玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*目取真俊のブログ

2023年10月30日 | 沖縄のこと

 地道な辺野古新基地反対運動のレポートである目取真俊のブログ「海鳴りの島から」の10月の記事をピックアップしておきたい。

◯10・5(座り込み抗議3378日目)

前日、日本政府の圧力に屈せず、玉城デニー知事は軟弱地盤の改良工事の承認をしないまま期限を迎えた。承認と不承認の間で揺れ動く知事の心情や県幹部、与党議員、後援会、支持者などの動きを県内メディアは報じている。

 それらの前提にあるのは、今でも辺野古のゲート前や海上、安和、塩川などの現場で、市民の抗議行動が続けられていることだ。現場で目に見える形で抗議する市民の姿が消えてしまえば、新基地建設に反対する世論も衰退し、選挙にも影響する。

 行政や議会、メディア、インターネット空間だけで政治が成り立つ、と考えるなら大きな間違いだ。市民の努力が、政府の圧力にも耐え抜く沖縄の力を生み出すのだ。

◯10・7

毎週第一土曜日にはキャンプ・シュワブメインゲート近くで県民大行動が開かれる。主催者発表で900人の市民が集まったが、日本政府の圧力に屈することなく、大浦湾の軟弱地盤着工への承認を拒み通した玉城デニー知事を支持し、応援する声が次々に発せられた。

 辺野古新基地問題は「沖縄問題」ではない。日本を守るためには米軍が必要だ。だけど日米安保条約に基づく米軍基地の負担は負いたくない。だから沖縄に米軍基地を集中させて押しつけておけという醜い日本人問題なのだ。

◯10・21

1995年の10月21日は3人の米兵によるレイプ事件に抗議し、沖縄全体で8万人を超す県民大会が開かれた。

 あれから28年が経つ。「1日も早い普天間基地の返還を」と口にする自民党・公明党の政治家たちには、怒りを通り越して憎しみすら憶える。

 実際には、あと12年かかっても新基地は完成しないだろう。無駄な時間と予算を費やしても、その間に事件や事故が起きようとも、政治家も官僚もだれも責任を取りはしない。本当に腐りきった国だ。

◯10・25

 物価高に苦しみ、少しでも安く買い物をしようとあくせくしている市民は、自分たちの払った税金がどう使われているか直視しないといけない。

 辺野古新基地建設は、米軍に普天間基地を長く使わせ、ゼネコンと政治家が利権をむさぼるために長期化し、予算が増大していく。

 軍事基地は何も生産せず、新たな富を生み出さない。こんなことに予算を浪費している限り、この社会はどんどん衰退していく。

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*DVDを観る会

2023年10月26日 | 捨て猫の独り言

 主のいなくなった隣の家の、小さなカキの木に色づいた実が重そうにぶら下がっている。我が家の高い柿の木にも、例年より多い数の実がついた。難点は重い三脚梯子を持ち出さねばならないことだ。この歳になると背伸びするだけで収穫ができる隣りの柿の木が好ましいものに思われてくる。

  

 日曜の午後、公民館で吉永小百合主演、山田洋次監督の映画「母と暮らせば」を観た。観客は主催者の2名を除くと6名、しかも高齢者ばかりとちょぴり寂しいものだった。井上ひさしの戯曲に、広島の原爆投下で亡くなり亡霊となった父と生き残った娘の物語「父と暮らせば」がありこれは2004年に映画化されている。

 井上ひさしは「父と暮らせば」と対になる作品を「母と暮らせば」という題で長崎を舞台に作りたいと思いながら2010年に亡くなっている。終戦70年の2015年にその遺志を山田監督が引き継いで映画化した。長崎の助産師の母(吉永小百合)のもとに3年前の原爆で死んだはずの息子が現れる。当時医師を目指していた彼(二宮和也)には将来を約束していた恋人(黒木華)がいた。

 「父と暮らせば」を映画化したのは2006年に亡くなった黒木和雄である。黒木監督の「美しい夏キリシマ」と「紙屋悦子の青春」の二つの作品を観たことがことがある。その突き抜ける土着の情念とでもいうべきものに深く共鳴し畏敬の念を覚えた監督だった。「TOMORROW明日」「美しい夏キリシマ」「父と暮らせば」は戦争レクイエム三部作と呼ばれている。まだ観ていない二作をいつの日かという目標ができた。

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*ある秋の日

2023年10月23日 | 捨て猫の独り言

 心地よい秋晴れの10月14日の土曜日に御嶽渓谷に出かけた。(旧)青梅街道をひた走る都バス梅70で行く。土日に限り青梅駅から梅01で御嶽駅まで行くことができる。紅葉の見頃は11月上旬からのようで、うかつなことに期待していた景色に出会えなかった。

 ゴムボートに乗り込み、みんなで力を合わせてパドルを使って川下りするのをラフティングということを知る。天然の岩場でボルダリングマットを敷いて、それほど大きくもない岩に若者たちが蝉のようにへばりついていた。不思議と渓谷周辺にキンモクセイの香りはなかった。

 

 これまで、いくつか大型の家具を市役所に粗大ごみとして出した。これで断捨離終了と思っていたが、40年以上もほとんど使うことがなかった木製の椅子が3脚残っていた。「必要とする人に自由に持ち帰ってもらうようにしたら」と家人から提案があった。

 ある晴れた日の午後、張り紙を添えて門扉の前にその椅子を置いてみた。するとその日の夕がた1つの椅子が姿を消した。少しほっとしたが翌日の午前中になっても2つは残っていた。しかしその日の午後になって全部の椅子が無くなっていた。それに気付いたとき、思わず幸福な気分に満たされた。

 

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*目刺し

2023年10月19日 | 捨て猫の独り言

 昔から快眠・快食・快便は健康のバロメーターと言われている。私の実感では歳と共に、まず快眠と快便に不調が起きて一番最後にくる不調が快食のように思われる。私は健康であることにさほど執着はなく、人生100年時代が叫ばれているが、長生きしようという意欲に欠ける。

 ときどき気分転換のために昼の外食に出るが、寿司・うどん・和定食がほとんどで中華・ステーキには足が向かない。肉類は我が家の料理担当者がいろいろ苦心して、夜の食卓に並ぶ。ところで最近つくづく「目刺し」をおいしいと感じた。サンマにも類似の愛着がある。

 江戸の庶民もよくメザシを食べたのだろうと思う。今の物価高の中でもやはり目刺しは安い。口の中で白いご飯と内臓の苦味に塩味が溶け合って、どこか懐かしいおいしさを私は味わう。天婦羅や刺身もこのメザシのおいしさには勝てないとまで思う。

 メザシは小型のイワシを塩水に浸したあとにまるごと干して作った加工食品であって魚の名称ではない。イワシの稚魚は「しらす」や「ちりめんじゃこ」と呼ばれる。鰯は沿岸性の回遊魚で群れで回遊している。日本以外にイワシを干物にして食する国があるのかどうか知りたいと思う。

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*キンモクセイ

2023年10月16日 | 捨て猫の独り言

 春のジンチョウゲ、夏のクチナシ、秋のキンモクセイは三大香木と呼ばれている。猛暑が続いたあとに、やっと爽やかな秋の季節がやって来た。街中に金木犀の甘い香りが漂っている。三大香木もいいけれど、実は玉川上水に自生する初夏のスイカズラの甘く優しい香りが私の一番のお気に入りである。

 それはさておき、かつて我が家の南の生垣沿いに背丈以上に育った金木犀があった。しかし畑の陽当たりの関係が原因であったと記憶しているが、それを無残にも切り倒してしまった。近所の方からなんともったいないことをとお叱りを受けたことがある。

 五年以上前のことだが、薬用植物園で一本の金木犀の苗木を手に入れた。ニシキギが枯れて姿を消した窓下の空間に植えた。こんな菜箸ほどのひょろひょろが、ほんとうに育ってくれるのかと不安だった。それが無事に育ち始め、その成長の過程を観察した。

 そしてつい最近のことである。初めて窓下の金木犀の枝先にオレンジの小さな花が咲いているのに気づいた。驚き、そして感激した。近づいて香りを確認する。かすかに香っている。見守る金木犀がやっと一人前に成長を遂げたことの喜びは大きい。

 

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*磐梯山②

2023年10月12日 | 捨て猫の独り言

 手元の日本史年表を開いてみた。1707年(宝永4)の富士山、1779年(安永8)の桜島、1783年(天明3)の浅間山の大噴火、1914年(大正3)の桜島爆発の記載はあるが、1888年(明治21)の磐梯山の記載は見当たらない。しかし磐梯山の被害は世界中に発信されたという。

 2日めのお昼近くに五色沼探勝路に出かけた。雨上がりのためホテルに長靴と傘を提供してもらう。片道約4㎞、所要時間は1時間30分だ。高い木々に囲まれたコースはアップダウンが少なく、よく整備されていた。青沼の辺りに「遠藤現夢の碑」の案内があり、帰宅後調べてみた。

 会津の人・遠藤十次郎は山体崩壊後の荒廃した土地に私費を投じて植林を行った裏磐梯緑化の父だ。協力者は日本林業の祖と伝えられる信州の人・中村弥六博士だ。アカマツ5万本、他にスギ3万本、ウルシ2万本は新潟方面から磐越西線で運び、さらに猪苗代からは馬車で裏磐梯方面に運んだ。

 五色沼のなかで一番大きな毘沙門沼の駐車場の入り口近くに「日本赤十字社災害活動の碑」があった。戦争における兵士の救護が目的であった赤十字が医師と看護婦を派遣して、戦争ではない平時に救助活動を行った最初のケースになったことを記念したものだ。ホテルの表示によると猫魔温泉の特長は「ph6.8の湯は肌に近い中性温泉。肌への刺激が少なく、身体に優しい湯のため、疲れにくく、長湯にも適しています」とあった。

