玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*笑顔発見

2020年10月29日 | 捨て猫の独り言

 柿はそのほとんどの葉を落とした。その落ちた大きな葉には黒い斑点が浮き出ている。それにくらべてハナミズキは枯葉と呼ぶにふさわしい。薄く軽く紅葉して、握ると粉々に砕けそうだ。赤い実を食べにヒヨドリがやってくる。メジロとシジュウカラも飛来するがハナミズキの実を食べているのかどうかよく分からない。

 かなり前からJR東日本の「大人の休日倶楽部」の会員だ。運賃3割引きの特典をほとんど利用することなく、ズルズルと自動継続している。「そのうち旅に出よう」の気持ちがどこかにあるから脱退せずにいる。会費は月毎に送られてくる広報誌代と考えるしかない。10月号の表紙の男性の笑顔を見て「いいなあ」と思った。

 つられてこちらまで幸せになれそうな笑顔だ。それは発酵学者の小泉武夫という。1943年(昭和18)福島県生まれ。「実家は江戸時代から続く造り酒屋で、全国で唯一、醸造学科(当時)のある東京農業大学に行けと言ったのは親父でした。これ、500%大正解。酒造りの実習ができて利き酒もできて、こりゃいい所に来たなと思いましたね(笑)」

 

 ひさしぶりに、ラジオ深夜便の「明日への言葉」を聞いていた。なにやら軽快なテンポの受け答えの男の声で、発酵仮面とか発明とか特許とか聞こえてくる。やはり声の主はあの笑顔の御仁だった。短期間のうちに写真と声で出会って、親しみが増した。「私の活動の原動力は酒と肴です。普段、主に飲むのは、日本酒と焼酎。それからワイン。それから・・・(笑)」

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*昼めしと芹沢銈介

2020年10月26日 | 捨て猫の独り言

 鹿児島市内の昼めしならば、決めている店が二か所ある。空港からのバスを中央駅で降りて「たぐち」に向かう。その途中、中央駅東口(桜島口)側にひときわ目立つ高層住宅が建設中だった。西田橋のたもとにある「たぐち」の日替わり定食はとんかつだった。店の老夫婦は健在で、今年の厨房にはその息子さんと思われる方の姿があった。

 ザビエル公園近くの「よしみ屋」には2日目に母と妹の三人で出かけた。私の注文はラーメンとチャーハンそれぞれ小の組み合わせに決めている。昨年は大相撲の「明生」のことを若い主と話した。壁に新しいの手形の色紙が飾られている。誰のものか判読できずに尋ねると「白鵬」のものだという。明生のものが欲しかった。

 一昨年に母から「94歳の手習いで水彩画」という地元紙の記事がファックスで送られてきた。そこにはカルチャースクールの51歳の男性講師の「90歳を過ぎて絵画教室に飛び込む人なんかいない」というコメントと、二人が一緒の写真があった。母は絵も書も素人離れの腕前だが、惜しいことにその子たちは誰一人としてその才を受け継いでいない。母は描くことが生活の中の楽しみの一つであったが、さすがに今ではどちらの筆も取ることはないようだ。

 

 妹は若い頃から芹沢銈介の存在を知っていたという。民芸運動の主要な参加者で、型絵染めの人間国宝である。母は芹沢作品と知らずに、自分の感性のままに選んで、日常的に身の回りに置いていた。私は最近になって日本民芸館を訪ねたときに芹沢銈介のことを知ったにすぎない。妹はことさら言うまでもないことだと黙っていたようだ。私の一人遊びのために碁盤が出してあった。碁盤の前に置かれた昔からある座布団が、芹沢作品だと妹は言う。これは初めて見るのだが、碁盤にかけられているカバーも芹沢作品だった。

  

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*鹿児島の温泉巡り

2020年10月22日 | 捨て猫の独り言

 帰省の時の定番は桜島港のすぐそばにあるマグマ温泉に行くことだ。ザビエル公園の近くのマンションから港までいつも歩いて行く。15分の間フェリーから桜島をたっぷり楽しむ。アトランタの孫たちは、ここの温泉施設で一泊したことがある。そのとき二人は浜に出てイルカの群れが泳ぐのを見ていた。

 ここの脱衣所のロッカーは古いうえに有料ときている。しかもべらぼうな値段だ。コインが戻るロッカーにできないものかと思うのだが、今年も改善されていない。こんな些細なことで観光客の印象が悪くなるのは大きな損失だ。桜島温泉は2日目で、初日は新川温泉に自転車で行った。市内にはあちこちに温泉(銭湯)がある。

 3日目は鹿児島在住の弟が車で案内してくれた。96歳の母と介護役の長女の4人でドライブだ。母は手押し車につかまって自力歩行する。行き先はどこかの温泉とリクエストした。母が0歳の私を連れて疎開していたという阿久根は少し遠すぎる。それならと弟は、いちき串木野市にある「冠岳温泉」と決めた。

 

 行きは日置市の「陳寿官窯」に立ち寄る。一度訪れたことがあるがその時の記憶は失われていて、初めて訪れた気がした。東シナ海の海岸沿いにある「江口蓬莱館」の場内で母の姿を見失う。館内食堂の順番待ち席で発見。母は昼食代の支払いを自分でするつもりだった。受付表の名前を消して外へ出る。冠岳温泉はいちき串木野市に2010年にできた。すべてに清潔感がありロッカーのコインは戻る。大自然を臨む露天風呂が素晴らしかった。遅い昼食のあと、帰りは内陸部の道を通る。私には初の「入来峠越え」の経験だった。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*城山展望台

2020年10月19日 | 捨て猫の独り言

 ハガキを調べると、中学の同窓会の案内が来たのは1月。日時は10月14日、場所は鹿児島市内にあるホテル吹上荘。6月になって感染拡大のため中止の連絡が届く。喜寿を前にした参加希望者は70名と記されていた。それでも中止になった同窓会の日程に合わせて帰省することにした。去年の喜界島旅行からほぼ1年が経過している。

 予約なしの航空券で午前中には鹿児島に到着した。これほど長生きするとは思わなかったという、まもなく97歳になる母がいる。施設暮らしに馴染めずに一人で生活を始めた。見かねた長女がこの4月から千葉から単身やって来て面倒を見ている。母の生活は改善されて寿命がさらに延びたように感じた。

 父母は10年前に郊外の急な階段のある一軒家から、市内の中心部にある高層マンションの最上階に引っ越した。その年に父は93歳で死去している。それは引っ越して、わずか数か月後のことだった。このマンションから城山の展望台までは30分ほどで行ける。帰省の際の私の楽しみの一つは展望台広場のラジオ体操への参加だ.

  

 5時過ぎには自然と目が覚めて、一人起きだして照国神社のわきから遊歩道を登り始める。昨年からの遊歩道の整備工事は終わっていた。東に見える桜島の黒い影の上には明けの明星があり、その上には細い月が見える。6時に到着すると5名ほどで広場を掃き清めている。広場の境界では一礼して広場に出入りしている。月と金星の位置関係を3日連続で観測したが日毎に大きく変化していた。6時45分ごろ桜島南岳のあたりから朝陽が顔を出し始めた。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*ゼロの科学

2020年10月15日 | 捨て猫の独り言

 「宇宙はゼロから生まれた!」の主役はアレキサンダー・ビレンギン博士(71歳)だ。ウクライナに生まれその後アメリカに移住。1982年に発表した「無からの宇宙創生」は学会はもとより一般の人々にも大きな反響をよんだ。宇宙創生論や、インフレーション宇宙論などの研究を行っている。人類が太古の時代から思いをはせてきた宇宙のはじまりそのなぞは博士はどのように考えているのか。

 「無」とは物質がないだけでなく、空間も時間さえもない状態のことです。部屋からすべてのものを外に出したとしても、それは「無」ではありません。まだ空間がありますから。また「無」の前にはどんな時間もありません。いってみれば、この宇宙がはじめてあらわれたときに、時間は始まったのです。

 

 私は、このゼロの「無」から宇宙が創造される確率を計算してみました。するとその確率がゼロにならず、有限の確率になることに気づいたのです。創造された非常に小さな宇宙は、非常に高いエネルギー状態であり、風変わりな性質をもっています。真空が作り出す力が反発力として作用するのです。真空の反発力は小さな宇宙空間を急激に膨張させるのです(インフレーション)。宇宙全体ではインフレーションは終わらないのです。

 インフレーションが終わると、インフレーションをおこしていた真空のエネルギーが熱にかわり、多くの素粒子を生み出します。これがインフレーション理論での「ビッグバン」(灼熱宇宙)です。この領域では、最終的に銀河が形成されたりします。膨大な広さの宇宙があり、私たちはその中のインフレーションが終了したごくごく一部の領域に住んでいるということです。 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*無限の科学

2020年10月12日 | 捨て猫の独り言

 本棚に2006年発行の科学雑誌(Newtonムック)がある。タイトルは「ゼロと無限の科学」。眠っていたその一冊に手が伸びて、ぱらぱらとページをめっくていたところ、6日の新聞にノーベル物理学賞3氏の発表があった。「ブラックホールの存在を証明」とある。その中の一人オックスフォード大教授のロジャー・ペンローズ氏(89歳)は、14年前のこの雑誌に「宇宙に無限は存在するのか?」に主役として登場していた。

 ひさしぶりに手にした本の中の人物が、今こうしてノーベル物理学賞の記事に出ている。思わず読書に熱が入る。「ブラックホールやビッグバンには必ず密度が無限大になる特異点が存在するということをホーキング博士と共同で発表しましたね」という雑誌の質問に意外な回答をしている。「私が本当にいいたかったのは、どこかで密度がとてつもなく大きくなりそうだぞ、そうなると量子力学を使った新しい理論が必要だということでした」

 つぎの発言も興味深いも。「私が何か考えるときには、たいてい視覚的に、つまり幾何学を使って考えています。私の頭の中にすんなりと入ってくるのはいつも幾何学でした。どうやら多くの数学者たちは、幾何学よりも代数学を得意とするようですが」。だまし絵で有名なエッシャーの「滝」の版画は、ペンローズ博士が考案した実現不可能な三角形をもとにえがかれた。

 

 そしてつぎも。「二つの偶数の和としてあらわすことのできる奇数はあるだろうか?」そんな奇数が存在しないことはすぐにわかる。そのとき私たちは計算ではなく「気づき」によって答えを出している。コンピューターなら、そのような奇数をいつまでも探しつづけるでしょう。人間の意識には、計算という過程では実現できない何かがある。意識の問題は、私たちがまだもっていない物理学によって説明されるものにちがいありません。そのすき間は、量子力学の不完全性にあると思っているのです」 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*読書の秋

2020年10月08日 | 捨て猫の独り言

 図書館の新刊本コーナーにある産経新聞出版の「消された唱歌の謎を解く」に手が伸びた。新聞連載を再構成した本だ。消したのはGHQ(連合国軍総司令部)であり、学習指導要領であり、時の流れである。謎というよりも唱歌の成り立ちなどの解説である。後半では日本統治時代の台湾、朝鮮や満州で現地の自然や動植物、歴史や伝統風俗を織り込んだ独自の唱歌が作られた事実が力説される。

 司馬遼太郎の台湾紀行文「余分な富力を持たない当時の日本がー植民地を是認するわけでないにせよー力の限りのことをやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた」がさりげなく引用されている。(紫苑、ヘビウリ)

 

 もちろん、植民地教育である以上、「日本への同化」が大前提になっているのは否定しない。だが、同化だけならば、何も郷土色豊かな唱歌を作るという、面倒な仕事をやらずとも、内地の唱歌をそのまま導入すれば済む。世界中を見渡しても、こんなことをやったのは日本以外にあるまい。現地の人々と誠実に真摯に向き合った日本の統治教育の真骨頂が独自の唱歌と高く評価する。

 その他に「ペチカ」や「待ちぼうけ」は1924年の「満州唱歌集」に収録されたもので、これは現地に住む日本人の子供たちのために、北原白秋が作詞し、山田耕作が曲を書いたものという。また、「里の秋」は昭和20年、南方から浦賀港へ入港する引き揚げ船を迎えるNHKの生放送のラジオ番組「外地引き揚げ同胞激励の午後」のために急遽つくられたという。現在では秋の歌として、文化庁などによる「日本の歌百選」にも選ばれている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*秋晴れ

2020年10月05日 | 捨て猫の独り言

 一週間前にゴーヤの棚を撤去して、部屋が見違えるほど明るくなった。猛暑があって、収穫量は後半になって増えた。太陽の恵みにあらためて気付く。ありがたいことに剪定ゴミや落葉などは無料で回収してくれる。ミョウガも最後の収穫があった。雲南百薬は勝手に生い茂っている。色づいた柿の実がポトリと落ちる。

 大相撲9月場所が終わった。もう一人の主役は28歳で新入幕の翔猿だった。場所前は新入幕としては朝青龍を叔父にもつ21歳の豊昇龍の方が注目されていた。10勝2敗の翔猿が「優勝を意識するか」と聞かれて「3連勝してから考えます」と答えていた。それを聞いた解説の北の富士さんは「ふざけた野郎だ」と笑った。

 人間の体で大切な器官には目や耳のように二つついているものがある。一つだけでは危険度が高い。私の体はどうも自分から見て右半分に障害が出るようだ。右の目、右の耳はほとんどその機能が失われている。片方の目と耳で普通の生活が維持されている。そして天の配剤に感謝している。

 

 どこからともなくキンモクセイの甘い香りが漂ってくる。そんなさわやかな秋のある日に、都立薬用植物園に出かけた。入園無料。入り口付近ではハギとサキシマフヨウ(先島芙蓉)が出迎えてくれる。「ハギ・キキョウ/クズ・フジバカマ/オミナエシ/オバナ・ナデシコ/秋の七草」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*町の姿

2020年10月01日 | 捨て猫の独り言

 私の住む地域では農地の宅地化が急ピッチで進んでいる。一つの場所で30戸前後を一挙に建てる大型計画があちらこちらで進行中だ。その勢いが衰える気配はない。ここらは江戸時代の新田開発の名残である短冊形の農地が数多く存在している。現在の地主たちが先祖代々の土地を手放しつつある。蕗の薹を摘んでいた土地につぎつぎに家が建つ。

 東京一極集中の弊害は時おり話題になるものの、いつのまにやら立ち消えになる。それのくりかえしだ。これは地方の過疎化問題と表裏一体のはずだ。自民党の総裁選で、この問題をひとり石破氏が訴えていたが、大きな広がりにならなかった。マスコミが、もっと執念深くこの問題を取り上げるべきだと思うのだが、なかなかそうはならない。

 最近建てられた戸建てが並ぶ街並みに、これまでとは違う印象をもつことがある。どうやら車庫の置き方によるものだ。敷地の道路側全面が車庫スペースになり、家屋は奥に引っこんでいる。車は玄関前に道路と平行に駐車する。道路沿いに車ばかりがずらりと並んで、まるで車の展示場の様相を呈する。これだと車の出し入れは簡単ではある。この変化を開発業者に確かめたい気がする。

 

 斜向かいに世話好きな目上の女性が暮らしている。遠くの家の前を掃き清めたり、他人の家の草花に水やりをしてくださる。ここらの子どもたちは、何度もおやつをいただいたことがある。我が家の玄関前の鉢に、みずから買ってきた草花を植えてくださる。枯れると「気にしないで」と新しいものに植えかえる。その方の家の隣や近くの更地に新しく三軒の家が建った。引っ越してきた若い世帯の三軒のうち二軒は表札を出していない。そして、三軒ともできれば近隣のおつきあいは遠慮したいという風情である。なんだかさみしい。向こう三軒両隣が死語になりつつある。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする