玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*二つの対談

2019年07月29日 | 捨て猫の独り言

 小林秀雄の偉さは、誰もが知っていることについてそれをさらに深く考えることの大切さを教えてくれたことだ。小林秀雄全集の別巻に収録されている二つの対談を読む機会があった。いずれも古く1948年湯川秀樹と「人間の進歩について」1965年岡潔と「人間の建設」だ。小林が相手の専門領域に立ち入って議論している。三者はほぼ同世代で小林が36歳と53歳のときのものだ。どちらの対談でもドストエフスキーが登場し私の興味をひいた。

 湯川博士との対談内容を断片的にとりあげてみる。19世紀の物理学と20世紀の物理学の比較。精神というか人間というかそういうものから理解していくのと、自然法則の根本から理解していくというその両方の行き方で物事を了解する(湯川)。ぼくは二元論者です。精神というものはいつも物性の制約と戦っていかなければならない(小林)。量子力学。エントロピーの法則。アインシュタイン。永遠回帰。予定調和など。

 岡潔は 人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を「無明」と言います。小林は だいいちキリスト教というものが私には分からないと言います。私は「白痴」の中に出ている無明だけを書いたのです。レーベジェフとイブォールギンという将軍を書いたのです。どうしてドストエフスキーがあれほど詳しくあの馬鹿と嘘つきと卑劣な男を書きたかったか。あんな作品は世界の文学に一つもないと思いまして、それで分析してみたのです。

 湯川との対談では二人の文豪の比較が出る。ドストエフスキーの小説の中心思想は、「罪と罰」の中ですっかり展開されている。それを何度もあの人は繰り返し反復している。だからそれはだんだん深まっていきますけれども、初め非常にコスミックな観念をあの人は得てしまったんです。それ以上外に逃れる場所もないし行くところもない。彼にはトルストイに見られぬ円熟があります。トルストイはそうではない。もっと不安な、何かまだ足りない、どこか世界がもう一つあるという考えのいつもあった人です。

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*残り10日

2019年07月25日 | 捨て猫の独り言

 孫たちの滞在も残り10日となった。残念ながら漢字については二人とも覚える気などはさらさらない。こちらも日本語教育についてのカリキュラムなど持ち合わせていない。ある状況を日本語で説明しようとして必死に言葉を捜しているときに、ついこちらから手助けしてしまう。パソコンで読んでいるのは英語版の物語で、テレビは英語の音声があればそちらを選んでいる。

 テレビと言えば女子ワールドカップのフランス大会のアメリカチームの試合を録画して見た。日本が予選で戦ったオランダが決勝に進出。そのオランダにアメリカは2-0で勝って4度目の優勝を果たした。アメリカ代表の男女の賃金格差是正についての訴えは日本でも大きく取り上げられた。決勝で先制ゴールを決め大会最優秀選手に選ばれたラピノー選手に二人は大きな声援を送っていた。

 もっとも興味があるのはカブトムシの飼育である。夕食後にクヌギの樹液に集まるカブトムシを捕獲に出かける。飼育中の虫かごのゼリーの香りに寄せられて新たに飛び込んできたりするという。3人の蒐集家は38匹のカブトムシをシートに広げてながめていた。飛んで行かないのかと聞くとゼリーを与えているかぎり心配ないという。すべてにゼリーがあてがわれていた。

 そろばんは5玉を使う計算それに繰り上がり繰り下がりを覚えて、「たし算」と「ひき算」がなんとか出来るようになった。残りの日々で、1ケタと2ケタの簡単な「かけ算」ができるようになれば上々だろう。二人の生活の様子で気になることがいろいろあるが、食事のときには左手は食器に添えなさいということはうるさく注意することにしている。

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*手帳

2019年07月22日 | 捨て猫の独り言

 まだ現役の頃、ある旅行業者が営業用に能率手帳を配布していた。退職後もその手帳を手に入れて長年にわたり使っていた。ところが電子機器などの普及によりその会社の手帳配布が中止されて、手に入らなくなった。同じ手帳が店頭では現在でも販売されて売り上げは好調に見える。そこで今年から、薄くて一回り小さい手帳を百円ショップで手に入れて使うことにした。

