玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*名幹事

2020年09月28日 | 捨て猫の独り言

 公民館の囲碁会に参加し始めたのは、2011年の1月からだ。その年は3月に東日本大震災が起きた。囲碁会の最中に大きな揺れを感じ外に飛び出た。だから始めた年はよく覚えている。金曜日の午後だった。それから9年が経過した今年は、コロナ禍で半年間は休会。この10月から再開する。全員参加ではないが私は出席することにした。

 初段のつもりで入会したが当初はボコボコに負かされた。まわりは高段者ばかりで勉強になることが多い。今でもその状況は変わらない。昨年より世話役の方から年賀状が届くようになった。文芸社というところから「80歳のツイッター」という一冊千円のエッセイ集を出していることが分かった。ただ者ではない。

 

 一昨年のこと三代目のこの幹事が、15周年を記念する小冊子を作製した。発刊の趣意に「退会をしていった人々があって今日があると思いました」とある。これまでの在籍者の名前と成績がすべて記録されている。2004年に段位の愛好者10人が集まり、約1年半は中央公民館で、その後は現在の津田公民館で活動という歴史を知る。

 会則で改変された主なもの。成績順位の判定は「勝ち数と負け数の差のプラスの多い順」に。「友遊碁会」から「碁苦楽会」へ改称。10月に一泊打ち込み会を開催。公民館主催「地域連携講座」依頼により、囲碁初心者のための講座「ひよ碁会」の立ち上げ。今年の賀状は「昭和に生を受けて五十年 平成に三十年 令和に明けて八十二歳 我今何ぞせんやであります」とあった。

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*日本民芸館

2020年09月24日 | 捨て猫の独り言

 とうとう9月16日に日本民芸館を訪ねた。だいぶ前に東京大駒場キャンパス内を歩き北にある野球場から出て、旧前田家本邸洋館のある駒場公園を散策したことがある。その時は公園の南西の角にある民芸館には全く関心がなかった。柳宗悦の墓所のある小平霊園までの歩きや、柳と棟方志功との師弟関係を知るなどして、少しばかり宗悦の著作を読むようになり民芸館へ関心をもつようになった。

 駒場東大前駅の西口から下北沢の方に線路沿いに7分ほどゆるやかな坂道を歩いて、右にカーブする道路の角に本館がある。道をへだてた向かい側には旧柳邸の西館がある。私はまず一番に西館の方を見学したかったのだが、感染症予防のため現在は非公開である。西館玄関棟は日光街道の民家から移築された長屋門で、異彩を放っている。その門の中に和風の母屋があるという。

 

 その私邸の隣に建てられた民芸館の開館は昭和11年だが、上部は白壁の土蔵風にするなど日本建築の伝統が生かされている。本館玄関の受付の窓口は係りの人の手首しか見えないほど小さい。まるで秘密の取引をしているかのよう。中に入ると床は大谷石が敷きつめられて、正面には左右どちらからでも2階に行ける木製の大階段が黒く光っている。左右の階段は2階の回廊に繋がっている。この開放的な吹き抜け空間が入館者を静かに迎える。

 

 常設展として7室ある。予想に反して「棟方志功」や「木喰仏」はなく、「仏教版画」や「芹沢銈介の仕事」などの部屋があった。今回の大展示室を中心とする企画展は「アイヌの美しき手仕事」だった。民芸館訪問後の19日の朝刊に東京ステーションギャラリーの「大津絵」展の一面広告が出ていた。この展覧会に民芸館から大津絵52点が出展されているという。滋賀県の大津周辺で量産された手軽な土産物だったのが大津絵だという。その新聞広告に「個人によらない美の世界が存在することを指摘し、大津絵を〈民画〉の代表と位置づけたのは、柳宗悦だった」とあった。そういえば訪れた民芸館に、この展覧会のチラシが置かれていた。

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*下北沢と駒場東大前

2020年09月21日 | 捨て猫の独り言

 暑さも和らいできたある日のこと、久しぶりに一人で電車に乗った。平日の午前10時頃で立っている乗客は少ないが、それでも座席はすき間なく埋まっている。全員がマスク姿以外はこれまでと変わりない風景だ。目的は、日本民芸館の初めての見学である。吉祥寺駅で渋谷行きの京王線に乗り換える。11時を少し過ぎていた。そうだ彼の店でカレーを食べようと思い立ち、駒場東大前の二つ手前の下北沢で途中下車した。

 電車の中で彼の名が松尾であることは思い出した。下の名がなかなか出てこない。店の名はそれ以上に困難。どこかで案内図が手に入らないかと駅の北側の街を歩いてみた。初めからそのつもりならパソコンで下調べをしてきているところだ。ちいさな洋品店の店先に出てきた若い女の子に聞いてみた。奥に探しに行き案内図はないという。「オーナーが松尾であるカレーの店を捜している」と食い下がる。ちょっと待ってと再び奥に引っ込む。

 スマホを片手に再び出てきた。いろいろ操作している。ちらりと「松尾貴史」の文字が見えた。そう貴史だった。探し当ててくれたらしい。更に地図を表示させる。店の名は「パンニャ」という。すぐ近くらしい。最大限の謝辞を述べて歩き出したが、指示を聞き違えたらしく迷ってしまった。こんどは高校を卒業したばかりぐらいの若いカップルに、この近くに「パンニャ」という店を知らないか尋ねた。とっさに二人ともスマホを取り出す。すぐそこのようですからと店の前まで案内してくれた。

 

 男の子が「開店は11時半で、あと5分ほどです。ゆっくり楽しんでください」と言って立ち去った。下北で育った子にちがいない。パンニャの斜め向かいにはコーヒー店があり、店の外には小さなテーブルが並べられ、常連とおぼしき人たちがくつろいでいる。その中に特異な容貌と独特の存在感のある俳優の「柄本明」がいて、扉の陰の席で新聞を読んでいた。私と目が合いそうになって彼は瞬時に目を伏せたように見えた。後で調べると柄本明は24歳のときから下北沢に住んでいる。しばらくあたりをひとまわりして、パンニャの扉を押して中に入ると店内はやけに暗い。奥から「今日は定休日だよ」の声がした。

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*恩師の苦言

2020年09月17日 | 捨て猫の独り言

 法学部の政治学科の学生だった「教え子」の安倍首相の電撃辞任と7年8カ月の政権運営はどう映ったのか、恩師の成蹊大学名誉教授・加藤節氏へのインタビュー記事がネットに出た。「首相としてもう少し知的になって欲しかった」という見出しは記者が考えたものと思われる。それに反応した橋本徹弁護士が「なんで他人に対して簡単に知性がないなどと言えるのだろうか」とツイートしている。記事をちゃんと読んだうえでのコメントとは思えない。以下にその記事の一部を再録して記憶に留めたい。

 《率直に言って安倍政権には負の遺産しか見つかりません。1つ目は立憲主義を否定して法的安定性を崩壊させたことです。2015年に閣議決定だけで解釈改憲を行い、集団的自衛権を合憲化してしまいました。これは歴代政権で誰もやったことのない暴挙です。憲法解釈を内閣だけでやれるとなれば、何でもできてしまう。内閣法制局長官の首をすげ替えて、解釈改憲を可能にさせたことも前代未聞です。検察庁法改正案も含めて、司法や検察の人事に内閣が介入し、三権分立の破壊を招いた。政治が最も尊重すべき法的安定性をないがしろにしたことは重大な失政です。・・・

  これは安倍さんだけではありませんが、2世、3世議員が多くなり、政治家が「家業」になってしまったことも大きな問題です。これでは政治家の資質そのものが落ちて当たり前です。政治家は国民の命を預かる仕事です。そのためには、歴史書を含めて多くの本を読み、人類の歩み、知恵を学ぶ必要があります。人類の歴史や人間の在り方について高い見識がない人は、本来はやってはいけない仕事だと思います。・・・

 これまでの首相としての政治生活を、反省的な目で振り返ってほしいです。自分なりに総括したうえで「こういうことはやってはいけない」という知恵を次の人たちに伝える義務があるのではないでしょうか。トランプ大統領から古い戦闘機を押し付けられても買ってはいけない、消費税を上げないことを争点にして解散総選挙をやってはいけない、私利私欲で花見の会を開いてはいけない、品位に関わるので国会ではヤジを飛ばしてはいけない……そういう当たり前のことです。・・・ 》