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*磐梯山①

2023年10月09日 | 捨て猫の独り言

 猫魔温泉とはなんと珍妙な呼び名だろう。地図をよく見ると福島県のシンボルの一つ磐梯山の西に猫魔ヶ嶽があった。郡山駅から磐越西線に乗り換え、「猪苗代駅」からバスで30分の「裏磐梯」にある温泉だ。五色沼自然探勝路が近くにあり、桧原湖がすぐそこに見えるホテルに2泊した。

 磐越線とは磐城の国と越後の国を結ぶ路線である。「郡山」から日本海側の新潟県「新津」までを磐越西線、「郡山」から太平洋側の福島県「いわき」までが磐越東線だ。郡山から猪苗代駅(標高500m)へは会津若松行きのワンマンカ―で40分かかる。五色沼のある福島県耶麻郡北塩原村の標高は800mである。

 かなり古い火山活動で磐梯山の山体崩壊がくりかえされ猪苗代盆地が堰き止められ猪苗代湖が出現した。さらに1888年(明治21)には水蒸気爆発による山体崩壊で磐梯山の北麓の集落が埋没し死者477人をだす近代日本の初の大災害となった。その際に岩屑なだれが川をせき止め、数多くの湖沼が形成された。桧原湖などの大きい湖に挟まれるように点在する大小の沼が裏磐梯の五色沼である。

 磐梯山の南側(表磐梯)から見る山体は整った形をしているように見えるが、北側(裏磐梯)から見ると、一変して山体崩壊の跡の荒々しい姿を見せる。裏富士や裏桜島はないのに裏磐梯という呼び名が定着した訳が今回の旅で納得できた気がした。

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*在日韓国人政治犯②

2023年10月05日 | 捨て猫の独り言

 韓国では過去の強権・暴力的な軍事独裁での過ちについて、事実を究明したうえで再審裁判によって多数の誤判を正し、被害当事者や(処刑された人、獄死、病死した人たちの)遺族に対し謝罪と名誉回復、そして刑事・民事上の償いを行う立法処置が執られてきた。

 主な真相究明・名誉回復措置としては1980年の「光州事件」、犠牲者が2万5千人以上とされる1948年の朝鮮戦争前後の「済州4・3事件」である。また「在日良心囚」たちの再審の基礎を準備する役割を果たしたのが、2005年の「真実和解のための過去事整理基本法」だ。

 在日良心囚たちは本人の意思に反して不可抗力で収監され、裁判・受刑・服役後に日本に戻ったため永住資格を失った。法務省はいったん資格を失ったら原状回復は難しい、法改正が必要だという見解だ。日韓議員連盟が議員立法で元良心囚を救済する方向だったが日韓関係悪化などの情勢の変化で宙に浮いたまま忘れられた形になっている。
 
 この連載記事で最も心に残ったのは、元良心囚の康宗憲さんのつぎの指摘だ。「救援運動をしてくれた日本の仲間たちに感謝の気持ちと強い友情を感じますが、日本の社会がなぜ司法の改革をできないのか常に私の問題意識としてありました。戦前戦中のファシズムの中で日本社会でこれだけの犠牲と苦痛があったのに、それを敗戦後一切チャラにして誰も触れようとしないというのは日本にとって非常に好ましくない処理の仕方でしょう」

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*父とその娘(下)

2023年10月02日 | 捨て猫の独り言

 私は臆面もなく引用を繰り返しますが最後までお付き合いください。とにかく興味深いのです。

◯父は、ごく親しい人や身内には、「核のゴミなんてな、埋めとくこたない。ロケットに積んで、太陽にぶち込んじゃえばいいんだ」と言っていた。「日本じゃムリだから、どっかモンゴルとか、アリゾナの平原なんかで、もしも落っこちたら、多額の賠償金支払うって約束でさ」。そりゃ~失敗は許されない。メチャクチャ真剣に取り組むだろうよ。技術的には、決して不可能ではない。実際いくつもの探査機が、太陽まで行っている(もちろんJAXAの探査機も)。ブチ込んじゃうのは、シングバイで戻って来るより、はるかに簡単だ。当然ものすごい金がかかるだろう。しかしこれまでに、ものすごい金をかけて開発された”核”だ。ものすごい金をかけて回収するのが、人類の責任というものではないだろうか。そのためにはすべての国が手を組み、技術を結集させねばならないだろう。なんなら”テメエらの国の核弾頭”も、ついでにブチ込んじゃいましょうよ。

◯そんなのは漫画だ。夢物語だと、だれもが言うだろう。それでも人類は、そこに向かって考えねばならない。放棄することはできない。人類滅亡とどっちが早いか分からないけど、考え続けねばならないーと、こんなところが、不親切な父がすっ飛ばした胸の内であると、勝手に補完してみましたがーま、信じるか信じないかは、アナタ次第ですけどね。

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