 なんだか生活の質が落ちたような気分がしないでもない。これまでの手帳はスペースが十分あり、心に残った言葉などをそのつど書き込んだりしていた。そこで書き込みのための分厚いノートを別に用意した。そして百円手帖は予定の記入だけに使うことにし、肝心の二十四節気については赤ペンで自分で書き加えた。

 以前の手帳では別冊のアドレス帳を利用して自己史年表を作成していた。自分の泊りの旅行や物故者の記録などを書き込み、毎年新しい手帳に繰り越してきていた。だから最後の2018年の手帳は年表と共に、やや面倒だがいつも身近に置いておくことになる。年表は2019年の欄はあるが、先のことなど分からないのだからあとは余白にしてある。

 たまに古い手帳を開いてみる。ある一冊に「小過を責めず、陰私をあばかず、旧悪を思わず」という書き込みを見つける。たちまち過去がよみがえり、あの時しばらくの間はそのように心がけていたが、今ではその言葉は記憶から遠ざかっていることに気付く。未来とか現在とか過去とか言うけれど、それらの時というものはどこで区切ればいいのだろう。

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*脳と意識

2019年07月15日 | 捨て猫の独り言

 「14歳からの哲学」を遺した池田晶子の数々の著作から私が学ぶことは多い。そのうちの一冊「メタフィジカルパンチ」は人物批評の書である。その中に小林秀雄と養老孟子も取り上げられている。私にとっても関心の深い二人だ。この池田の単刀直入の批評を介して私は小林、養老に対する理解を深めることができた。と言うより小林、池田、養老の三者には共通の問題意識があることに興味を持った。それは「脳と意識」というテーマだ.

 

 養老先生はユニークな方である。「個人心理何ていうものは存在しない。存在するのは社会心理だけ」とおっしゃる。また「基礎的な学問の秘訣というのはとにかく問題を一番極端な所までもっていくことなんです。たいてい学問には両極あります。今いる所が一方の極だとすれば、もう一方の極が一番極端な所と見ればいい。一番極端な所で成り立つ話というのを考えれば、あとはもうどうでもいいんです」と種明かしをなさる。

 養老先生はある対談の中でつぎのように語っている。「この意識というのが自然科学と非常に折り合いの悪い問題でありまして、私は話の枕に、小林秀雄の〈物質を調べて精神が分かるか〉という言葉をしばしば引用します。それはその通りで分からないのかもしれない。つまり物質を何らかの形で抽出するとか、組み立ててそこから意識を作り出せるかというと、それはもう分からない」

 「メタフィジカルパンチ」の養老先生に対する池田の批評はつぎの通り。「唯脳論は脳ということでお話を始めれば、そのどちらの側からも、かたられるということを示す方法である。あれは唯脳法である。脳と意識が平行だという前提なのです。脳は物でも心でもあるのだというわけ。こんなズルイやり方ってありますか。そして人々は脳化社会をいう養老氏が同時に脳は自然である。なぜなら脳は人間が創ったものではないからだと述べているのを妙だとも思ってない」

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*お誘いの葉書

2019年07月11日 | 捨て猫の独り言

 親鸞聖人講座と親鸞アニメ映画の案内の葉書が届くようになった。それぞれ月に3回ずつ公民館を巡回しながら開かれている。親鸞に関連する本を読む方を優先しつつ、都合をつけて月に一回ほど講座の方に参加する。参加者は極めて少数だ。高森顕徹著の「歎異抄をひらく」は新聞で定期的に広告が出る。私は講座でそれを手に入れて読んでいるところだ。

 意外にも親鸞が知られるようになったのは最近のことらしい。明治の初めごろは親鸞なんていう人はいなかったのではないかと疑っていた人が圧倒的だったという。本願寺中興の祖といわれる蓮如上人が歎異抄のカミソリ性を見抜き、歎異抄を封印したためだ。明治になって、ある機縁で再評価され、歎異抄は多くの人に読まれるようになった。

 キリスト教によく似た浄土真宗といわれる。佐古純一郎著「パウロと親鸞」の目次にはつぎの項目が並んでいる。聖霊の力 と 本願力、有って有る者 と 阿弥陀如来、罪人の招き と 悪人正機、死のからだ と 地獄は一定、私の福音 と 親鸞一人、兄弟愛 と 同朋同行、祈り と 念仏などである。