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*巣ごもり大掃除

2020年09月14日 | 捨て猫の独り言

 取り壊そうと思ったゴーヤの棚が、ぽつぽつと実をつけだした。帳尻合わせのような最後の実りを喜ぶ。柿の木は、一歳児のこぶし大の実が、景気よく身投げしている。この先私の口に入るのがあるのだろうか心もとない。サルスベリはいつの間にか全体を覆うように花が咲いている。心配無用、咲く時は咲くのだと言っている。蚊に刺されながらのミョウガの収穫は終わった。

 コロナ禍で行動範囲は縮小し、個々人の心の広がりにも悪影響を及ぼしていることはまちがいない。高齢者世帯の我が家では車は姿を消し、奥多摩渓谷あたりにドライブすることもない。このところ電車に乗って出かけることもない。この事態を打破するため今週あたりは、東大駒場にある日本民芸館を訪ねるつもりだ。夕刊の美術館・博物館案内に民芸館の記載が無いのは残念。(9・8 キキョウ、ハナトラノオ、センニンソウ)

 

 梅雨明けの頃だった。コーヒーでも飲んでゆっくりしたいときに号令が発せられた。この計画は、家人が目覚めたときには頭の中には、なかったと思われる。建具の垂直面に「カビ」が発生していることに気付いたという。すべての部屋のカビを探して雑巾で拭き取ることになった。戦線は拡大して、カバンやベルトなどの革製品にも及んだ。さらに靴箱の整理も始まった。

 猛暑が続いていた頃に「ゴキブリ」の撲滅作業が始まった。これまでの対策は新聞紙を丸めてセロテープで両端を固定した叩き棒で、滅多打ちにすることだった。最近では毒餌剤をあちこちに置いた。ゴキブリが動かなくなるスプレーを用意した。冷蔵庫を移動して積年の綿ぼこりを除去した。ゴキブリの赤ちゃん探しに精出すようになった。そして、この騒動もやっと終わりを迎えている。

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*沖縄の昔と今の話題

2020年09月10日 | 沖縄のこと

 五年ほど前に石垣島や西表島を訪れたとき、バスガイドさんから石垣市にある八重山平和祈念館の話を聞いたことがある。大戦末期に八重山諸島の住民がマラリアの無病地帯から有病地帯に避難を強いられ3600名余りが犠牲になったという。偶然にもつい最近、「戦争マラリア」についてくわしく知る機会があった。それは現地取材による「池上彰の戦争を考えるSP~感染症の悲劇~」という「テレビ東京」の番組で教えられた。

 波照間島の島民がマラリアの発生する西表島に強制疎開させられる。疎開は日本軍の命令だった。下したのは教員と名乗り波照間に来島した山下虎雄(本名・酒井清)という人物。子供たちにも慕われた顔を豹変させたのは沖縄戦が始まっていた1945年の4月のことだ。「米軍の上陸に備え疎開せよ。敵の食料になるから牛馬も殺せ」。後年わかるが、山下は陸軍中野学校出身で、離島での極秘工作を行う特務兵だった。処分した家畜は肉を燻製にして石垣島の日本軍へ送られた。

 西表島は波照間島から北の沖に肉眼で見える。その西表島に「忘勿石(わすれないし)ハテルマ シキナ」と彫られた岩が残る。そこは強制疎開先で、波照間国民学校の識名信升校長が青空教室を開いた場所。そしてマラリアでつぎつぎ児童が倒れた地。識名校長は軍部に疎開解除を訴え、帰島の際にひっそり、だが強く岩に刻み付けた。この惨禍を「けっしてわすれることなかれ」と。石垣島でも強制疎開が始まる。しかし軍が指定した避難場所は島内のマラリアが発生する山地だった。(オープンギャラリーが駐車場に、駅前の銀行を解体中)

 

