玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*パウロと親鸞

2019年05月27日 | 捨て猫の独り言

 私は仏教やキリスト教について、この年になるまで無知で過ごしてきた。僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされる般若心経を面白半分に暗唱した経験ぐらいしかない。最近になって親鸞のアニメを見たことを契機に、その生き方を知り大いなる感動を覚えた。しばらくして、偶然にも遠藤周作(1923~1996)著「私にとって神とは」「キリストの誕生」を読むことになった。

 キリスト教について仏教以上に無知であったためか、むさぼるような読み方になった。イエスは具体的存在であり、キリストは魂を救う者という抽象的理念である。キリストの誕生とはイエスがキリスト(神格化)になるまでのことだ。十二使徒であるペトロ、生前のイエスを知らないポーロ(パウロ)。旧約聖書と新約聖書、カトリックとプロテスタントとの違いなども理解した。

 遠藤氏は信仰というものは90%の疑いと10%の希望だ(ペルナソス)というのが宗教的人生であり、人生そのものであると思うんです。人間というのはそんなに強かったら宗教はいらないと思いますと言う。カトリック教徒でありながら、もちろんのこと仏教にも詳しい。そして芋ずる式に佐古純一郎(1919~2014)著「パウロと親鸞」という興味深い本の存在を知り、さっそくアマゾンで購入した。

 

 佐古氏は西本願寺の末寺に生まれ愛読書は歎異抄という経歴の持ち主であり、かつ教会牧師である。パウロと親鸞はその信仰の軌跡、信仰の内容において驚くほど似ているという。それを10章に分けて比較検討しているから面白い。パウロについては聖書の「パウロの手紙」や「使徒行伝」、親鸞については「歎異抄」が中心である。パウロくらい福音の信仰に徹底した人はキリスト教の歴史においてもいない。親鸞くらい「唯信」に徹底したお方はいないと言う。

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*アブラムシ

2019年05月23日 | 捨て猫の独り言

 5月の中旬になって梅の木の真下にある敷石表面が黒光りしている。梅の蜜でも滴り落ちているのかと呑気にかまえていた。そのあと梅の木を見上げて見て、アブラムシのせいと気付いた。短期間で爆発的に増える。以前にも大量発生し、気が動転して太い幹をあちこち無残にも切り落としたことがある。またしてもあの時と同じように、それぞれ多数の梅の小枝にびっしり、へばりついている。

 子供の頃にゴキブリのことをアブラムシと呼んでいた。ゴキブリではなく3ミリ前後の白っぽい粒状の小さな小さな虫だ。アブラムシについて調べてみた。集団で長い口針を植物に突き刺して樹液を吸って生活する。また排泄物には、余剰な糖分が大量に含まれており、甘露と呼ばれている。 甘露を求めるアリと共生関係を持ち、天敵のカブトムシなどから守ってもらう習性があるという。(センダンとウツギ)

 

 敷石の黒光りしていたものはアブラムシの排泄物だった。駆除の方法はクラフトテープでペとぺと取り除く、牛乳を吹きつけるなどがあるという。私のやったことは、アブラムシにびっしり覆われた小枝を惜しげもなく切り落とし、それらをビニール袋に密閉して剪定ゴミに出すという単純な方法だった。洞ができて弱体化している梅の木だからできることかもしれない。(ザクロとスイカズラ)

 

 切り落とした小枝のそばにテントウムシを一匹見つけた。天敵を確認したということになる。切り落としたのは先日の大雨の前日だった。大雨の翌日には敷石の黒光りはきれいに洗い流されていた。大雨にも流されずアブラムシのまだ残る小枝に殺虫剤を散布してひとまず区切りとした。これまで悩まされた害虫は、ツバキの毛虫、菜っ葉の青虫である。それにしても、人間の言う害虫を含めてこの地球上には無限ともいえる生命が存在しているという神秘には頭を垂れるしかない。

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*公開講座

2019年05月20日 | 捨て猫の独り言

 午前中は前日の深酒のせいで自分の体を持て余しながらぶらぶら過ごしていた。お昼時に津田塾大学に出かける。正門で住所氏名を書き込んで聴講券を手に構内の食堂に向かう。1時開始の講座の前に食事をとることにしたのだが、なんと食堂は二重の長蛇の列ができて混雑している。周囲は若い女性ばかりで、どこか不思議な世界に迷い込んだようだ。

 それでも食べ終わる頃には列は解消していた。来週の受講のときはこの経験を生かして少し遅れて家を出ることにする。今回の講師である國分功一郎氏の専門は哲学で、我が家の近くに住む44歳である。小平市都道328号線問題の住民投票実施について中沢新一氏らを招いた集会で初めて見かけた。この日の演題は「意志について考えてみる」だった。

 

 日本語表現豊かな著書に毎年贈られる小林秀雄賞を「中動態の世界」で2017年に受賞している。私たちは様々なことを、「する」か「される」に分類してしまいます。しかし、かつてはこの分類に入りきらないものをきちんと認める文法・中動態が存在していました。これを初めて知った人にとっては確かに驚きであろうと思います。私も大変驚きましたと話す。例えば能動と受動の対立では「謝る」という心に深く結びついた行為をうまく説明できない。

 「自己責任」という言葉が幅を利かせるようになったが、実のところ意志と結びついていない責任はいくらでも存在する。中動態について考えることは、「意志」と「責任」という概念と不可分かのように考えられている〈わたし〉を解きほぐしていくことでもある。キリスト教以前の古代ギリシャには意志の概念はない。意志はキリスト教の使徒・聖人のパウロの「信仰」がつくったともいわれる。短時間の講演であれば消化不良やむなしだろう。

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*学生食堂

2019年05月13日 | 捨て猫の独り言

 夏野菜の植え付けのため、年を越して畑にあったシュンギクとナバナを撤去した。掘り返した土は半月ほど虫干しした。ナバナは初めて植えてみた。説明には早春につぼみを収穫とあった。しかし大きな葉ばかりの収穫だった。夏野菜の植え付けはキュウリ、トマト、ピーマン、ゴーヤで、苗は12日の「こだいらグリーンフエスティバル」で購入した。

 思いがけない行動に出ることがある。前日までは頭の片隅にもなかったが、昼食のため9日に武蔵野美術大学の学生食堂に出かけた。ここでの食事は我が人生で3度目である。正午頃に自転車で乗りつけると、年配の守衛さんたちがにこやかに駐輪場を案内してくれる。外部者も全くの出入り自由である。混雑の中を外を眺める窓側の背高椅子の席に陣取る。食券はいつものビーフシチューにした。

 地下にある食堂の隣の大ホールでは日本画学科の学生による作品展示が開かれていた。この大学では何らかの展示がたびたび開かれている。入り口でアンケート用紙を渡された。多くの人に見てもらうための出入り自由だと納得する。メインの美術館はつぎの展示の準備ということで閉館中だった。これと対照的なのが津田塾大学である。だいぶ前だが、予約がないと入れないと断られた経験がある。(9日に武蔵美にて)

 

 これら二つの大学はどちらも徒歩10分ぐらいで行ける。津田塾の公開講座「総合」は難聴が主な原因で2年ほど前に聴講しなくなった。鈴木さんのオープンギャラリー閉鎖と時期的に重なる。まだ「総合」は続いているかネットで調べた。なんと興味深いことには、今週16日の木曜の講演者は小平市在住の國分功一郎氏である。そしてつぎの23日は津田塾大学学長・高橋裕子氏の「津田梅子の歩み」とある。この2回は学生食堂での昼食の後にぜひ聴講しようと思っている。 

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*養老先生の見立て

2019年05月09日 | 捨て猫の独り言

 養老孟司「真っ赤なウソ」(大正大学出版会)は宗教を考えるときに、多くのヒントを与えてくれます。養老先生は中学・高校はイエズス会系統のカトリックの学校で学んでいます。「宗教とは何だ」って若い人に聞かれると「ウソから出たマコトだ」と答えることにしているそうです。キリスト教は「霊魂の不滅」で仏教は「諸行無常」であり、どちらの前提を採るかによってやることが違ってくると言います。さらに要約を続けます。(多摩湖と狭山湖)

 

 キリスト教の教義の根本は「最後の審判」です。最後に大天使のラッパと共にすべての死者が墓から起き上がって神の前で裁きを受けるのです。そうであればそれまで自分というものがなきゃおかしいんです。「変わらない私がある」ということは魂が変わらないということ。「霊魂の不滅」がないとキリスト教は成り立たないんです。ですから生まれて生きている間も同じ自分であって当たり前です。

 それに対して仏教の立場から本気で考えたら「それはおかしいよ」どこからか声が出ないとおかしい。仏教の世界は「諸行無常」であって「無我」の境地なんですから。無我という意味は考えている私がないということではなく、考えている私が必ずあるということです。ただいま現在あるけれどそれは絶えず変わってゆくもので、どれがおまえだよということになります。

 科学の世界では事実というものは追求できるはずだという信念を持っているようです。しかし客観的にすべてのことを知ることはできず「真相はやぶの中」が本当のところでしょう。NHKの報道局長が「公平・客観・中立」というときに、それはどこまで可能かという問題があるわけです。これは「人間の立場」でなく「神の立場」です。すでにわれわれの考え方、社会の考え方が公式的には、キリスト教的一元論的な世界だということになってしまっている。

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*突然のヒョウ

2019年05月06日 | 捨て猫の独り言

 玉川上水の緑道はいつのまにやらすっかり若葉で覆われてしまっている。中でも柿若葉には心惹かれる。さまざまな新緑の中でも格別なみずみずしさがある。つややかな柿若葉が青空を背景に風にそよいでいる様子を仰ぎ見ることができるのは、ほんの短い期間だ。柿若葉は天ぷらやお茶などの食用にできると聞いたことがある。

 5月4日は、これまであまり経験したことのない気象現象に遭遇した。この日の東京の天気予報は晴れのち曇りで最高気温が25℃最低が14℃だった。予報は当たっているかのように推移していた。午後から曇り初めて4時を過ぎた頃に、やけに暗くなり4時40分ごろに、どこかを何かが叩いているような激しい音がした。何事か起きたのか最初は分からなかった。

 

 雹がガラス窓にぶつかる音だった。庭を見ると大粒の雨と共にビー玉ぐらいの大きさの雹が芝生に降り注いで跳ねている。私がこれまで見た中で一番の大きさだ。ガラス窓にぶつかった雹が軒下に積もり始めた。天窓がぶち抜かれないかと心配するほどの激しさだった。ニュースでは雹にはふれず、大気の状態が不安定で激しい雨が降ったとだけ伝えていた。

 

 翌朝になって被害の大きさに気付いた。柿若葉が文字通り木端微塵にされて一面に積もっている。柿はその6割ほどの葉が落ちた。柔らかいウツギも傷んだ。固いツワブキの葉も破れ傘のような姿になり、松の葉もかなり落ちた。翌日はよく晴れて暑さの中で後始末に追われる。雹が降るのは春の後半から夏で、俳句では夏の季語になっているという。

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*孫のことなど

2019年05月02日 | 捨て猫の独り言

 アトランタの孫娘たちが6月16日に来日して50日ほど滞在することが決まった。これまで通り母親と一緒に来て、母親は先に帰る。残された孫娘たちは、祖母が送り届けるのを止めて二人だけで飛行機に乗り帰国することになった。向こうでは二人ともサッカークラブに参加して試合経験を積んでいるという。6月7日からは女子ワールドカップのフランス大会が始まる。滞在中は熱心にテレビ中継を見ることだろう。

 カラマーゾフを少しずつ読んでいるが、とうとう「ねぎの話」に遭遇した。「天使が火のうみのいじわる婆さんに差し出す一本のねぎがぷつりと切れて婆さんは再び火のうみへ」という話です。囲い者のグルーシェンカがこのたとえ話を持ち出して「わたしがそのいじわる婆さんで、わたしをいい人間だなぞと思わないでちょうだい」とアリョーシャに訴える。芥川龍之介は稀にみる換骨奪胎の名手のようだ。

 遠藤周作の「私にとって神とは」に関しての追加です。孤里庵先生は日本人にキリスト教で言う罪意識があるかないかということで悩みました。そして日本人である自分の肉体が、キリスト教という洋服を着せられた時のぎこちなさ、ダブダブな感じ、それを和服に仕立て直そうと試行します。親鸞聖人の「われわれ凡夫は罪障が深い」のその罪障とは悟りがどうしても開けない(=苦)ということを罪深いと言うのではないか。

 キリスト教で言う罪というのは神による救済を絶望することです。日本人の「ツミ」のイメージは生きる上での苦しみのことです。自己探究の仏教の場合、根底においては自分を清浄にすることが目的で、罪というのはその清浄を乱すことを言ったわけです。他者との関係から起こる罪ということを問題にしないで、苦だけで人間の行為をとらえることはもはやできなくなっているんじゃないか。

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