玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*芸人・松元ヒロ

2022年01月31日 | 捨て猫の独り言

 松元ヒロについて注目するようになったのは、タウン誌の映画紹介欄を見てからである。<映画「テレビで会えない芸人」は松元の故郷・鹿児島のテレビ局員らが、その芸と舞台裏に密着したドキュメンタリー。「松元がテレビから去った理由」と「テレビが松元を手放した理由」について迫っている>とあった。そして1月29日(土)から、ポレポレ東中野ほかで全国順次公開とある。

 

 「松元ヒロ」は「綾小路きみまろ」と同じ鹿児島県の出身である。さらに週刊金曜日に隔週で「写日記」なるものを連載中である。これまで読み飛ばしていたコーナーだったので遡って読んでみた。それによると私の勝手な推測だが、焼酎よりも日本酒を好む愛妻家のようだ。小平市の隣の西東京市に住んでいると思われる。

 本名は松元広人で1952年生まれ。鹿児島実業の高校2年生のとき全国高校駅伝でアンカーとして7区を走り4人を抜き4位でゴールし区間賞を獲得。その後法政大学法学部を卒業。1952年生まれの元総長・田中優子(文学部)や辺野古の山城博治(社会学部)、1950年生まれの沖縄県知事だった翁長雄志(法学部)の諸氏はいずれも法政大学の卒業生である。(1月28日 小金井公園にて)

 

 高校大学では駅伝選手であったが大学時代アフロヘアで選手活動を続けたため先輩部員の怒りを買い退部に追い込まれる。「自由な表現活動をしたい」と思うようになり卒業後パントマイマーとして全国巡業。その後、時代社会風刺コント集団「ザ・ニュースペーパー」のメンバーとしてテレビ番組に出演していたが1998年に独立。テレビを離れ活躍の場を舞台に移すことになった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*日米地位協定

2022年01月27日 | 捨て猫の独り言

 昨年出版された、伊勢崎賢治と布施裕仁の共著による集英社文庫「主権なき平和国家」の巻末資料は注目である。それは自民党の議連「日米地位協定を実現し、日米の真のパートナーシップを確立する会」が2003年にまとめた地位協定改定案の抜粋だ。筆者たちの改定案は本文にある。(武蔵国分寺公園あたり)

 

 これまでに沖縄県や日本弁護士連合会、野党などが改定案を発表しているが、この与党自民党の案もなかなか良い案だと紹介しているわけです。会の幹事長を務めたのは河野太郎衆議院議員です。一番変えなければいけないのは、「透明性と説明責任」だと強調していました。

 それから14年後に河野氏は外務大臣に就任、国会で野党の議員から2003年の改定案について質問された河野氏は「なかなかいい案なんではないかというふうに思っている」と答えました。しかし、河野氏が外務大臣を務めた約2年間の間に、日米地位協定の改定をアメリカに提起することは残念ながらありませんでした

 月2回秘密会で開催される日米合同委員会の、日本側の代表は外務省北米局長と各省の代表。米側は在日米軍副司令官、そして文民は公使ひとりだけで、残る全員が軍人。内田樹はつぎのように指摘しています。「つまり、この委員会において最優先に配慮されるのは米国政府の意向ではなく在日米軍の意向だと言うことである」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*沖縄ファイル(1)

2022年01月24日 | 捨て猫の独り言

 切り抜いた記事は紙箱に放り込んで置く。連載物は専用の封筒に、沖縄記事は専用のクリアファイルに綴じ込む。紙箱のものは時おり処分する前に読み返す。紙箱以外のものは、切り抜いたことで安心して読み返さないものが多い。

 沖縄のファイル(B4)が満杯になったので、ある時からポケットに重ねて入れるようになった。そうするうちにポケットからもあふれ出し、挿んでおくだけになった。そこで取捨選択しながら整理することにした。かなり処分して、1冊にまとめ2冊目を用意した。