 朝日新聞の土曜版「フロントランナー」を読んで、凄い奴がいるもんだと感心した。サッカー日本代表として活躍した静岡生まれの高原直泰(41歳)は、「沖縄に骨を埋める覚悟」で2016年に沖縄に居を移した。国の沖縄総合事務局から、観光、IT産業に次ぐ3本目の柱としてスポーツ産業を創出したいと誘われたのだ。J1から数えると5部にあたる九州リーグに属する「沖縄SV」のオーナー兼選手だ。沖縄の農業は耕作放棄地の増加や深刻な担い手不足。クラブとして農業に取り組み、雇用も生み出せれば直接、地域に貢献できる。コーヒーはクラブの主要事業となり、初めての収穫は2年後という。この事業が自前の収入を生み、引退後の選手の雇用先にもなる。OSVを応援しよう。

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*辞任表明

2020年09月07日 | 捨て猫の独り言

 8月28日の夕、安倍首相は辞任を表明した。「持病再発」と聞いたとき、「仮病を装い政権放り出し」という確信にも似た思いが浮かんだ。この方の言い逃れの才能は群を抜いている。真実はそのうち明らかになるだろう。その後の自民党の動きを見ていると「なんて世の中だ」はまだまだ続くとみた。気分は一向に晴れない。

 アベ政治の「総括」に最も適した人物は、「日本会議の正体」や「安倍三代」などの著書があるジャーナリストの青木理(1966年生まれ)だろう。彼が述べるところを要約してみる。《「安倍三代」というルポルタージュを書く際、幼少期から青年期、サラリーマン時代を知る人たちを多数取材しましたが、政治への志のようなものを聞いたという人はいませんでした。世襲政治一家に生まれた平々凡々なおぼちゃまにすぎません。

 かわいがってくれた祖父・岸への敬慕に起因する右派イデオロギーはあったかもしれませんが、それも改憲運動を進める日本会議系の人たちに目をかけられ、育てられたからでしょう。薄っぺらなナショナリズムを煽る言動の数々は、あとづけの浅知恵でしょう。森友・加計が致命傷にならなかったのは、検察が捜査せず、野党が弱く、メディアの追求も手ぬるかったことに尽きます。

 02年の日朝首脳会談を契機に高揚した反北朝鮮ムードが彼の政界での橋頭堡になり、かつては「極端な右の片隅にいる変わり者」と目された連中が政界の真ん中を堂々と闊歩するようになってしまいました。そういう連中が彼をプリンスとして育てた面はあったでしょう。ただ僕たちは冷静に考えた方がいい。たとえば拉致問題を本当に解決したいのであれば、韓国とけんかしている場合ではないはずです。晋三の大学時代の恩師の加藤節・成蹊大名誉教授に安倍政権の評価を尋ねたら「二つのむち」という言葉が返ってきました。「無知」と「無恥」》

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*柳宗悦の宗教観

2020年09月03日 | 捨て猫の独り言

 山に登る道は多岐に分かれるが登りつめれば同じ頂にたどり着くとする宗教観を持っていた。柳には英国の詩人・画家のブレイク(1757~1827)研究があり、そこで人間と芸術の融合、そして人間性と聖霊の直接合一を学ぶ。その後東洋の神秘道としての禅と出会う。その背後には指南者としての鈴木大拙の存在があった。

 さらに禅の道とは別に一大天地があることが分かり、おのずから念仏宗に親しんだ。柳をさらに浄土系仏教へと惹きつけていったのが、1924年の木喰仏の発見だった。木喰聖人と関連づけて他力信仰への関心を高めていった。民芸の道が「他力道」にあるとし、凡夫にも美を生み出すことが可能だとした。

 

 柳は日本人が世界文化に寄与しうるのは、芸術と仏教思想の二つの分野であり、そのうち最も巨大なものは日本で発達した仏教思想であるとみていた。具体的な物の美のなかに宗教思想を読みとる、という戦前の方向を逆転させ、戦後は、宗教思想の方から美に迫ろうとした。その背景のひとつには、日本の芸術よりも仏教思想の方が世界的貢献がいっそう大きいとする判断があった。

 仏教美学四部作を読むと繰り返しが多いと感じるのだが、仏教に関して学べることが多くある。例えば「仏がいて救うのではなく、救いが仏である。それゆえすべてを仏の力にまかせれば、迷いも敗れもないはずである。そういう道がすでに用意されているのである。それが仏の大悲である。小さな自分を打ち捨てて仏に便れと、すべての念仏宗は教えている。他力門のありがたさはここにある」

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