玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*苦海浄土

2018年08月31日 | 捨て猫の独り言

 今の若い人たちは大変だな、俺たち世代は高度経済成長の時代で右肩上がりで給料が上がっていたとずいぶん呑気なことを言っていた。今にして思えば水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの公害病を十分に理解できていなかった。遅まきながら今回、石牟礼道子著「苦海浄土わが水俣病」を読んで大きな衝撃を受けた。公害で住民に大きな被害が出たという影の部分を抜きにあの時代を語ることはできない。

 「苦海浄土」は小説か、ノンフィクションなのか、叙事詩と呼ぶべきか大いに迷う。1969年(昭和44)に講談社から出版されて日本中に水俣病が知られるようになった。石牟礼さんの生活は大きく変わる。しかし彼女はどんな時にもインテリを装わず、水俣の一介の主婦のような顔を保たれていたという。彼女の歌集の中に「この秋にいよいよ死ぬべしと思ふとき十九の命いとしくてならぬ」がある。そんな危機を突破して「苦海浄土」が残されたことを喜びたい。

 「奇病」は新日本窒素肥料工場(のちのチッソ、2011年からJNC)附属病院の細川一院長によって、1956年(昭和31)に水俣保健所に報告され、翌年に「水俣病」と命名された。「初めに手足の先がしびれ物が握れぬ。歩けない、歩こうとすればズッコケル、モノが言えない、言おうとすれば、ひとことずつ、ながく引っぱる、甘えるような言い方になる。舌も痺れ、味もせず、呑みこめない。目が見えなくなる。きこえない。全身痙攣を起こして大の男が二、三人がかりでも押さえきれない人も出てくる。食事も排泄も自分でできなくなる」

 「わたしが昭和28年末に発生した水俣病事件に悶々たる関心とちいさな使命感を持ち、これを直視し、記録しなければならぬという盲目的な衝動にかられて水俣市立病院特別病棟を訪れた昭和34年5月まで会社はこのような人びとの病棟をまだ一度も(このあと昭和40年4月に至るまで)見舞ってなどいなかった」 ところで、渡辺京二氏が「石牟礼道子の世界」でつぎのように解説している。この作品を書くために、患者の家にしげしげと通うことはしていない。むろんノートとかテープレコーダーなぞ持って行くわけがない。「あの人(患者)が心の中で思っていることを文字にすると、ああなるんだもの。みんな私の本のことを聞き書きだと思っているのね」と笑っていたという。

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*野球部物語

2018年08月26日 | 捨て猫の独り言

 夏の高校野球が閉幕した。金足農は国民的な関心の的だった。公立高校ということや、傑出した吉田投手の存在があった。出場56校中、公立高校は8校でそのうち5校は初戦敗退した。三重の公立の白山の女性部長の甲子園打席での素振り、岡山の創志学園(私立)の西投手のガッツポーズや金足農の吉田投手の侍ポーズに高野連が注文をつけて話題になった。

 大会主催の朝日新聞に、連日の試合結果の記事の横に期間中欠かさず掲載された広告があった。大手清涼飲料水メーカーのもので、それには髪の長い女子高校生が毎回登場する。彼女はある野球部員に関心を寄せているらしい。縦長の広告は何かを見つめる彼女の写真と、彼女の独白で構成されている。男たちは、その見つめられた野球部員になりきって彼女の独白を読む。

 

 8‣6「あちー!」野球部はうれしそうに炎天下のグランドへかけていく。8‣7また野球部たちが、「サボリてえ」って言っている。サボらないくせに 8‣8【翁長沖縄知事が急逝】 野球部がまた泥だらけになって笑ってる。子どもなんだから。8‣9そこの野球部!電車の中で作戦会議をしないよーに。8‣10【石破氏総裁選出馬を表明】野球部のお弁当は大きくてマンガみたいでおいしそう

 8‣11野球部って部活以外でもあいさつの声がデカすぎる 8‣12【土砂投入阻止へ県民大会】野球部って、うるさいし泥だらけだしカバンでかいし でも嫌いじゃないです 8‣13休刊 8‣14放課後なんか静か。そうか、野球部今日は遠征だ。8‣15【戦後73年戦没者追悼式】女子は集まるとおしゃべりする。野球部は集まるとなぜか走り出す 8‣18野球帽のツバには好きな言葉を書くそうで。あいつは何て書いたんだろう。

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私の周りのアレコレ

2018年08月24日 | アトランタ便り

 その為に昨年娘が選んで引っ越してきたこの新興住宅地は、いい学校区らしく建築ラッシュ中である。アジア人の親の教育熱心さはつとに有名だが、日本人は半年遅れで引っ越されてきた駐在員家族のみの様だ。幸運にも隣3軒目で、日中車なしの私を自分の用事のついでに連れ出し、落としてくださるので大いに助かっている。その方に誘われて教会での英語レッスンに2回同席させて頂き、次回(火)は最後のレッスンになる。

 その方が私を皆さんに紹介して下さり、ゲストとして迎えられた私も簡単な自己紹介をした。生徒は私を含め日本人5人・台湾・中国各1人とシニアの先生3人。ランチを含め約3時間。プリント2枚が配られた。ポエムの様だ。ヤバイ!!私は数字・歌詞・ポエムは難解なので、長年完全に距離を置いていたのだ。「early Morning Rain」と題され詩が配られ段落毎に解釈される。シニア3人の理解も時に微妙に違いがある様だ?ストーリーは展開するのだが、言葉がはしょられたり、例えがあったり、象徴化されたりで、例え語彙の意味がとれても文としての理解は容易ではない。やっぱり歌唱だった!。最後はペーパーを伏せ歌詞を聞き取る。ついで印字を追う。意味が取れると、歌は柔らかく心を打った。2回目は「Leaving on a Jet Plane」で前回より幾らかよく聞き取れた。歌唱は苦手意識があったけれど、柔らかい歌声は私を魅了した。どこかで入手すべくレコード盤を転記しておいたけれど、果たしてその手筈を取る所迄ゆくかどうか。

 

 さて私の滞在もあと10日間となった。先週末は娘の誕生祝に数人を呼んだ。今夜は、孫娘が中国語を習うことになった台湾人3人家族を夕食に呼ぶ。大の日本料理好きと聞き及んで私が振る舞うことになった。日本語が通じるご主人と通じない御夫人だ。隣の連れ出して下さる奥様とは水曜日にランチを我が家でする。使い勝手の違うキッチンや食材・鍋・事足りない茶碗・皿だけどそれも私のヤリクリ算段で乗り切っている。

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アトランタ・新学期

2018年08月20日 | アトランタ便り

 この時期は何かとせわしい。学校では担任・クラスメートが変わり第2言語の新教科(中国語を選択)も加わった。娘も私も、これからは中国語が必要と考えていただけに本人の選択を喜んだ。しかしいざ始まってみるとこれが難しいらしく、解らないとぐずりだした。やっぱりそうかと娘は痛く納得している。この地域は学校区が良くて教育熱心な親を持つアジア人が多く、ご近所にも米国人より韓国・台湾・インドの方が多いようだ。「話せる人もそうでない人も一緒に勉強するの」と本人は言い、今週中にテストがあると嘆く。私はそのテストによってクラス分けがなされる筈と見ているのだが、当初は「解るとドンドン進むからゆっくりでいいのよ」と呑気の構えだった娘が、子供の友達の親に助けを求めた。

 その方は、私も進級の手続きのため孫等と共に学校でお会いした際挨拶を交わしていた。ご両親共々台湾の大学を出た後、米国で更に学ばれ大の親日家でご主人は日本語も話せるという。昨日テニスの後になったが、初めてそのお宅での個人レッスンが始まった。お返しに娘がその方に日本語と教えることになったようだ。近場で子供同士が行き合いするなか家で、又はプールサイドでこういった関係が築けるのは都合がいい。その方ニューヨーク方面から転入されており、「この辺りは日本の食材が入手しにくい」と嘆かれる程日本食が好きらしい。娘もお呼ばれした事はあるけど、逆は未だないから是非私のいる間にお呼びしたいと言っている。

 ほぼ毎週末、父親宅で過ごす孫2人は今回はコチラで過ごした。先ず9時から初テニスが始まった。プールサイドにあるテニスコートに、小学生後半の生徒が順次集まり(計6~7人)練習が始まった。コーチは外部からやってくる中国人の30代後半の男性。私は約1時間ベンンチサイドに座り、子らの練習とコーチの指導ぶりを観察していた。他の子供に球を配給しながら2人にはコート周りを走らせる。次いで打球する子の後につかせ見せる。ついで配給し打たせる。初心者である孫らの打つ球は真上に上がる。”グッド・エクセレント”と連発して褒める。暫し後、自分が打ち分けてラケットの向きと球の方向をみせていた。練習の終わりには子供同士やらせていたが、コーチの配給下にない球の為お互いに全く返球できないでいた。今・来週から今までフルート一つだったお稽古に、近場ではあるが中国語・サッカー(夕方)・テニスが加わることになってサテどうなる事やら。運動がストレス解消になることを願わずにはいられない。

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*東京漂流

2018年08月19日 | 捨て猫の独り言

 東京に流れ着いたのは26歳のときだ。まず田無市(現在の西東京市)に4年の借家住まい、つぎに埼玉の所沢近郊に1年住んだ。そして幼い長男と長女を連れて、玉川上水の近くの現在の場所に引っ越した。このとき不動産扱いの才覚などない私は、ただ流れに身を任せていた。

 移り住んだ物件は、老女が一人で住み、朽ちた木造の2階には津田塾大学の学生が4名入居していた。ありがたいことに、その下宿代がローンの返済の一部にあてられた。当時は創価高校の女子学生を受け入れる賄付き下宿が多く存在する地域だった。(7月に不忍の池あたりで)

 

 老女は売却後に近くの知人のアパートに移り住み、国内各地の旅行に出かけていたようだが、しばらくして亡くなられたと聞いた。下宿の学生に区切りがついたところで、我が家の積極派は下宿屋を解体して住居を新築してしまう。庭の池や、ツゲの生け垣はそのまま残した。敷地の一角に国鉄の送電線が架かり、その建築規制に対して、わずかな補償金が支払われていた。

 思いがけない転機が訪れる。送電線が国鉄の分割民営化を前に撤去されたのだ。我が家の積極派は土地を十分に活用すべく、自ら設計図を描いて再度の新築に意欲を燃やす。自らの大病もあった年の翌年、15年間だけ住んで、まだ新しい家を解体して計画は実行された。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があった年だ。あの時からすでに23年が経過した。あれは正しい決断だったというのに十分な年月だ。

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*掘り出しもの

2018年08月13日 | 捨て猫の独り言

 親鸞アニメ全六巻を見終えて「記録的猛暑となりましたがいかがお過ごしでしょうか。気候一つ思うようにならぬ世の中ですが、大悲の願船に乗せて頂くと光明の広海に浮かびます。歎異抄講座は次の予定です」という葉書が届くようになった。講座参加もいいが、親鸞に関する本をひとり静かに読んでみたい気持ちの方が強い。

 毎日新聞に連載中だった高村薫「我らが少女A」が7月で終了したことを知って最後の10回分ぐらいを隣町の図書館で読むことにした。過去と現在が交錯し、土地と人間が溶け合う中で、SNSをたぐる若者を描いて現代を浮かび上がらせようと試みた連載だった。作者と関係なく「我らが少女Aを歩く」という催しまであったと聞く。

 目的をはたして帰ろうとした時、ふと目にした本に思いがけず手が伸びた。1983年に鹿児島県出水市の西照寺で2日にわたり開催された講演会の記録「親鸞・不知火よりのことづて」である。講座は西照寺開基百周年を記念して行われた。吉本隆明、桶谷秀昭、石牟礼道子の三者が講演している。35年以上前のことである。住職が前文を、仕掛け人の詩人が後文を書いていた。

 

 それぞれの講演内容については、繰り返し読んでこれから煮詰めていこうと思う。そんな意欲が生まれる本だ。鹿児島は島津藩時代、三百余年間念仏禁制の地であり、過酷な宗教弾圧が行われていたことを知った。出水市の隣の水俣市の源光寺には薩摩から密出国した一向宗門徒が身を隠した「薩摩部屋」というのが残されているという。

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アトランタ2018

2018年08月11日 | アトランタ便り

 毎年8月はアトランタで過ごし6年目を迎えた。訪米して丁度2週間になるのに、未だ安定しない睡眠時間が私を悩ませる。その原因は、遅い日の出と遅い日の入りというサイクルの違いだろう。夜は8時過ぎても明るく、朝はその分夜明けが遅い。眠剤に頼っても思うほど奏功しない。たまたま昨夜はビールから赤ワインに変え軽い酩酊を覚えたので、これ幸いと11時前飲んでみたが目覚めたのは3時前。その間すらトイレに起きるのだから、熟睡感が得られないまま起床する。私の眠り様は日本でも同様だが、日本ではNHKの「ラジオ深夜便」に救われて再度眠りに陥っていた。つくづくとラジオが恋しい。

 今日は土曜日。新学年初の週末に当たる。孫の在日中の2か月間、私は日本の生活習慣に沿ったルール,躾を通してきた。しかしここは娘の生活の地アトランタ。私は身内と言えどもあくまでも第3者でしかない。私と娘を超えた孫に至っては猶更そうだろう。広いアメリカで大らかに暮らす人々、対、長らくの習慣に捕らわれ頑固の鎧をまといつつあるに違いない私。娘の為を思えばの発言もおせっかいになることもあるようだ。孫に対しては躾は完全に放棄した。うっとおしがられてはコチラだってたまらない。母親が仕事から帰宅するまでは全くの自分時間を過ごしている。私は傍らで見ながら夕食つくりに励む。

 当地の習い事は全て保護者の送迎付きが鉄則だ。従って仕事を持つ親の都合も加味する必要があって厳しい。体育会系だった娘は自分の子にサッカーをやらせたいと念願していたのだが、やっと子供達の同意と自分の都合が合致し3か月間トライすることになった。今日はそのグランドで、大学生の試合を見学することになっている。緒レッスンでいいのは3か月間のトライ期間に自分に合った競技を見極めるられる事だろうか。しかし真夏の外気の中を走り回るサッカー。練習衣、器具を揃えるのはいいとしても、娘の念願に沿って長らく続けたいと言ってくれるかどうか? サッカー少年として育ち続け、今も尚サッカーを楽しむ息子を持つ親として、気のもめる事である。

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*番狂わせ

2018年08月08日 | 捨て猫の独り言

 甲子園の選手権大会3日目の第2試合は智弁和歌山と近江の対戦だった。センバツ準優勝校の智弁の高嶋監督は組み合わせが決まった直後に「やりたくない相手やった。左投手が多いし、よう打つしね」と語っていた。近江はセンバツでは3回戦で星稜に惜敗している。両校の監督は良く知る間柄だという。戦前の予想は智弁優勢が圧倒的だった。

 春のセンバツで近江の多賀監督を拝見したときは、知人でオープンギャラリーの鈴木さんと良く似ているなと親しみを感じた。また日焼けなどしたこともないような、色白の貴公子のような左の林優樹投手が印象に残った。今回の夏の開会式で中尾主将の選手宣誓には好感がもてた。そこで私はブルーのユニフォームの近江を応援することになった。

 甲子園の各試合では滑り出しを注視して、あとはテレビの前から離れることが多いのだが、この試合は終わりまで見届けた。4番の2本の本塁打、捕手の強肩がピンチを救い、背番号11→18→10→1の4投手のリレーで近江が7-3で勝利した。背番号4の中尾主将はベンチスタートだった。かなり小柄に見えるが身長は172㎝で大阪出身だという。

 近江高校について調べてみた。琵琶湖東岸の彦根市にある私立学校だ。多賀監督は社会科教諭で副校長も兼務する。野球部部員は67名で、甲子園出場メンバー18名中11名が滋賀県出身という。スタンドの応援スタイルにも注目が集まる。余談になるが近江の地で育った歌人の河野裕子は「たっぷりと真水を抱きてしずもれる昏き器を近江と言えり」と詠んでいる。

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*酷暑の日々

2018年08月06日 | 捨て猫の独り言

 地口行灯について調べてみた。地口の文句を配し、戯画を書き加えたもので江戸時代に流行したという。地口はしゃれで、戯画は滑稽化、風刺化して描かれた絵ということだ。4日は小平市の中央公園で13回目の「灯りまつり」があり、そのポスターに「伝統の地口行灯を蘇らせ」とあった。統一規格の行灯が公園の通路に参加団体毎にずらりと並べられる。

 明るいうちに、会場を一回りしてみた。残念ながらこれといった行灯に出会うことはなかった。公民館などでは政治的中立の理由で表現が規制されたり、大学キャンパスの立て看は美観を損ねるの理由で撤去されたりする社会では無理からぬことか。権威に対する風刺の精神が無ければ、市民社会は活力を失う。おもしろい行灯を期待して待つ。

 

 甲子園では第100回記念大会となる夏の高校野球が開幕した。その開会式のテレビ中継を見た。昨年の優勝校は埼玉の花咲徳栄だったことなどはとっくに忘れている。例年にない場面を目撃した。式の最中に給水時間が設けられてグランドで一斉に立ち飲みしている。また、夏の大会のバックネット裏席は、前売りの指定席という販売方法に今回から変った。

 皇太子夫妻が参列して、皇太子があいさつした。そのあとに文部科学大臣という。「いらない、いらない、とっととうせろ!」とおもわず声が出て、すぐにテレビを切った。なんとも醜い発作的な言葉に、これは本当に自分の声かと自己嫌悪に陥った。反省してスイッチを入れると、あいさつは終わっていた。選手宣誓をした近江の中尾主将はきっと聡明な青年にちがいない。

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*ひとりの生活

2018年08月02日 | 捨て猫の独り言

 ここ6年近く、私の8月はひとりの生活というパターンが続いている。計らずも私にとって貴重な時間になっている。シングルマザーの娘の女親は、7週間を日本の学校で過ごした二人の孫娘を送り届け、そのまま生活応援のためアトランタで暮らしてから帰国する。8月にあちらの学校では新学期が始まる。

 孫娘たちがいなくなって、しばらくして部屋の模様替えに取りかかる。表に「トランプ、かるた、おりがみ」と書かれた紙箱を見ると胸が詰まる思いがする。締め切った部屋でこっそり準備して、夕食後にマジックショーやゲームナイトにジジババを招待してくれた晩が何回かあった。

 アトランタ行きの荷物のあらゆる隙間に納豆パックが詰め込まれていた。あちらで納豆はそれほど安くないらしい。また保冷剤(クールパック)を持ってゆくという。暑さしのぎにハンカチで包んで首に巻くためだ。あちらの物は大きすぎてそれ用に使えない。(鹿児島市の仙厳園にて・カノコユリ)

 

 三人を成田で見送った翌日、慶事のために台風12号を道連れに鹿児島行き、3泊して無人の家に帰った。これまで収穫が多かった庭のキュウリは、大きくなり過ぎた3本を最後に引き抜いた。トマト、ニガウリ、ピーマンはこれからいいペースで収穫できそうだ。冷蔵庫を空にするのが私の8月の楽しみの一つになっている。

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