 そして佐古氏はこの著書の中で「親鸞聖人が聖書を読んでいたという説があるんです」と言及している。天台の図書館に景教の宣教師が訳した漢訳の聖書が持ち込まれたというのだ。親鸞は天台の図書館の本は一冊も残らず読んでいる。その聖書があるかどうかは本願寺はノーコメントだという。佐古氏の言及には疑問符がつくけれども、なかなか興味深い話ではある。

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*四人家族

2019年07月08日 | 捨て猫の独り言

 大相撲名古屋場所場が始まった。けがと闘いながら、体調管理し、休まず稽古しなければ勝てない厳しい世界のようだ。私の注目するのは郷土の力士「明生」だ。鹿児島県大島郡瀬戸内町出身で本名は川畑明生という。今年の初場所から注目している明生は私の予想をはるかに超えて東前頭4枚目まで躍進した。今場所は負け越しを覚悟せねばならない試練の場所とファンとしては覚悟している。ところで先場所の千秋楽だけは大相撲のテレビ中継を見るまいと固く心に決めて無理やり外出したのだった。

 

 孫たちの母親は4日の直行便でアトランタに戻った。例によって制限重量ぎりぎりに食料品をバッグに詰め込んでいた。例年になく三週間近くの滞在で胃カメラや脳ドッグなどを受けていた。あの国では医療費はかなり高いという。キッチンドリンカーの娘だが7日間連続服用というピロリ菌の薬を朝晩飲んで滞在の最後の週は禁酒していた。私も付き合おうと思ったが思いだけに終わった。これから一カ月ほど四人で生活することになる。

 妹の方は三週間という短期だが、実際に学校に行けるかどうか心配していた。ところが英語の授業も受け持つ若い女性の担任の先生の特別な配慮もあり、7月1日から元気に学校に通っている。一日当たり265円のおいしそうな学校給食を、家に残るものは皆でうらやんでいる。姉の方は近所の子どもたちと一緒の妹の登校時に付き合い、13時15分の教室までの迎えを担当している。妹が帰るまでの時間は読書や、持参のフルートを短時間ではあるが奏でている。

 今のところ優先度の低いのがそろばんだ。現在は5だまを使って、2+4 や 6−4 などの簡単なたし算とひき算をやっている。あるとき塾生から疑問の声があがった。計算なら電卓で十分、そもそもアメリカに帰ってもそろばんがない、このくらいなら暗算、筆算の方が早いなどなど。そろばんの計算の仕組みを知ることは、それだけでも世界がひろがる。知らないより知ったほうが良いなどと説得する。幸い二人が徹底抗戦してそろばん拒否とまでには至っていない。

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*言わせてもらおう

2019年07月01日 | 捨て猫の独り言

 科学哲学で使われているパラダイムとは「ある時代およびある集団での支配的なものの見方・考え方」をいう。立憲民主党のビラに「パラダイムシフトが必要だ」とあった。このカタカナ語について調べてみた。「共通認識を革命的に転換すること」とある。悲しいかな皆が皆、経済さえ好調ならば、つまり今さえよければという刹那的な生き方は、早々に転換すべきと思う。

 もう一つの私の政治的関心は、日本政府が中国脅威論を拡散しつつ、自衛隊を南西諸島に配備し軍事要塞化を目指していることの危険性だ。東アジアの非核化そして平和安定のためには日本が南北朝鮮と中国から信用される国であることが必要不可欠だ。しかし、それに最も不適切な人物が日本の首相に居座り続けていることは不幸と言うべきだ。

 沖縄は今年も6月23日に「慰霊の日」を迎えた。太平洋戦争末期の沖縄戦は過酷な地上戦が約3ヶ月も続き、県民の4人に1人が亡くなっている。追悼式に参列した安倍首相は「米軍基地負担の軽減に全力を尽くす」と強調したが、会場の参列者からは「うそだ」「言葉は要らない」などと激しいヤジが飛んだと伝え聞く。

 「(あなたの)言葉は要らない」これほど絶望的な叫びがあるだろうか。言葉は命である。不変は言葉でしか表現できない。呼吸するように平気でウソをつく。もはや虚言癖というより、心の病ではないか。それに現在の日本の首相、あまりにも便利なものだからアメリカは重宝して手放さないのだろう。

 

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