 整理したファイルを改めて時系列で振り返ることにした。那覇市長4選を果たしたばかりの翁長雄志(たけし)さんへのインタビュー記事(2012年11月)。これは民主党政権が終わりを告げた総選挙の最中のもの。「オスプレイ反対で県民が10万人集まったって、本土は一顧だにしないんですよ」「経済支援はいらない、だから基地どかせ」。翁長氏は2013年1月には県内移設断念を求める建白書を政府に提出し「オール沖縄」をリードした。

 

 2013年のクリスマスに首相官邸で仲井真弘多(ひろかず)知事は「辺野古埋め立て」を承認する。琉球新報の「分断に加担した責任は重い」の記事をそのまま毎日新聞が紹介(2014年1月6日)。1月の名護市長選挙で辺野古への移設に反対する稲嶺進氏が再選を果たす。2014年11月16日に翁長武志沖縄県知事が誕生し名護市長の稲嶺氏も駆けつける。翁長氏の座右の銘は「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」、尊敬する人物は「旧ソ連のミハイル・ゴルバチョフ元大統領」とある。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*廃仏毀釈

2022年01月20日 | 捨て猫の独り言

 昨年6月に出版された畑中章宏著「廃仏毀釈ー寺院、仏像破壊の真実」(筑摩新書)を読んで、「神宮寺」について知ったことは収穫の一つだった。まず著作の中で廃仏毀釈の典型として取り上げられていたのは、延暦寺との関係がある日吉社(大津市)、薩摩藩、離島の隠岐、松本藩と苗木藩(中津川市)だった。廃仏意識は儒学者や国学者によって江戸の後期から準備されており、幕末に至っていっそう強まり、とくに水戸藩や薩摩藩では過激な寺院整理がなされていた。

 6世紀に仏教が伝来し、平安時代には神は仏が衆生救済のため姿を変えて現れたものであると考えられていた。神と仏は一体(神仏習合)であり、神社に隣り合わせてつぎつぎに「神宮寺」が建立されていった。伊勢神宮にも神宮寺があり、神宮の周辺にも数多くの寺院が立ちならんでいたが、ことごとく廃寺に追い込まれた。住吉大社には社務所の裏に「住吉神宮寺跡」の小さな石碑が立つのみだ。また鶴岡八幡宮寺にあった大塔なども取り除かれた。

 

 一方的な被害者であるかのように描かれることもある仏教の側に非はなかったかも問い直す必要があると指摘する。廃仏毀釈では日本の神でも仏教の仏でもない境界的な性格の「権現」と「牛頭(ごず)天王」が矢面に立たされた。その結果権現を祀る山岳信仰は大きな打撃をこうむり、牛頭天王はスサノオに改められた。権現を信仰してきたところは神社になり、仏教色は排され修験道はその姿を一変させたという。

 太平洋戦争の敗戦により明治国家体制が終焉を迎えたときに、分離を習合に戻すこともあり得た。仏教が忍従とともに苦境を乗り越えたこともあり、このことが根底的に問い直されることはほとんどなかった。それが分離の状態を自明のように思わせてしまっているという。廃仏毀釈を訓読みすれば「仏を排して釈を毀(そし)る」だ。読後に郷里の薩摩藩における廃仏毀釈について、さらに詳しく知りたいと思った。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*解説者・北の富士

2022年01月17日 | 捨て猫の独り言

 粋な感じの大相撲の太鼓を聴く機会は少なくなっていますが、叩いているのは「呼び出し」と呼ばれる方々です。場所の前日には触れ太鼓、場所中毎朝の寄せ太鼓、取り組みが終われば跳ね太鼓です。52代横綱の北の富士さんは、そんな江戸の粋を感じさせてくれる相撲解説者です。(広重の「両ごく元柳橋」・回向院から西を見る)

 

 とっさに出る言葉にはユーモアがありセンスがあります。NHK専属なのにNHKに気を遣っていないところがあります。日本人横綱の誕生を願って、「稀勢の里を横綱にする会」の会長をしたり、宇良の相撲は見ていて面白いし、華があると平気で肩入れします。私の選んだ北の富士語録はつぎの通り。

