玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*北山公園

2023年06月29日 | 捨て猫の独り言

 6月21日この日は夏至。朝9時ごろに出て、東村山市にある北山公園に行く。自転車で北へ向かい新青梅街道と多摩湖自転車道を横切り、東村山浄水場の横を走り抜け約30分かけて到着だ。東村山駅から電車で行くより自転車のほうが早い。

 BSでは連日、午前中に大谷のエンゼルスの試合が放映される。そして午後のテレビ番組では彼の活躍の映像が繰り返し流れされる。昨日はエンゼルスの試合がなかったので、なんだか日本中が静かだったような気がする。しかし連日大谷君に付き合っていては身がもたない。

 あとで知るのだが、この日のドジャース戦は4打数無安打、2三振だった。結果論だが出かけて良かったというわけだ。今年の「菖蒲まつり」は6月3日から18日だった。心配していた通り到着した公園に人影はほとんどない。ところどころに健気に咲き残る花がぽつりぽつりとあるばかりだ。

 

 何ごとにも旬というのがあることを思い知る。来年は菖蒲の見頃を逃さないようにしようと思う。その後は、線路の向こうの八国山緑地に分け入り尾根道を歩く。木陰で将棋に興じる人たちがいた。ここに来ると、いつもこの場所で同じ光景に出会う。(つぎの二つの写真の違いを見つけてください)

 

 

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*言葉は生きている

2023年06月26日 | 捨て猫の独り言

 まえに「ツンデレ」という言葉を覚えた。これはツンツンとデレデレの合成語だ。類似の言葉に「ヤンデレ」があるという。これは「病む」と「デレ」の合成語だ。インターネットゲームに登場するらしい。私にとって縁のない言葉のようだ。

 新聞のある日の「折々のことば」に、めずらしくこの種の合成語が登場した。それは「ギャップ萌え」で漢字が混じる。ギャップは隔たりとか食い違いだ。萌えは草木の芽が真っ直ぐ出ることで、最初はその意味をはかりかねた。(ウツギの花)

  

 ギャップは「大きなズレ」で「萌え」はある人物に対して抱く強い愛着心、この二つが組み合わることによって生まれた。相手が思っていたタイプと違っていた時などに感じる心のときめきのことだそうだ。たとえばいつもは陽気なキャラだけど仕事では真面目などの場面にギャプ萌えが生まれる。

 言葉といえば「やばい」は軽い抵抗を感じながらもいつのまにか私も使っている。これは江戸時代の「やば」という語まで遡るという。「やばい」を「あやしい」「びっくりした」「おもしろい」「たのしい」「おいしい」「感動した」これらすべての意味で使うならば語彙力不足と言われても仕方がない。

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*学び方いろいろ

2023年06月22日 | 捨て猫の独り言

 つぎは6月3日の記事による。小平に英国式のインターナショナルスクールが8月に開校する。世界共通の大学受験資格をえられる「国際バカロレア(IB)」の幼稚園から高3までの一貫校だ。自分の感情を言語化するなどを通じて社会性や感受性を育てる。日本国籍だけをもつ場合は日本の小・中校を卒業したと認定されないので要注意。外国人の日本駐在員がふえて、国内では八幡平市や柏市などインターの開校が相次いでいる。

 

 6月7日の新聞に「ZEN大学開学(予定)」の全面広告がでていた。2025年4月に日本初本格的オンライン大学を開学すると宣言している。日本では大学進学希望者のうち、家計の収入が低い学生がより授業料の高い私立大学に進学しているという統計結果があり、ZENは私立で独り暮らしの費用の3分の1で優れた教育を提供すると謳う。

 社団法人ドワンゴは日本最大級の「ネットの高校」であるN高等学校を2016年に沖縄県うるま市に、2021年には茨城県つくば市にS高等学校を創っている。単位制・通信制の学校でパソコン、スマートフォン、タブレット、VRゴーグルで日々の学習を行う。「ネットの向こうのリアル(日常)を動かす。人間らしさとつながるデジタルを」が企業メッセージという。

 これは6月10のコラム記事から。徳島県神山町は人口約5千人、高齢化率5割の過疎地だ。「神山まるごと高専」がこの春に誕生した。私立校なのに学費がかからない。5年間で計1千万円の学費は企業からの寄付金100億円の運用益でまかなう。毎週水曜日には名だたる起業家たちが講義に訪れ、夕食を囲み、夜まで話し込む。学生のセンバツの課題は「5年間でつくりたいモノ」で、倍率9倍の難関を44人がくぐりぬけた。高専は神山を含め全国に58ある。自分がやりたいことが明確で、20歳までの多感な時期に実践的な教育を受けるとはなんともうらやましい。

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*いろりの里が閉店

2023年06月19日 | 玉川上水の四季

 日本料理の「いろりの里」が5月で閉店した。小平名物がまたひとつ姿を消した。北は玉川上水緑道に面し、南はすぐ近くを五日市街道が東西に走る。門前の小松橋を渡りしばらく歩くと平櫛田中彫刻美術館がある。コロナ禍で長期休業に入り、つい最近営業を再開したばかりで突然の告知だった。

  

 打ち水をした受付のそばには大きな水車が回り、夕暮れの竹林越しの和室では和服の女性が琴を演奏して迎えていた。日本庭園の中に個室が並び、ミニSLが引っぱてくる貨車から子供たちは自分たちで扉を開けて料理を取り出す。出発の時は汽笛が鳴り響く。

  

 小平市のオープンガーデンに指定され、いろりの里の庭園には自由に入ることができた。かつて鈴木忠司さんの玉川上水観察会のメンバーたち、あるいは遠来の友人たちと庭園を訪れたことがある。閉店後はどうなるかだが、竹林を含めた日本庭園は残して欲しいものだ。

 閉店と言えば、今から6年ほど前の欧風料理「マ・メゾン」のことが思い出される。いろりの里の近くで、五日市街道沿いにあり、アルプスの山小屋風の建物にワイン樽が並べられ薄暗いランプ照明の雰囲気のある洒落たレストランだった。これで遠来の友人をもてなす自慢の店が我が家の近くにはなくなった。

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*フリーランス農家

2023年06月15日 | 捨て猫の独り言

 気楽な稼業のサラリーマンから年金生活に入って久しい。農業、林業、漁業などに従事している人々には、感謝の念を忘れないようにしている。またいかなる会社や団体などに所属せず、仕事に応じて自由に契約する働き方には憧れたこともある。

 養老先生は、都市化が進み体を動かして経験から学ぶことが軽視されていることに危機感を抱いているようだ。人間の活動の大部分は意識に基づくが、しかしこの世界は人の意識だけでできてない。意識化されないものごとを感じ取る力(感覚)が大切だと述べる。

 新聞の「ひと」欄で小松葉真理さん(33)が紹介されていた。1月は沖縄の試験農場でニンジンなどの減農薬栽培。2月からは鹿児島の離島でジャガイモを収穫。4月下旬は再び沖縄で郷土野菜の田芋の商品開発に携わり、5月は北海道で田植えを手伝う。季節の移ろいに応じて忙しい農場を手伝う「フリーランス農家」を名乗る。

  

 自分には農地も資金もノウハウも無い。それなら各地の農家で働き技術を学ぼうと、旅する農家のスタイルが生れた。自然の中で汗を流す気持ちよさ。その土地と人が生み出す唯一無二の作物たち。伝えたいのは、何も持っていなくても参入できる素晴らしい世界がある、ということ。

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*南三陸町への旅

2023年06月12日 | 捨て猫の独り言

 2011年3月11日に発生した東日本大震災から12年が経過している。たとえば北上川河口から4㎞の川沿いにあった石巻市大川小学校の生徒108人中74名が死亡などは広く報道された。しかし広域にわたる大災害の全貌を知ることは不可能に近い。そして原発の処理はいまだに見通せないでいる。

 高校の同級生5名で南三陸町へ2泊3日の旅をした。女子3名と男子2名というのは珍しい構成だろう。宿泊は石巻市と気仙沼市の間に位置し志津川湾を抱いた南三陸町の「南三陸ホテル観洋」だ。仙台駅から無料送迎バスは約100分を要してホテルに到着する。しばし5階のフロントのソファで広々とした志津川湾に見とれていた。

  

 二日目の朝はまず「震災を風化させないための語り部バス」で見学に出かけた。南三陸町の被災状況は死者620名、行方不明者211名という。語り部はホテルの渉外部長の伊藤さんだ。自らのあの日の体験を昨日の出来事のように訥々と語る。ホテルは名物女将の阿倍さんのもとで、震災経験の情報発信拠点になっているようだ。

  

 この日は予約していた観光船が中止になり、「南三陸さんさん商店街」に行くことになった。予定変更は思わぬ有益な結果をもたらす。「震災伝承館」で南三陸町の被災状況を知ることができた。約10m嵩上げしてできた商店街には佐藤信一常設写真展示館もある。天皇皇后は1914年にホテル観洋に宿泊しこの商店街を訪れている。

 

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*情熱情念叙情詩情

2023年06月08日 | 捨て猫の独り言

 「偏旁冠脚」を辞書で引くと、「漢字の字体を組み立てている部分の、位置による名称。字の左部にある偏、右部にある旁(つくり)、上部の冠、下部の脚のほか、繞や構えがある」とあった。漢和辞典で「情」を引くと、「心の部」にあった。心は心臓の形を表したもの。

 「情は左部が形を表し、右部の靑が音を示す。つまり心のはたらきの清く純粋な要素をいう。性が、人間生まれつきの心であるのに対し、情は外の刺激に応ずる心のはたらきである。喜怒哀楽愛悪欲を七情という」辞書を引くという行為は重層する文化を思い、打ちのめされることでもある。(5月10日のジャガイモの花と柿の若葉、麦畑)

 

 2月26日の朝日歌壇に霧島市・久野茂樹の「美しい人はトイレに行かないと信じ切ってた紅顔の頃」が掲載された。久野さんにしては不出来かな?「女の肌を雪に喩しそのかみの人の孤独をしみじみ思ふ」これは1962年生まれの歌人・荻原裕幸のうた。後者に叙情あり。

 穂村弘の「ぼくの短歌」は作者が選んだ短歌について、いろいろな角度からコメントした本である。その中でつぎの2首を比較しつつとりあげていた。「春みじかし何に不滅の命ぞと力ある乳を手にさぐらせぬ」これは情熱の歌人与謝野晶子の歌だ。「もちあげたりもどされたりするふとももがみえるせんぷうき強で回ってる」これは今橋愛(47歳)の歌だ。後者は反情熱的。 

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*佃島と月島

2023年06月05日 | 捨て猫の独り言

 本願寺のつぎは聖路加(せいるか)国際大学(看護)の礼拝堂と病院の外回りを歩く。木々に囲まれた静かな散歩道の落ち着いた雰囲気が心地よい。その先には聖路加タワーと呼ばれる2棟の超高層ビルが空に聳えていた。これは複数の事業主が地権者である聖路加国際病院と定期借地権契約を結んでできた複合施設という。

 

 隅田川にかかる佃大橋を渡る。風を切って何台かのモーターボートが波しぶきを上げながら川下に向かっているのが見えた。見渡せば超高層ビルの住宅地が連なっている。大地震が発生したら大丈夫だろうかと気にかかる。佃島は江戸時代に、その優れた漁法を江戸に取り入れるために大阪から招かれた漁師が暮らした場所である。

  

 月島は明治時代になり、佃島の南側を徐々に埋め立てて築いた「築きたる島」である。また海上にせり出し月見に恰好な土地であることから「月島」となったとされる。いまや佃煮(佃島)よりももんじゃ焼き(月島)の方がもてはやされるようになっている。住吉神社を尋ね、赤い欄干の佃小橋を渡って月島駅に向かった。

 築地本願寺界隈の散策が早めに終わったので、この日渋谷で行われている「おはら祭」を見学することにした。国立競技場で降りて千駄ケ谷駅前から都バスで渋谷駅に向かう。私の出身高校の踊り連は毎回参加していて、その中には同級生もいる。交通規制された道玄坂を練り歩く。これまで渋谷と鹿児島の不思議な縁で開催されてきた。外国人観光客の姿も多い。

 

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*築地本願寺

2023年06月01日 | 捨て猫の独り言

 目下私がおもしろいと思っていることの一つに、都営地下鉄大江戸線沿線の東京探訪がある。増上寺や青山葬儀場と並ぶ大規模葬儀場のひとつである築地本願寺を初めて訪れることにした。三島由紀夫、大島渚、勝新太郎、笑福亭笑瓶などの葬儀が執り行われたという。また近くの佃島と月島の関係も整理しておきたかった。

 5月最後の日曜日、西武新宿駅まで行き大江戸線の新宿西口駅から築地市場駅に向かう。地上に出ると朝日新聞本社と国立がん研究センターのビルが目の前に現れた。通りの反対側には豊洲に移転した築地市場の跡地が白い塀で囲われている。塀沿いに歩くとすぐそこには場外市場があった。アジア系の観光客でごった返していた。

  

 寿司、鮪のステーキ、卵焼きの店などに行列ができていた。ふと台湾旅行のさいの屋台通りの風景を思い出した。かつてここは築地本願寺の門前町だった。そして訪れた本願寺は明暦の大火のあと江戸幕府の区画整理のさい、もとの場所での再建が許されず八丁堀沖の海上が下付されたという。

 本堂再建のために佃島の信徒を中心に、海を埋め立てて土地を築いた。この埋め立て工事のことがそのまま築地という地名となる。そして1923年の関東大震災の10年後には現在の本堂ができた。古代インド様式で鉄筋コンクリート造りだ。日本の寺院のイメージとはかけ離れた、エキゾチックな雰囲気にしばし圧倒された。境内の片隅に親鸞上人の托鉢姿の像があった。

  

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