玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*春場所が終わる

2023年03月30日 | 捨て猫の独り言

 大相撲初日のテレビ解説はいつもなら北の富士さんと決まっているのだが今場所の初日にその姿はなかった。どうしたのかと気がかりではあったが、深く追求することなく過ごしているうちに大阪場所が終わり、郷土力士西前頭4枚目の明生は5勝10敗の成績だった。

  

 霧馬山の初優勝の翌日に「北の富士コラム」で検索してみた。25日の大相撲14日目のコラムがアップされていて安心した。見出しは「若隆景の早期回復を祈る 私も退院したばかり・・・早期回復を祈る」となっている。

 「横綱、大関不在の今場所だが、また1人人気力士がいなくなってしまった。全治3ヶ月だから、おそらく夏場所は無理だろう。リハビリにも時間がかかるだろうし、悪くすれば力士生命も危うくなる。大関を目前にして、突然の不幸に見舞われてしまった。私もファンの1人として残念でならない」

 場所前の3月10日の朝日新聞で、錣山親方(元関脇寺尾)のコラム「七転び八起」が最終回を迎えていた。見出しは「芯になる力士 待っている」として「横綱、大関の続く上位陣の力が拮抗しています。飛躍の可能性があるとみているのは若元春です」とあり最後は「コラムは4年間続きました。みなさん、ありがとうございました。引き続き、大相撲を応援して下されば幸いです」と結ばれていた。

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*都電で飛鳥山公園へ

2023年03月27日 | 捨て猫の独り言

 3月21日のWBC準決勝、日本対メキシコ戦は手に汗握る熱戦だった。好ゲームだっただけにヒーローは多いが、私は7回裏の同点に追いつく3ランホームランを放ち、8回表は相手のこの回3点目を阻止するバックホームを決めた、4番吉田選手の活躍を一番に挙げたい。今シーズンからボストン・レッドソックスでプレーすることが決まっている。

 翌日はWBCの決勝戦の日、そして東京では桜が満開になったと報じられていた。WBCも気がかりだったが昨日の試合だけで大満足、それに明日からは雨の日が続く。桜の名所は数々あれど、都電荒川線に乗り、初めての飛鳥山公園での花見を計画した。まず高田馬場から早稲田正門行きのバスに乗る。大隅講堂の裏手にある庭園はこの日は解放されていなかった。

 

 ここから都電の始発駅「早稲田」までは歩いてすぐだ。3歳ぐらいの男の子を連れた白人の母親が電車に乗ろうとしてなにやら注意を受けている。運転手さんは、そのキックボードはこれに入れなさいとビニール袋を渡した。スケートボードや三輪車は袋に入れるという決まりである。運転手さんが手を振り、あの白人の親子連れは途中の「飛鳥山」で降りたが、私は終点の「三ノ輪橋」まで全区間乗ることにした。

 

 荒川線の停留所は30ヵ所あり、全区間の所要時間は60分だった。三ノ輪橋界隈を散策して、再び都電に乗り「王子駅前」まで引き返す。ここで安い定食屋の「晃正」を見いだしてちょぴり幸せな気分になる。近くの音無親水公園では桜の木の下でのんびり食事などしていい雰囲気だ。ここから明治通りをはさんで向こうの小高い丘が飛鳥山公園だ。そこでは大勢の子供たちの元気な声が響いていた。ぽかぽか陽気の中をこの日3回目の都電に乗り終点手前の「面影橋」で降りてこれは2度目となる神田川沿いの桜見物をして帰る。

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*台湾の尼僧

2023年03月23日 | 台湾のこと

 またしても市立図書館のリサイクル本だが「台湾に三巨人あり」を読んだ。講談社から香港返還の3年前の1994年に出版されている。三人とは李登輝(1923~2020)、王永慶(1927~2008)、證厳法師(1937~)である。この本が出たときは三人とも健在だった。李登輝元総統の死去の際には日本でも大きく報じられた。あとの二人は私は今回初めて知る名だった。

 目次には、王永慶は「台湾で〈経営の神様〉と呼ばれる男」、證厳法師は「台湾を慈愛の灯明で照らす尼僧」とあった。王永慶は米屋の丁稚から世界一のプラスチック王国を築き、日本以外では松下幸之助よりも有名で華人社会では知らぬものはないとの記載があった。2008年に滞在先のアメリカの病院にて91歳で死去した。(モクレンとハナダイコン)

  

 貧民救済事業である「慈済功徳会」は、1966年に一人の小柄な尼僧が台湾の東海岸にある花蓮で30名の主婦たちとともに、一人毎日50銭の貯金をすることから始まった。もともとは家庭の主婦から始まったが、今では数多くの一般社会人までが加わり会員数はうなぎのぼりに増加し、その事業は海外まで広がりをみせている。1989年李登輝総統は「慈悲救済」の字額を贈って台湾で最も高貴なる人であると讃えた。

 證厳法師は言う「成仏の意味は覚悟であって、覚悟ができる人はみな仏になれるのである。これと同じく菩薩の意味は善行であって善行ができる人はみな菩薩になれるのである」法師はいまだに布衣にわらじ履きで、質素な生活に甘んじ、政治活動には一切関与せず、現在も貧民救済の先頭に立って、慈善、医療、教育、文化の四大事業に邁進している。台湾では仏教が生活の中に根づいていることに感銘を受けた。

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*映画館に行こう!

2023年03月20日 | 捨て猫の独り言

 イギリス映画「生きる LIVING」が3月31日に公開される。黒澤明監督の名作「生きる」(1952年)のリメーク版だ。脚本を担当したのは5歳のときからイギリスに住み日本語はほとんど話せないカズオ・イシグロだ。さいわい近くの立川で上映されるようだ。映画館に行くのは何年ぶりだろう。

 イシグロはノーベル賞授賞の際に「作家としては日本文学より50年代の日本映画に影響を受けた」と語っている。とくに「生きる」は子供のころテレビで見て強い感銘を受けたという。そんなおりにイギリスの国民的俳優で親交のあるビル・ナイを主演にリメークすれば完全な映画になるとひらめいたという。

 

 イシグロは「10代の時、ロンドンの学校に電車で通いました。プラットホームには山高帽にブリーフケースと新聞を持った人々でいっぱい。みんな制服のようでした。卒業したら私も同じ制服を着て通勤するのかと思うと、暗い気分になりました」とふりかえる。リメーク版は1953年第二次世界大戦後いまだ復興途上の朝の通勤風景から始まる。

 黒澤版で主人公が歌う「ゴンドラの歌」は、スコットランド民謡「ナナカマドの木」に替わった。これはスコットランド出身のイシグロの妻が好きでいつもいつも歌っている歌と種明かししている。「主人公は妻の死で自分の一部を失っていた。最後にそれを取り戻し人生を100%生き抜くことができた」イシグロは、この歌に主人公の亡くなった妻への思いという隠れた意味を込めたという。

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*2冊の禅の本②

2023年03月16日 | 捨て猫の独り言

 平櫛田中に「尋牛」という作品がある。何かに向かって一歩を踏み出しているあごひげの翁の像だが、そこに牛はいない。花園大学に国際禅学研究所をつくった柳田聖山の「未来からの禅」という著作を読んで「尋牛」の謎が解けた。ただし本のタイトルはサンフランシスコの禅センターでの講演のもので「尋牛」とは関係ない。

 謎が解けたのは最後の章の「盲・聾・啞ー十牛図を考える」だった。「十牛図」とは13世紀初期に中国で生まれた禅学入門書だという。一種の漫画本ともいえるもので、十枚の絵と詩の本で牧童が暴れ牛を飼いならす手段にたとえて、禅の修行の段階を図式化しようという、連続様式の版画である。

  

 第一番が「牛を尋ねる」だった。田中の「尋牛」では牧童ではなく翁になっているのは興味深い。聖なる全牛を我々が改めて発見する、そして我がものとするという、修行の全過程を明らかにし、最後に牛と自分が一つになるという意図で制作されたと考えられる。完全な牛が描かれているのは3枚にすぎず、すべてが円相の中に描かれている。

 

 第九番は「本に帰り源に還る」として花が咲き水が流れる大自然の姿が描かれる。何も見ず、何も聞かず、何も言わないその人に向かって、大自然は心優しく語りかけ、倦まず弛まずそれを続けていく。第 九番は道元の時節因縁の歌「春は花、夏ほほととぎす、秋は月、冬雪冴えて涼しかりけり」に通底する。(了)

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*都バス「梅70」

2023年03月13日 | 捨て猫の独り言

 ひたすら旧青梅街道を走る「梅70」は都バスの運行系統の中で最長路線だ。西武新宿線の花小金井駅から青梅車庫までの約28㎞をおよそ2時間近くかけて走る。全区間乗車すると570円で、停留所の数は81もある。かつては中央線荻窪駅から青梅まで全区間約40㎞のときもあったという。

 新宿を起点とする青梅街道は江戸城築城のため青梅(成木村)の石灰を運搬する道路として開発された。この街道は、かつて江戸そして青梅、大菩薩峠から甲府を結び「甲州裏街道」と呼ばれていたこともあるという。現在はバイパス道路として新青梅街道が出来、瑞穂町の箱根ヶ崎で青梅街道に合流する。

 我が家から北に10分歩くと中宿という名前の梅70のバス停がある。かつて小平(小川村)は石灰街道の宿場町でもあった。先週の土曜日に、その中宿から念願の「梅70のバス旅」に出かけた。奈良橋庚申塚で新青梅と南北が入れ替わり狭山丘陵の麓に入ると狭い道路になり、その先の合流地点(新青梅の終点)からは再び広い道路になる。

  

 中宿から90分かけて青梅駅前に到着した。ここで土日のみ運行の「梅01」に乗り継いで御嶽駅前で下車、御岳橋を渡り、玉堂美術館の横を河原に降りる。美術館前の渓流はカヌーを操る人でにぎわっていた。梅01は行きは多摩川左岸の青梅街道を、帰りは右岸の吉野街道を玉堂美術館で折り返す循環バスだった。すべて都バスを使う御嶽渓谷行きは初めての経験だった。

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*2冊の禅の本①

2023年03月09日 | 捨て猫の独り言

 リサイクル図書の中から、高橋新吉(1901~1987)「禅に習う」と柳田聖山(1922~2006)「未来からの禅」を持ち帰って読んだ。二人とも私が初めて知る名である。この2冊により、彫刻家平櫛田中と「禅」との関わりがより明確に分かった。思いがけない収穫に喜んでいる。(2月22日・小金井公園梅林にて)

  

 小平市名誉市民である彫刻家・平櫛田中は1898年(明治31)に谷中の長安寺で臨済禅の西山禾山(かさん)の話を聞き影響を受ける。禾山は仏教の教えを自分の体験を盛りこんでやさしく説いて、多くの人が参禅にかけつけたという。田中には、椅子に腰かけ両ひじをはって後ろにのけぞりながら大口を開けて大笑いするポーズの「禾山笑」という作品がある。

 高橋新吉は禾山と同じ愛媛県出身だ。日本のダダイスト詩人で、若い頃の性急なダダから次第に禅仏教に興味を向ける。「留守と言え、ここには誰も居らぬと言え、五億年経ったら帰ってくる」という「るす」という詩がある。五億年というのは弥勒菩薩が地上に現れるまでの期間をさす。

 愛媛県の八幡浜市にある福高寺には、「禾山和尚生誕の碑」、平櫛田中の「禾山一笑万法空」の碑と、高橋新吉の「詩碑」があるという。田中が影響を受けたもう一人が日本近代美術界の救世主の岡倉天心だ。天心は「茶の本」で東洋の世界観、自然観を世界に紹介した。茶も禅文化の一つだ。

 

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*江の島

2023年03月06日 | 捨て猫の独り言

 日帰りバスツアーで、行きは都心を時間をかけて走り横浜中華街、鶴岡八幡宮、江の島を回り、帰りは圏央道をノンストップで走って西武新宿線の東村山駅に帰着した。初めて訪れる江の島にはマリンスポーツのイメージぐらいしかもっていなかったが、「江島神社」を知ることになった。

 江の島は古来宗教的な修行の場だった。源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。かつて江の島には「金亀山与願寺」と呼ばれるお寺が存在しており、神仏習合により明治に入るまで「江島弁天」、あるいは「江島明神」と呼ばれていた。

 江戸時代後期には江戸庶民の行楽地として大山- 江の島 - 鎌倉- 金沢八景を結ぶ観光ルートが流行したという。廃仏毀釈により江の島の三重塔など仏教施設や仏像などが破壊され、仏式を廃して神社となり「江島神社」と改称する。

 

 三つの宮からなる神社で、日本三大弁才天の一つである。弁才天はもともと仏教の守護神の一つだが神道にも取り込まれた。神仏習合と廃仏毀釈でものごとは複雑になっている。竜宮城を模した瑞心門の石段を登り一番低い位置にある辺津宮だけ参拝して帰った。

 

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*宿無し弘文④

2023年03月02日 | 捨て猫の独り言

 この本の副題は「スティーブ・ジョブズの禅僧」となっている。そして巻末には弘文とジョブズの年表が併記されている。二人はジョブズがアップル社を立ち上げる頃から交流があり、結婚式も弘文が式師を務め、ジョブズが一度アップル社を追い出され、復活するまでの苦難の間、かなりの時を共に過ごしている。

 年表によるとアップル社から追放された翌年の1986年に(ジョブズ31歳、弘文48歳)、ジョブズは弘文と一緒に新潟県加茂市の弘文の実家を訪ねている。ジョブズの死後、故人に多大な影響を与えた人物として、にわかに”禅僧弘文”に注目が集まり、世界中にその名が轟くことになった。

 永平寺上山が同期で、弘文を知る高僧はつぎのように述べている。「弘文さんが日本にとどまっていたら、独身をとおしていたように思います。新潟や永平寺にいたら、気まじめでかたいお坊さんで終わっていたことでしょう。しかし彼はアメリカに行き、日本の縛りから解放されて弾けた。若い頃、禅僧になることを希望したジョブズに対し、《僧侶になるより、起業家として生きるほうが自身の命を生かせる》と、指導したのは弘文さんです。そのことにより、人類には大きな足跡が残りました」

 弘文の「座禅の法話」で終わることにする。「今ここにいる自分を保つようななめらかで深い呼吸に身体を委ねることです。そのうちに、呼吸をしていることすら忘れる瞬間に出逢います。その瞬間、魂が呼吸に彩りを与え、心や目に映っているすべての映像が呼吸の中に溶け込みます。この時、みなさんは、それらの映像を消し去りたいとか、忘れたいと思うかもしれません。しかしそうするべきではありません。見続け、起きることを起こるがままにさせるのです。なぜなら、心や目に映るものは、あなた自身のとても大切な一部だからです。現象を判断しろと言っているのではありません。むしろ観察するのです」(了)

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