 子供が誕生した力士に「オシメ代を稼がねば」いや「オムツ代か」。インタビューに答える力士に「みんな理路整然とよく話すね。俺なんかぽつり、マグレですしか言えなかった」。「押し相撲は押し続けないといけないから難しい。四つ相撲は廻しにしがみついていればいいだけ」

 やはり北の富士語録がネットにありました。ある取り組みで、左の廻しを取ってはいけないという技術的な話から「取れても取らないでいかないとダメです。そうだ・・・魚屋の猫みたいにならなきゃいけない!」こんな投稿もあった。「北の富士さんがラジオ解説の時は、テレビ中継の音声を消して画面だけにして、音はラジオから聴いてます。テレビの時より爆笑ものです」そうかラジオもあったのだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*翁長知事の遺志

2022年01月13日 | 捨て猫の独り言

 折りにふれて思い出したいものです。2014年に沖縄県知事に当選し、志半ばで病に倒れた翁長雄志氏はすぐれた資質をもつ政治家でした。多くの人がその政治家としての言葉に打たれたものです。歴代の知事も米軍基地を抱える沖縄県の過酷な政治状況を何とか打開すべく奮闘しました。その中にあって翁長氏はきわめて明確に目標を指し示してくれました。

 

 翁長知事は日米地位協定の問題に精力的に取り組みます。沖縄県は2018年に地位協定の国際比較のため、県の職員をドイツとイタリアに派遣して現地調査を行い、三月にその成果を「中間報告書」として発表しました。そして七月に札幌市で開かれた全国知事会議で、日米地位協定の抜本的な見直しなどを求める提言書が全会一致で採択されます。

  思想信条の違いや米軍基地のあるなしに関係なく、47都道府県の知事が一致して地位協定の見直しを求めた意味は非常に重いと思います。しかし提言書が採択された知事会に翁長知事の姿はありませんでした。画期的な瞬間に立ち会うことができず、さぞかし無念だったろうと思います。五月に膵臓癌の摘出手術を受けた翁長氏に、沖縄から北海道に飛ぶ体力はもう残っていませんでした。

 全国知事会の当日、翁長氏は癌の痛みに耐えながら、最後の力を振り絞るようにして沖縄県庁で「埋め立て承認」を撤回する会見を行いました。この会見でつぎの言葉を残しています。「今の日本の米国に対しての従属は、日本国憲法の上に日米地位協定があって、国会の上に日米合同委員会がある。この二つの状況の中で日本はアメリカに対して何も言えない状況がある」会見から12日後の8月8日に浦添市の病院で亡くなりました。まだ67歳でした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*退職後の日々

2022年01月10日 | 捨て猫の独り言

 アトランタに住む娘の家族を訪問したのは2019年のクリスマスだった。1ヶ月ほど滞在して帰国するとまもなく身辺にコロナ騒ぎが巻き起こった。2月にはとんでもない一斉休校が実施され、3月には志村けんの死去があった。ふりかえればアトランタ行きは、きわどいタイミングで実現したものだった。

 電子顕微鏡でしか見ることができないという、コロナウイルスの姿がくりかえしテレビの画面に写し出された。細菌は生物だがウイルスはエネルギー代謝を行わないので生物の条件を欠くという。COVID-19とはcorona、virus(ヴァイラス)、disease(病気)で19は2019年のこととおぼえた。

 

 完全退職した2010年はいろいろあった。2月に高校の同級生(66)が自動車事故で不慮の死。3月に築15年目の外装工事。7月に鹿児島の父が93で他界。8月に青春18きっぷで大阪に行き、甲子園球場で沖縄の興南高校の優勝を目撃。翌年の2011年に公民館囲碁に参加し始め、碁の最中に東日本大震災が発生。

