玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

高倉健主演・「あなたへ」

2012年08月30日 | ねったぼのつぶやき

  毎日がこうも熱いとだらけてしまう。国分寺迄出る用事があったので、立川迄足を伸ばし映画を見ようと調べた。たまたまラジオの深夜便で余貴美子さんのインタビューを聴き、新作映画「あなたへ」を終え、TVでは「つるかめ助産院」を終えたと話していた。映画「おくりびと」を見て以来気になる女優の一人だ。その「あなたへ」が前日から封切られており早速席を予約した。

Sub2_large 主役は6年振りの映画出演という高倉健である。俳優・高倉健との出会いは「幸せの黄色いハンカチ」だったろうか。若い武田鉄也と桃井かおりとの共演は、そのいずれをも際立たせていたのを思い出す。任侠映画の頃の彼とは全く無縁で知らない。追っかけていたわけではないし、全部をみている訳ではないが、ヤハリ日本男児を姿で現そうとするとすると健さんだろう。私生活は見えないが、どちらかといえばストイックな生活ぶりだろうことは容易に想像できる。205本目の作品で、降旗監督とは19本目だったと知る。ほのぼのと笑顔のいい田中裕子との取り合わせは格別だ。

  またTVで再放送される映画の紹介で「鉄道員・ぽっぽや」をマークしていたのだが、それが同日の夜だった。「ぽっぽや」は1999年の作品で、同じ日に13才年齢差のある高倉健を見たことになる。確かに顔には年齢(81才にしては若い)が出ていたけれど、表情、所作等全てにおいて全く年齢を感じさせずむしろいぶされて風格が漂っていた。今後も6年振りといわずもっと頻回に彼の新作映画を見せてほしいと願った。一方始まったばかりの「つるかめ助産院」も、久しぶりに連続物として見ることにした。8回連続のようで沖縄の人々と風景が眩しい。

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*残したい

2012年08月27日 | 玉川上水の四季

 炎天下にサルスベリの花がピンクの色も鮮やかに咲き誇っている。この夏になって庭の片隅に咲いて一度は茶色に朽ち果てた「おいらん草」が、くっきりした白色をして再び咲きだした。おいらん草が昨年もこのように二度咲きしたかどうか覚えていない。連日の晴天で舗装されていない玉川上水の緑道は土ぼこりが舞い上がる。休日ともなれば果てしなく続く玉川上水の緑陰のコースを足早に歩き続ける健康志向の一団を多く見かける。この辺りの上水の南側(右岸)にはクヌギが多くその樹液に日中でも金属光沢のカナブンや小型の蝶のルリタテハが集まる。その樹液酒場には強い香りが漂う。

 オープンギャラリーの処暑の観察会は道路予定地にある「どんぐり広場」の最後の姿を見届けることだった。小平西高校の近くで上水を横断する道路の橋部分の工事が始まり、そのためにどんぐり広場は消滅するという。鈴木さんは市役所勤務中に小平市グリーン道路推進協議会の活動に従事した。玉川上水から小金井公園へ、さらに狭山・境緑道(水道道路)から野火止用水へと市内をぐるりと巡る21㎞を小平グリーン道路と呼ぶことにした。どんぐり広場とは道路予定地を期間限定で借り受けた有志が丹精込めて育てた野草園のことだ。この広場に来れば秋の七草などを楽しむことができた。それがいよいよこの9月に伐採整地されるという。桜、桐、ネムノキの木陰にオミナエシと萩が咲いていた。

 つい最近までこの辺りは農地が広がり、鈴木さんのモズの観察や、絵を描く場所であった。私も小平に住んで38年になるから、この辺りは大ケヤキがあり、畑を取り囲むように茶の木が植えられていたのを知っている。広々として見通しが良く日の出月の入りの観察に適していることは鈴木さんに教えてもらった。今では宅地造成されて電柱だけが林立し、新しい道路が開通しようとしている。ところがこの道路以上に多くの市民を憂鬱にさせている道路計画が他にもある。都が計画する府中所沢・鎌倉街道線は町田市から東村山市に至る延長27㎞だ。そのうち小平市部分は平面構造で事業期間は平成25年度から平成31年度の予定だ。小平市部分に限ると現在の幹線道路である府中街道とわずか100m離れて並行に走る道路だけになんとも奇妙な計画に見える。

 ギャラリーの秋の展示計画は処暑の「残したい雑木林」と白露の「玉川上水の残したい景観」を鈴木さんが担当し、秋分の「玉川上水どう守る?」は若い母親を中心とした都道小平線を考える会のグループが例外的に担当するものと思われる。今回の処暑の展示の中にある「残したい」と題した鈴木さん渾身の訴えをここに記録しておきたい。「みんな 知っているかい 小平の宝 中央公園のみどり豊かな雑木林が 道路計画で姿を消すんだよ この道路は青梅街道から五日市街道まで新設するんだ 中央公園の雑木林 国史跡の玉川上水の景観 工夫して残せないのかな 次世代のために 残したい」 最近体重が増え始めた私は、夕方になると中央公園に出かける。消えるかもしれない雑木林とメタセコイヤの並木の間を喘ぎ喘ぎ走り始めている。

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ハードルを一段上げる

2012年08月24日 | ねったぼのつぶやき

 過日私の属するハーモニカクラブで昼食会が催された。指導者はこの教室から巣立った方で、「例年 ”西武沿線ハーモニカ発表会”の後、退会者が出て会を維持するため新会員の募集を行っている。その為練習もくり返しが多く個々人の進歩につながり難い。その対策として何らかの工夫(個別指導)をしたい」と挨拶された。それは、丸で2ケ月の休暇開けで出席した私の心情を見透かした様な発言で私はドキリとした。

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  今迄も何度か記して来たように、旅先のペルーで、同行者の一人が飛び入りで移住者2世達の歌の伴奏をし、慰められていた風景に接したのがキッカケで始めたのだった。私もそうなりたい。暗譜が出来ればなお良いだった。教室に通い始めて数年。当初の目標は達成出来て少々ダレ気味であった私は、何人かの熱心な後進に追い抜かれてもいた。タマタマその昼食会で私は指導者の隣り合せとなり、同郷のしかもかなりの先輩と知った。薄謝のみならず、半現役のまま私達の成長を願う姿を目の当たりにして頭の下がる思いだった。止めたいなんて簡単に言っては申し訳ない。そこで私は「もう一段ハードルを上げる」と宣言したのだった。

  私達の世代はたっぷり時間に恵まれ、その気になればどのクラブにも所属できる。しかし不定期な現役を続けていると継続できるクラブは限られてくる。仕事の要請があるとそれはそれで嬉しいが、習い事との調整を強いられる。それに性分として始めたことを中途半端に終わらせたくない。今迄中途半端に終わった1回は、中心者が慣習を改める気のない頑固主義で堪えられなかったからだ。次回ハーモニカがもう1本増えて4本になる。メンバーにプレゼントしてもらったハーモニカ入れは6本入れられる。来年の発表会は我が街「ルネ小平」である。

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*熱闘甲子園

2012年08月20日 | 捨て猫の独り言

 寝苦しい夜が続く。寝る時は網戸のある窓は一晩中開け放しておく。蒸し暑さに堪え切れなくてタイマーをセットしてエアコンを使用することも何回かあった。冷凍枕は毎日欠かせない。朝起きてニガウリの緑のカーテンのある開放された窓のあたりでかすかにいい香りがしてくる。その香りはすぐに消え去るがニガウリの姿かたちからは想像できないほどいい香りだ。直射日光による室内の温度上昇を避けるための緑のカーテンが室内を暗くし、そのために灯りをつけねばならないとは皮肉なことだ。

 この夏は昼は甲子園、夜はオリンピックというあわただしい一時期があった。オリンピックではレスリングの小原日登美さんの最初で最後の金メダルが印象深い。また女子サッカーの佐々木監督のみごとな采配と、味わい深いコメントには感心させられた。甲子園球場では第94回全国高校野球大会が開催され準々決勝を迎えている。準々決勝を戦う8チームの中に公立高校は倉敷商だけである。代表49校のうち公立高校の割合は全体の約1/3の16校だ。そのうち旭川工、高崎商、岐阜商、松阪、富山工、北大津、広島工、鳴門、今治西、佐賀北、杵築、宮崎工の12校が初戦敗退している。

 1勝したのは秋田商と済済黌(熊本)で2勝したのは浦添商(沖縄)と倉敷商である。49チームのトーナメント戦では48試合が行われる。最後まで負けないチームが一つあり残り48チームが敗退するためには48試合が用意されねばならない。公立校の勝ち試合は全部で6試合だから公立校の私立校に対する勝率は6/48でこれを割り算すると0.125となる。これは倉敷商が準々決勝で敗れた場合の計算である。私立高校が他府県から中学生の有望選手をスカウトしてチーム作りをしていることは誰でも知るところだ。たとえばチームの全選手が中学までは他府県で暮らしていた選手たちとなれば、甲子園で戦う郷土の代表チームに人々はどこまで愛着がもてるだろうか。

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再び静かな生活に戻る

2012年08月15日 | アトランタ便り

 乗り換えを含む17(実質15)時間の飛行にしては、時差による体調不良は一切なかっが、帰国は午後便で、機中はほぼ夜の状態が強いられ不眠をかこつ私には辛かった。自宅に辿り着き、いつもの生活に戻るのに一週間かかったのも、ヤッパリ疲労困憊していたせいだ。体重計が示していたマイナスに私は思わず目を疑い我が身を労わった。例によりSkypeするのはいつも先方の夕食時なのだが、私が作り置いた冷凍食の風景を見、私がソコに居る様に話しかけてくるので、二重生活をしている気分になる。

315 姉の方は新学期が始まりその報告をした。学校は徒歩数分の所だが、スクールバス以外は全て親が送迎する必要があり、中学生以下の子供だけでの留守番すら、通報されたら犯罪になるらしい。車中に子供を置いておくことも瞬時たりとも許されない様だ。空港で10才位らしい子を頭に、4人の子供が丸でカルガモの様に母親に続いて歩くのを見とれていた。と、一人を残してトイレに入った。共に見とれていた娘が「ああして私が先にドンドン歩けばいいんだわ!でもああやってお利口な子が連れ去られるのよ!」と言った。実際連れ去りも多いらしい。今回向こうで知り合った方が、飛行機内で2才児を席に残してトイレに立ったら、隣席の米人に注意されたといい、あの狭いトイレに子供連れで行けというのかと呆れていた。

 Skypeでは私の念願だった机と真っ赤な椅子が常に奥の方に写る。姉が机に向かうと、妹も決まって食卓のマイコーナーに座る。丁度一つのスタンドが机と食卓を照らす角度になっているのだ。私は再び静か過ぎる生活に舞い戻り、ヤット本を読む気分になり図書館から借り受けた。それらを前に、娘も慌ただしい日々ゆえ、せめて夕食後の一時静かな時間を過ごした後、子供らを眠りにつかせて欲しいと念じているのダガ・・・。(茶せんの様なシェラトンホテルの照明)

 

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*知覧と鹿屋

2012年08月07日 | 捨て猫の独り言

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 勝手口のすぐ近くにある高さ2mほどのツゲの木の中にヒヨドリが巣を作った。ツゲの木の頂上の細い枝に囲まれた空間を利用している。二度ほど道路側のサルスベリの木からツゲの木にもぐり込むのを目撃した。気付くのが遅くて観察不十分のため巣で子育てをしたかどうか判然としない。そのうち何の気配もしなくなったので目より高い位置にある巣を取り出してみた。巣の中はまったくの空っぽだったのでひとまずほっとする。あのせまい空間でこれだけみごとな紡錘形の巣をこしらえる能力に驚いた。いずれまたこの場所に新しい巣を造ってほしいものだ。

 一年ぶりに見る故郷の桜島は噴煙の中にあり、ぼんやりと一部の稜線が認められるだけだった。東よりの風で鹿児島市内に火山灰が降り注ぐ。定時の天気予報には桜島山頂の風向きの予報が欠かせない。ここのところ鹿児島市内への降灰はますます多くなっているような気がする。今回の帰省では薩摩半島の知覧と離島の喜界島を訪問する計画だった。車の運転を放棄しているので機動力に欠けるのだが、鹿児島で暮らす弟が今回も貴重な時間を割いて運転を買って出てくれた。知覧特攻平和会館には2年前に逝った親父に深い関係のある15人の遺影が展示されている。会館はおびただしい数の燈籠に囲まれているがその中に生前に寄贈して親父の名が小さく刻印された燈籠を見つけ出した。

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 茶畑が続く中を薩摩半島の南端にある枕崎港まで足をのばし、港の海産物売り場の2階の食堂でカツオ料理をいただく。鹿児島市役所の近くに名山掘りというレトロな居酒屋が並ぶ一角がある。去年のように今日はあそこで呑みたいものだと提案すると、残念ながら土日は店を開けないのだという。あきらめていると弟はどこかへ連絡を取っている。特別に我々だけのために今宵は開けてもらう交渉が成立したという。枕崎の戻りガツオの冷凍パックを買い求める。出直して再集合した店のカウンターには季節の料理に加えてカツオも並んだ。この夜は静かな名山掘り界隈で一軒だけから灯りがもれていた。入る時には気付かなかったが、帰ろうとして店の外に出ると何の木だろうか強い香りを漂わせていた。

 台風接近のため翌日のフェリーでの喜界島行きは断念し、旅館の予約はキャンセルする。そこで弟は前日に続き猛暑の中を大隅半島の鹿屋(かのや)を案内してくれた。この日も残念なことに垂水フェリーから見る桜島は噴煙の中だった。弟は途中の漁港でエビとイカを調達しまず鹿屋の馴染みの居酒屋にそれを預けた。最初の訪問先は海上自衛隊鹿屋航空基地資料館だ。旧海軍航空と戦後の海上自衛隊の資料が展示され、その歴史の一部として海軍特別攻撃隊のコーナーがある。つぎは鹿屋の南部に位置する「柳谷集落(通称やねだん)」だ。地域再生に取り組み自主財源の余剰金で122全戸に1万円のボーナスを還元したというマスコミ報道で知られている。その立役者の公民館長である豊重哲郎氏と懇談する。最後はこれまで私が全く知らなかった「小伊勢(神宮)」といわれる「吾平(あいら)山稜」だった。予想以上に清々しい聖域だった。弟は県内を3年毎に転勤する職にあり、その先々で居酒屋を育てたようだ。この日は鹿屋の居酒屋で夜が更けて、最終便に近いフェリーに乗船した。

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