世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(15)

2024-05-08 00:00:00 | Weblog

  「多少ノ時日ヲ費スモ確実ナル方法」とは、もちろん工兵が坑道を掘って 

  爆薬を仕かけ、堡塁を爆破する方法である。乃木軍としては、期たるべき 

  満州平野におけるロシアとの大会戦に備えて、兵力を温存する必要があっ 

  たのである。だから多少の時日を費やすも兵力を温存する方法をとると言 

  ったのである。 

 

  そして1904年12月19日午前九時、攻撃命令を下達カタツした。 

 

  すなわち、二龍山は第九師団、東鶏冠山は第十一師団、松樹山は第一師団 

  が引き続き担当した。 

 

  乃木軍の用意周到な攻撃により、(4/26のNO.10の旅順概要図参照の事 

 

  二龍山は12/28攻撃開始、翌日の12/29の早朝に占領(第九師団) 

  東鶏冠山は12/17攻撃開始、12/18占領(第十一師団) 

  松樹山は12/31攻撃開始し、当日に奪取成功した。(第一師団) 

 

  そして望台は、12/31夜半より、第九師団が、更には第十一師団も駆けつ 

  けて、独断突進を始めて、年が明けた1/1の午後3時30分頃望台頂上 

  翩翻ヘンポンと日章旗が翻ったのである。 

 (桑原嶽著の「乃木希典と日露戦争の真実p188) 

    

  この望台こそが乃木第三軍の攻撃目標でであり、旅順要塞の要の砦であっ 

  た。 

   

   

  これを見た旅順要塞司令官の「ステッセル中将」は「もはやこれまでだ 

  とつぶやいたという。(ロシア破れたり」のP190 

 

  二〇三高地後もこのような激戦が行われていたのであるが、司馬遼太郎 

  の「坂の上の雲」は、 

 

  「二〇三高地の陥落後もなお、旅順要塞の攻防は続いている。 

   ただし、戦勢は逆転した。砲兵力も日本軍の方が優勢となり、…諸事 

  車が坂を下るようにして容易になった。いわば、残敵掃蕩期に入った 

  いうべきであろう。 

  (文藝春秋社「坂の上の雲」四,S46年第15刷 P214下段) 

 

  「残敵掃蕩期に入った」などと勝手なことを言っているが、それは望台 

  とってからの話であり、司馬遼太郎の勝手な作り話である。 

 

  乃木希典と日露戦争の真実」(p189)では「司馬氏は、二〇三高地が落ち 

  たあとは、残敵掃蕩期に入ったなどと言っているが、とんでもない見当違 

  いである。・・・残敵掃蕩戦というような生易しいものでは、決してなか 

  ったのである。(p189、190)と言っている。 

(続く)

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