 2013年もいろいろあった。眼科入院治療、右耳の突発性難聴、歯科通院などが集中。この年から毎年夏はアトランタの娘の子2人が日本の小学校への短期留学で2ヶ月滞在。翌年2014年は息子の起業。活発な高校同窓生交流にも恵まれた。退職からコロナまでの10年の間に台湾、マレーシア、バンクーバー、沖縄、奄美への旅行。最近ではコロナの間隙を縫って、上高地、佐渡ケ島、八丈島へ。奉仕活動ゼロは残念だが、退屈せずに過ごせていることはありがたいと思う。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*走ってやって来た

2022年01月06日 | 捨て猫の独り言

 正月になると我が家の松飾は市役所配布の「迎春」の印刷物で代用することにしている。これまで近隣で見かけていた松飾の数が急に少なくなった。コロナのせいばかりではない。高齢化が進んでいることが一番の原因だと思う。出歩く姿を見かけなくなった近所の方の数が増えてきている。

 また都営住宅の駐車場ではカラーコーンで使用できなくなるようにした駐車場が目立つようになった。原因は使用権者の免許証の返上か死亡のどちらかであろう。3~5階の都営住宅にエレベータを設置する工事がこの地域のあちこちで見かける。近くの農地には介護老人施設がつぎつぎにできている。(メタセコイア、ケヤキ、イチョウの樹形)

 

 2日に息子が世田谷からこの小平まで野川沿いをマラソンでやって来た。これで2回目になる。距離にして20㌔はあるだろう。9日に行われる狛江市主催の多摩川堤防マラソンの10㎞の部に出場する。その準備運動だという。ここ数年毎年出場しているそうだ。その後に残りの家族3人は暗くなってから到着した。

 駅伝選手は20㌔を1時間で走るけど自分は2時間かかると教えてくれた。野川沿いのサイクリングコースはよく整備されている。私もサクラの頃に一度自転車で世田谷まで往復したことがある。1971年生まれの息子は8年前に脱サラして起業した。あの時決断して良かったと言う。息子は親父をとっくに超えてしまった。   

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*壬寅の年

2022年01月03日 | 捨て猫の独り言

 十干(甲・乙・丙・丁・・・)十二支(子・丑・寅・・・)の組み合わせで今年は壬寅(みずのえ・とら)の年です。こんな遊びを年末年始に楽しみます。甲子園球場は関東大震災の翌年1924年甲子(きのえ・ね)の年の開場でした。暮れには甲子園球場の近くに住む同郷の友人から、いつもの鹿児島銀行の一枚カレンダーが届きました。

 2021年の絵は鹿児島市内の鶴丸城に復元されたばかりの「御楼門」でした。今年は加計呂麻島にある「於斉(おさい)のガジュマル」です。カケロマに行くには奄美大島の南端の町の古仁屋港からフェリーで大島海峡を20分かけて渡ります。複雑な海岸線をもつ小さな島です。芥川賞作家の又吉直樹の母親の出身地でもあります。去年のカレンダーより今年のような、人工物より自然の風景のほうが落ち着きます。

 

 今年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」だそうです。「西郷どん」のときは欠かさず見てましたが、昨年はときどきのぞく程度でした。旅した佐渡ヶ島→順徳天皇→承久の乱→北条義時→「鎌倉殿の13人」へと連想はひろがりました。源頼朝が武家政権の鎌倉幕府を開いたと習いますが、「執権政治」というものを詳しく習った記憶はありません。

 京都の「公家政権」と、名目上の将軍を助けて事実上の最高責任者である「執権」という権力構造だったようです。承久の乱で後鳥羽上皇は隠岐へ、その子の順徳天皇は佐渡へ流されました。源頼朝の妻で頼家と実朝の母で尼将軍と呼ばれた北条政子は北条義時の姉です。「鎌倉殿の13人」の主役・北条義時を演じる小栗旬は小平市出身で、その小栗の妻・山田優は沖縄県出身といいます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする