はマニラ湾で7隻のスペイン艦隊を攻撃した。この戦いでスペイン艦隊はほぼ全滅している。この戦いにはフィリピン革命軍の働き(ずっと共闘していた)が大きかったものと考えられるが、マニラに入城する際にはアメリカ軍はフィリピン兵の入城を許さなかった。もともとアメリカのフィリピンの独立を助けると言うのは口実で、スペインからフィリピンを分捕りたかっただけであった。

そのためスペインが去った後、フィリッピン人は独立のためにアメリカと独立戦争を戦うこととなる。アメリカではこの戦争をフィリッピンの独立戦争とは絶対に呼ばない。米比戦争と読んでいる。アメリカではイギリスとの戦争を独立戦争と呼んでいるが。米比戦争については、当ブログ2007/8/2の「慰安婦問題の誤報4/4-捕捉」を参照願う。

グアムも同様で、1898年6月20日、ドサクサに紛れてアメリカ海軍が攻撃して占領してしまった。ここにはわずか54名のスペイン兵がいただけであった。

このようにスペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を共に失い、戦争を継続する物理的な能力も精神的な気持ちも失せていた。交戦状態は、1898年8月12日に終了している。そして1898年12月10日パリ条約を調印している。

パリ条約で、米国はフィリピン群島、グアム島、プエルトリコを領有し、キューバを名目上独立させたが、キューバはプラット条項により米国は事実上保護国化した。

プラット条項とは、三省堂大辞林(http://www.weblio.jp/content/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E6%9D%A1%E9%A0%85)によれば、プラットO.H.Platt連邦上院議員の提案した条項で、「キューバは米国に対して海軍基地の供与と内政混乱の際の干渉権を認める」もので、保護国化したものである。1902年から実施され1934年に海軍基地の規定を除き廃棄された。だからグアンタナモ海軍基地がキューバにあるんですね。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(65)

2011-01-27 12:18:58 | Weblog

そして日本政府は1904年2月10日に、ロシア政府に宣戦布告を通達した。この時代は、国交を断絶した場合宣戦布告なしに攻撃が出来た。従って旅順口急襲は合法的な処置であった。国交を断絶している以上、何時攻撃されても良いように準備しておく必要があるのである。パーティー何ぞで浮かれていたとは、日本を馬鹿にしきっていたことの証左なのである。なのに旅順口奇襲作戦は失敗した。しかも旅順艦隊は旅順港に篭ってしまった。

日本軍はバルチック艦隊が到着する前に、なんとしてでも旅順艦隊(第1太平洋艦隊)を撃滅する必要があった。しかし今は旅順港の篭ってしまい出てこない。しからば旅順港を封鎖してしまう作戦を考えた。これが旅順港閉塞作戦である。

この旅順港閉塞作戦は、常備艦隊参謀で、1904年2月6日に旗艦「三笠」乗艦を命じられた秋山真之海軍少佐が発案したものであった。真之は、騎兵の父と言われた秋山好古騎兵第1旅団長少将の弟であることはすでにご承知のことと思う。秋山真之(大尉)は、1897年(M30)6月26日、米国駐在武官に異動を命じられ、そして1898年アメリカへ留学する。

そんな時1898年2月15日ハバナ湾に派遣していたアメリカ海軍戦艦メイン爆発し沈没してしまう。キューバは当時スペインの植民地で、独立運動が起こっていた。キューバ島はそのため、半分が独立軍に支配されスペイン軍は苦戦していた。爆発原因はいまだ不明であるが、一般的には石炭の偶然に爆発によるものとされている。これはコンピューター・シミュレーションによって確認されているとWikipediaに記載されているが、発展途上だった(販売部数を伸ばしたかった)アメリカの新聞がこれに飛びついた。もともとキューバでの独立運動でのスペインの残虐行為を誇大に報道していた新聞は、アメリカのキューバへの介入を煽(あお)っていた。それにも増して、キューバ経済はアメリカに依存し、キューバの貿易はほとんどがアメリカとであった。そしてこのメイン号の爆発を、「メインを思い出せ! くたばれスペイン!」と言う好戦的で感情的なスローガンで報道したため、キューバはアメリカのものと思っている国民を一層刺激してしまった。アメリカもスペインも紛争の拡大には、完全に反対であった。しかもアメリカの「ウイリアム・マッキンリー大統領も世論に対してかなり長い間持ちこたえていたが、このメイン号の爆発で世論に抗しきれずに1898年4月11日に米軍派遣の権限を求める議案を提出し、議会も4月19日に「キューバの自由と独立を求める共同宣言」を承認し、軍事力の行使を承認する。これを受け、スペインもアメリカとの外交関係を停止する。

このメイン号には、7名の日本人のコックとボーイが乗船していたが、帰らぬ人となっている。これは「アメリカの太平洋侵略
(http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/5070/kindai/PacificWar.html)に載っている。

1898年5月19日、スペイン大西洋艦隊がキューバ南端のサンティアゴ湾に入港する。サンチィアゴ湾は現在のグアンタナモ米軍基地のすぐ西に位置しており、キューバ島を変形の左に傾いた鋭い三角形と見立てると、その底辺の中央部(南端)に位置している。世界地図を見ると、サンチィアゴデクーバという地名である。そこの岬のサンペドロデラロカ城という要塞が、世界遺産となっている。

アメリカ大西洋艦隊はサンティアゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃することになる。この状況を観戦武官として秋山真之大尉が観察しており、このサンチィアゴ閉塞作戦は後の日露戦争における日本海軍の旅順港閉塞作戦の参考とされた、・・・と Wikipediaに記載されている。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(64)

2011-01-26 12:04:55 | Weblog

しかもロシアはウラジオストクに4隻の巡洋艦を持っていた。旅順に目が行っていたため、ウラジオ艦隊は日本近海に出没しては、日本商戦や輸送船を攻撃していた。そのため上村彦之丞司令長官(中将)の第2艦隊を派遣しウラジオ艦隊捜索するも、なかなか発見できずに、1904年6月15日には常陸丸が沈められ陸軍兵士1,000名余りが戦死している。この件もおいおい述べる。

なお上村彦之丞中将については、2010/12/3のNO.33のブログでも言及しているので、参照願いたい。「ブラボー!アドミラル上村」と賞賛された上村である。

さて特に単縦陣での水雷攻撃については、改革すべき点が多々あったものの、大東亜戦争でも改善されていなかったと言う。事実に即した分析と改善が等閑にされた結果であり、日本軍の、否日本人の悪さがこの時から現れていたように、小生には感ぜられる。

しかもロシア側では、2月8日の夜は太平洋艦隊司令長官スタルクの自宅では、マリア命名祭でパーティーが開かれていたと言う。これは、NHKの「坂の上の雲」で放映された通りの様であった。



話は変わるが、日本政府はロシアに国交断絶を伝えると同時に、1904年2月6日にロシアと満州在留の日本人に帰国命令を出した。このように外交関係が緊迫の度を増すと、如何に在留邦人を救出するか、が問題となる。先の「旅順口急襲」によれば(奇襲でなく急襲が正しい)、シベリア在留の日本人はウラジオストクから大多数が避難出来たが、満州在住者はハルビンまで来て、そこから多分東清鉄道支線で旅順または大連に行き、そこから船で脱出する手筈となっていた。旅順口急襲は、 2月8日夜から2月9日にかけて、行われている。旅順では、2月8日昼までに英国船により多数が帰国していたが、まだ多数の在留邦人が旅順に取り残されていた。しかも2月9日の昼には、日本艦隊の攻撃があった。旅順の日本人はチーフー行きの温州号に乗り込むことが指定されていたと言う。結局2月13日にハルビンから最終の日本人103名が到着し、総数304名は、2月14日午後4時出港許可がおり、ようやく脱出することが出来る。ハルビンからの日本人は途中、ロシア兵による略奪を受け着用衣類以外は何も持たない状態だったと言う。それでも、出港までの間にロシア側からは、食料の差し入れなどがなされている。もちろん日本に居たロシア人は自由な帰国が許可されており、略奪などは一切なかった。大東亜戦争時の満州での日本居留民へのロシア軍や中国軍の残虐な仕打ちに比べれば、かなり穏当な扱いであったようだ。しかし旅順市内では、すでにロシア兵による略奪などにより、治安はかなり悪化していた。

近い将来、朝鮮半島で戦乱が起こるかも知れないと言われているが、その時韓国在留の日本人をどのように保護し、無事帰国させるのか。果たして韓国兵は日本人を保護してくれるのか、それとも壬午軍乱甲申事変の時のように、略奪や虐殺をしてくるのか。多分に後者の状況となろう。その時日本政府はどうするつもりなのか。その時は即座に自衛隊を出動させて邦人保護に当たらなければならないし、それが出来るように国内法の改正や韓国政府と詰めておかなければならないだろう。第2次朝鮮戦争が起こる可能性がある、などとまことしやかに論じられている現状を鑑み、日本政府や自衛隊は物心両面での準備は必須である。おさおさ怠りのないように願いたい。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(63)

2011-01-25 11:19:07 | Weblog

ひとつは、魚雷の性能が実践的ではなかった。当時の日本の魚雷は「冷走魚雷」と言われるもので、全く以って比ぶべくもない代物であった。冷走魚雷は、圧縮空気をピストンエンジンに送って1機のスクリューを毎分100回転まわして、低速(12km/h程度)で推進するものである。高圧の空気を送り込むのでその時の膨張で周りの熱を奪い機関が凍結する問題があり、海水で暖める必要があった。その上、先の「旅順口急襲」によれば軍令部の外波内蔵吉大佐と言う人物が、速度を落として航走距離を伸ばすと言う改悪を加えてしまったと言うことだ。そのため日露戦争には第4駆逐隊司令として駆逐艦にのり、日本海海戦では戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈するなどの戦果を上げ勝利に多大な貢献をした鈴木貫太郎海軍中佐(日露戦争当時。大将、昭和20年に内閣総理大臣)は、この魚雷を「ヒョロヒョロ魚雷」と名付け徹底的に反対したものであった。

命中した魚雷はその何れもが第1駆逐隊が発射したものであった。白雲は「ツザレウィッチ」に、朝潮が「レトウィザン」に、そしてが「バラーダ」に放った魚雷が命中している。当時の魚雷は速度が遅く、進行方向に加速して発射しなければならず、正確な操艦技術を必要とした。だからこの3発は、第1駆逐隊司令の浅井正次郎大佐の果敢なる肉薄と指揮によるものと、「旅順口急襲」に述べられている。

ふたつ目の原因は、第2、第3駆逐隊はいずれも1000m以上の遠距離から魚雷を発射していることである。この遠距離発射も、軍令部の外波内蔵吉大佐の発案した甲種水雷攻撃法に従ったものと、述べられている。そして直進して発射しなければならなかったことから、単縦陣での突入は魚雷発射にはまことに不都合な陣形なのである。集団による水雷攻撃は横陣または雁行陣でなければならない、とここでは述べている。だから的確な操艦技術が必要となるのである。どうもまともに攻撃できたのは、第1駆逐隊だけで、第2、第3駆逐隊の攻撃は敵の砲撃もあり各艦がばらばらとなり、目くら発射の状態ではなかったかと推測されるのである。

旅順湾は浅く、満潮時にしか口外に出られなかったため、ロシア戦艦と巡洋艦は口外に停泊していた。口外停泊のため、露艦は常時蒸気を上げており、実弾も装填されていたと言う。

奇襲攻撃は2月9日未明に終了したが、泊地で停泊している艦に対して11隻の駆逐艦で攻撃し、3発しか命中しないと言うことははなはだ不満の残るものであった。しかも一ヵ月半の修理で被弾した艦船は戦列に復帰している。

翌2月9日昼には日本艦隊の本隊も到着し、砲撃を開始する。ロシア艦隊も、そして旅順要塞の砲台からも砲撃を開始する。この砲撃戦は双方にそれなりの被害をもたらし、一時間程度で終了する。この砲撃戦では、日本海軍はロシア艦隊に対して、決定的な打撃を与えることは出来なかった。日本艦隊の射撃の精度も余りよくなかったようだ。そして旅順艦隊は旅順港内へと撤退し引きこもってしまった。奇襲により決定的な打撃を与えると言う作戦が崩れ、日本軍にとっても予想外の戦果となった。ロシアはバルト海に大規模な艦隊を持っている。そのバルチック艦隊と合同されたら、日本に勝ち目はない。しからば日本のシーレーンを如何に守るのか。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(62)

2011-01-24 14:38:56 | Weblog

さて昨年末に放映されたNHKの「坂の上の雲」では旅順口を奇襲して日露戦争の戦端の緒が切られた、と放映されている。当ブログでは、1904年2月8日仁川港外でのロシア軍艦コレーツとの小競り合いを、日露の最初の交戦であったと述べている。これは1904年2月8日の日中昼間)の出来事である。仁川沖海戦はその翌日(2月9日)であるので、一般的にこの交戦は2月9日として取り扱われている。

そういう意味で言えば、旅順口奇襲作戦は、1904年2月8日の18時に日本海軍の魚雷艇が旅順口に向けて進路を変え、2月8日から2月9日に変わる時点で停泊していたロシア艦隊に魚雷を放っているのである。だから日露戦争の交戦の開始は、仁川沖での小競り合いが最初の交戦であると当ブログでは述べたのである。

さて旅順口とは、旅順港の入り口である。旅順湾は浅く又その入り口(旅順口)は狭く、旅順艦隊は入り口の外に停泊していた。この時の旅順艦隊は戦艦、巡洋艦は合わせて12隻程度と思われる。

これは「第1次世界大戦」(http://ww1.m78.com/index.html)の「日露戦争」の「旅順口奇襲」(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/storm%20over%20port%20arthur.html)を参照してまとめている。

ロシア艦隊の軍艦の概略を次に列挙する。

戦艦
レトウィザン、ツザレウィッチ、ボルタワ、ベレスウェート、ポペータ、ペレスパブロフスク、セバストポリ、以上7隻。

巡洋艦
バルラーダ、アスコリッド、バヤーン、ノーウィック、ディアナ、以上5隻。

以上軍艦が旅順口に三々五々、停泊していた。

これを日本海軍の第1、第2、第3駆逐隊の11隻の駆逐艦(艇)急襲したのである。

「旅順口奇襲」によれば

第1駆逐隊  白雲シラクモ、朝潮アサシオ、霞カスミ、暁アカツキ の4隻
第2駆逐隊  雷イカズチ、朧オボロ、電イナズマ 曙アケボノ の 4隻
第3駆逐隊  薄雲ウスクモ、東雲シノノメ、漣サザナミ の3隻

ちなみに性能としては、
「明治期の駆逐艦」http://www.justmystage.com/home/narutyan/fire/des/des_m.htmによれば

例えば白雲は、基準排水量(322トン)、喫水線の長さ(65.9m)、艦幅(6.3m)機関出力(7,000馬力)、最大速力(31ノット)と極めて小型の艦艇だ。清国の北洋艦隊の小型の広丙(防護巡洋艦)でも、1000tで、全長(80.47m)、全幅(8.0m)、速力(17ノット)の軍艦である。駆逐艇はその速力に物を言わせて、高速で敵艦に近づき魚雷をぶっ放して即離脱すると言う戦い方をする船である。

であったが、全11隻の駆逐艦で12発の魚雷を発射したが、3発しか命中しなかった。まことにもって不甲斐ない結果であった。それにはふたつの原因があった。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(61)

2011-01-21 12:39:57 | Weblog
さてかなり講釈が長くなってしまったが、その「日韓議定書」の全6条を次に示そう。

日韓議定書

大日本帝国皇帝陛下の特命全権公使林権助及大韓帝国皇帝陛下の外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔は各相当の委任を受け左の條款を協定す

第一条 日韓両国間に恒久不易の親交を保持し東洋の平和を確定する為大韓帝国政府は大日本帝国政府を確信し施政(設)の改善に関し其忠告を容るる事

第二条 大日本帝国政府は大韓帝国の皇室を確実なる親誼を以て安全康寧ならしむる事

第三条 大日本帝国政府は大韓帝国の独立及領土保全を確実に保証する事

第四条 第三国の侵害により若は内乱の為め大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は大日本帝国政府は速に臨機必要の措置を取る可し而して大韓帝国政府は右大日本帝国の行動を容易ならしむるため十分便宜を与ふる事
大日本帝国政府は前項の目的を達するため軍略上必要の地点を臨機収用することを得る事

第五条 両国政府は相互の承認を経すして後来本協約の主意に違反すへき協約を第三国との間に訂立することを得さる事(栄)

第六条 本協約に関連する未悉の細條は大日本帝国代表者と大韓帝国外部大臣との間に臨機協定する事

  明治三十七年二月二十三日    特命全権公使  林権助
  光武八年二月二十三日       外部大臣臨時署理陸軍参将  李址鎔


これは「明治という国家」からの引用である。(但し間違いと思える箇所は訂正してある)
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/02/post_451.html


その意味するところは、大体次のようになろう。

第1条 [施政忠告権

 日韓両国は永久に仲良くして東洋の平和を維持するために、韓国政府は日本政府を信頼して施政の改善に関して、日本政府の忠告を入れること。

第2条 [韓国皇室地位保障

 日本政府は、韓国の皇室を確実に安全かつ安らかに維持すること。

第3条 [独立と安全保障

 日本は政府は、韓国の独立及び領土保全を確実に保障すること。

第4条 [日本の韓国防衛義務

 第三国の侵害や内乱にため、韓国の皇室の安寧あるいは領土の保全に危険がある場合は、日本政府は、速やかに臨機に必要な措置を執らなければならない。そして、韓国政府は、その日本の行動が容易になるように十分便宜を与えること。日本政府は、この目的を達成するために、軍略上必要な地点を臨機に収容することが出来る。

第5条 [条約遵守義務

 両国政府は、お互いの承認のないまま将来、本協約の趣旨に違反するような協約を、第三国との間で結ぶことは出来ない。

第6条 [その他]

 本協約に関連する未悉(みしつ、くわしくなっていないこと)の細条(さいじょう、細かな条項)については、日本政府の代表と韓国政府外務大臣との間でそのつど協定すること。



このように見てくると、この日韓議定書の内容は大韓帝国にとって、より有利な内容のものと判断される。と言うのも、大韓帝国の独立を日本が唯一認めていることからも分かるのである。以下その点を列挙してみる。

(1) 先進国である日本の施政面でのアドバイス

(2) 大韓帝国の皇室の地位を保証した。これがなければ韓国皇室は滅亡していたであろう。

(3) 大韓帝国の独立と領土が保障された。日本が安全を保障した。

(4) 大韓帝国を日本は防衛する義務がある。


それに対して、大韓帝国側の義務としては、

(1) 日本よりの施政の忠告を受けることになる。

(2) 第三国より侵略された場合には、日本に軍略上必要な土地を提供する義務がある。 これは至極当然のことではある。日本はその侵略者と戦わなければならないからである。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(60)

2011-01-20 11:04:25 | Weblog

ハバロフスクの西北西の直線距離で600kmほどの所にブラゴヴェシチェンスクがある。中国名で海蘭泡と呼ばれていたそうだが、1900/7義和団の一部が占拠したところだ。ブラゴヴェシチェンスクはアムール川(黒竜江)沿いのロシアの州都である。対岸は中国黒龍江省の黒河(大清帝国時代のアイグン)であるが、この黒河の対岸でブラゴヴェシチェンスクの南側一帯に64箇所の村落があり、中国人が住んでいた。これを江東六十四屯と呼び、1858年アイグン条約で清国領だった黒竜江左岸(ロシア側)は、ロシアに割譲されていたが、この地域には沢山の中国人がいたために、清国が管理していたと言う。ロシアは、この村落の住民3,000名全員虐殺し、さらには対岸の黒河鎮に2,000名の兵士を渡河上陸させ、25,000名を虐殺している。そのため北京政府も台湾政府もこの江東六十四屯のロシアの占領は承認していなかったが、江沢民はエリツィンとの領土交渉でこの地の主権を放棄している。しかし台湾政府はこの地の主権を放棄していない、とWikipediaには書かれている。このWikipediaに掲載されている台湾で発行されている地図での江東六十四屯は、小さくてまことに見にくい。位置関係を把握していないと、一寸見では見間違えてしまいそうである。この虐殺事件は、2010/12/23のNO.46の当ブログでも言及している。

ちなみに1689年ネルチンスク条約では満州での国境は黒竜江と外興安嶺の線に定め、アムール川左岸(ロシア側)は清国領であったが、1858年5月28日アイグン条約ではロシアに割譲され、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)も両国の共同管理とされてしまった。19世紀から20世紀始めに亘(わた)って結ばれた不平等条約のひとつとWikipediaには記載されている。アロー号事件での混乱に乗じたロシアの強引な清国への侵略に等しい攻略で、南下政策の一種なのである。

そして更にアロー号事件での英仏と清国との争いの仲裁に入ったロシアは、それを理由に強引に沿海州を割譲させてしまった。1860年北京条約である。2010/12/17のNO.43を参照のこと。

もうひとつ付け加えると、ロシアは、1885年1886年に朝鮮へ内密に働きかけて、朝鮮を保護しようとしたこともある。これを第1次、第2次露朝密約事件と言う。2010/11/8のNO.17で紹介しているので参照願う。

このようなロシアの行動をよく読めば、如何にロシアの満州占領(2010/12/23,NO.46)が朝鮮にとって危険であったを思い知るのであるが、この時の李朝朝鮮にはそんな危機感は一切ない、と言ったら嘘となるかも知れないが、ある意味他人事(ひとごと)のように感じていたことであろう。もしそうでなかったら、「戦時局外中立」何ぞを宣言するはずがない。仮に宣言したとしても、内々に日本に協力するなどと通じるべきである。否、普通は通ずる筈である。しかし朝鮮は千年属国である。そんな主体的な行動を執る勇気はなかったことであろう。しかしロシアの属国になったら最後大韓帝国なんぞの国名はなくなっていたことであろう。何しろ外満州(沿海州)までもぎ取った国である。日本も危なくなる。だから日本は韓国の戦時局外中立宣言なんぞは無視したのである。それが正解である。


さてかなり講釈が長くなってしまったが、その「日韓議定書」の全6条を次に示そう。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(59)

2011-01-19 13:43:49 | Weblog

さて日露関係が風雲急を告げると、1904年1月21日、準当事国の韓国は日露両国が開戦した場合には、「戦時局外中立」をすると宣言した。満州を占領されていた清国をはじめ各列強もこれを是とした。清国は正に当事国である、「満州還付に関する露清条約」をロシアと締結している。しかも1903年4月には第2回の撤退が始まる予定であったが、ロシア軍は撤退せずに今なお満州に居座っている。だから韓国の「戦時局外中立」宣言に賛同するどころか、日本と共にロシアに対抗すべきだ位は言ってもよい立場に居たのだが。

日本としては丁度この時1904年1月12日御前会議を開き、日本の主張が受け入れられなければ「ロシアと戦争を開始する」ことを確認している。そして京釜鉄道速成建設の真っ最中であった(1903/10速成決定、1904/11全線開通)。そして1904年2月6日国交断絶を駐日公使ローゼンにつたえ、1904年2月8日仁川沖海戦で日露は戦端を開いたのである。

日本としてはそんなこと(局外中立宣言)にはかまっていられない。ロシアは早晩朝鮮半島に兵を進めてくるはずであり、現に満州には大軍を無理やり駐留させている。しかもシベリア鉄道は、1903年7月東清鉄道がウスリー鉄道とつながり、1904年9月にはバイカル湖畔で鉄道がつながりシベリア鉄道は一応全通したのである。欧州から一直線で朝鮮の間近まで鉄道がつながっのである。

日本は朝鮮半島を守らなければ、自国の独立も危うくなる。なんと言ってもロシア露館播遷ろかんはせん、ロシア水兵が朝鮮の皇帝である高宗を、拉致して、1896.2.11~1897.2.20までロシア公使館内で政治を執らせた。)をした国である。何時何をしでかすが分かったものではない。今のうちに朝鮮を日本側につけさせる必要がある。そのため1904年2月8日に日本政府は軍隊を仁川に上陸させて漢城に進駐させた。そして日本は韓国の独立と領土保全を保障し防衛する義務を負うとし、その代わりに韓国内での日本軍の行動に便宜を払うことを、1904年2月23日に約束させた。時はすでに日露戦争が始まっているのである。

これが大日本帝国と大韓帝国の間で結ばれた「日韓議定書」である。

人は、特に韓国人は、この日韓議定書を朝鮮に対する日本の植民地政策の始まりだと言うが、それは大間違いである。もし日本が日韓議定書を結ばずに、ロシアと戦争をしなければ大韓帝国は、必ずやロシアの植民地となりロシアに吸収され、韓国という国はなくなっていたであろう。ソ連邦から隷属国が独立出来たのは、つい最近のことである。こんなことも分からない馬鹿で頓馬な朝鮮人がまだいるかと思うと、あきれ返ってしまうよ。如何に朝鮮の民意の低いことよ。そんなことに構っていたら日本はロシアに遅れをとってしまう。ロシアはもっと強引に満州での利権を獲得している。1896/5第1次露清密約は、賄賂と強制により満州における治外法権や東清鉄道の敷設権、関税率の優遇、軍隊の移動・兵站の自由、排他的行政権の確保、各地の都市や鉱山の支配などを半ば強引に認めさせている。更に1900/11第2次露清密約では、義和団事件をきっかけに江東六十四屯の清国人を虐殺し、東三省(ほぼ現在の遼寧、吉林、黒竜江省に相当する地域)を完全に占領してしまい、軍隊駐留権や要塞設置、地方行政権の奪取などを行い、満州全域の軍事と行政権を獲得している。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓併合100年(58)

2011-01-18 12:27:35 | Weblog

まず事の起こりは、アメリカ人実業家 J.R.Morse1897年京仁線(京城-仁川)の鉄道工事をはじめたことに始まる。しかし着工したものの労働争議などで円滑に工事は進まずそのうちに資金不足に見舞われ、1898年にその権利を渋沢栄一らの京仁鉄道合資会社に売却する。そして京仁鉄道は1900年11月21日全線の営業運転を開始する。当時朝鮮は鉄道敷設権や鉱山開発の権利を金目当てに売却していた。京仁鉄道もその一環であったが、京釜鉄道も同じく敷設権モールスに売っていた。モールスは京仁鉄道の権利と合わせて京釜鉄道の権利も日本に売却する。そして日本は、1898年に大韓帝国と京釜鉄道敷設に関する京釜鉄道合同条約を調印し、1901年6月25日京釜鉄道株式会社を創立する。そして同年1901年8月20日に京城と釜山で京釜鉄道の工事を、広軌で開始する。1903年11月1日には京仁鉄道合資会社を合併する。
 
そして内外情勢の緊急度はいやが上にも増していた。なんと言っても、1903年1月にはその東清鉄道支線が開通し、ハルビン・旅順間が鉄道で結ばれ、1903年7月には、東清鉄道がウスリー鉄道とつながり、シベリア鉄道(仮)全線開通となったからである。そのため政府では、京釜鉄道の全通予定の1905年末まで待てなくなった。そのため鉄道速成を企画した。1903年10月末京釜鉄道の速成が決定され人、物、金などの面で明治政府が全面的にバックアップすることとなった。1904年末までには開通させようと昼夜兼行の突貫作業の結果、1904年11月10日南北の鉄路が結合されたのである。当時の関係者のご苦労が目に浮かぶ。なお開通式1905年5月25日日本海開戦の2日前に京城南大門停車場で行われたと、先に述べた「京釜鉄道建設と日露戦争」(http://homepage1.nifty.com/ktymtskz/denki/coria.htm)
には述べられている。

さてそのバルチック艦隊は、1904年10月15日リバウ港を出港している。リバウは現在のラトビアの三番目に大きな都市・人口8.5万人のリエパーヤであり、そのバルチック艦隊の母港だったカロスタ軍港は現在観光地になっているとWikipediaには書かれている。バルチック艦隊はバルト海艦隊から選抜された第2太平洋艦隊と補助艦隊で構成された第3太平洋艦隊とで編成された。第1太平洋艦隊は、旅順、ウラジオストクを母港とする艦隊であったが、長きにわたる旅順攻防戦の結果(1904年8月19日かに1905年1月1日)、旅順は陥落し第1太平洋艦隊(旅順艦隊)は壊滅している。そのため旅順艦隊とバルチック艦隊をあわせ、日本連合艦隊の倍の勢力で対抗すれば日本艦隊を撃滅できると考えた構想は潰えたのである。もし旅順が落ちなければ日本海の制海権はロシアに奪われ、満州の日本軍は全滅させられたことであろう。そうすると今の日本は存在しなかったであろうし、もちろん朝鮮においておや、である。朝鮮、特に韓国が今存在し繁栄できているのは、ひとえに日本がロシアの侵略から満州、朝鮮を守った(守ってやった)からのことである。だから韓国は日本がつくったと言われる所以(ゆえん、わけ・理由)である。「韓国は日本人がつくった」と言われる所以はこれだけではない、日本は朝鮮(大韓民国)を併合することによってもっともっと、朝鮮を作り上げていったのであるが、これもおいおいと説明しよう。今はそれどころではない。いかにロシアの毒牙を払いのけるか、思案の真っ最中である。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする