玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*賀状

2021年12月30日 | 捨て猫の独り言

 年内に年賀状を書くことを断念した。そして年頭に受け取った二十枚弱の2021年の年賀状を見直している。その中に同年齢の知人から「この度年賀状作成を千秋楽と決めました」というのものがあった。書道家としての職業柄かなりの数の賀状を毎年作成していたのだろう。几帳面なお人柄を思い起こした。

 昨年なにを思ったか、二十数年前にグル一プでハンガリー旅行したH氏に何年かぶりに賀状を出した。それに対して「二首とも生活哲学的なものでおもしろいと思います。小生らは今年三月に八十路を歩み始めます。またお会いしたいものです」という賀状が届いた。私の短歌作りはあの刹那だけだったことが、この賀状によって思い出され、継続できないことの自己反省をしたのだった。(ハンガリー旅行アルバムから)

 

 話は前後するが、11月30日に八丈島の旅行から帰ってみるとつぎのような喪中の葉書が届いていた。「夫 ○○が7月7日に八十歳で永眠いたしました」という文面である。Y氏の奥様からで、葉書が投函されたの日付を見ると11月26日となっている。久しぶりにY氏との賀状交換がなければ奥様からの連絡の葉書を受け取れていたかどうかわからない。

 

 わずかな枚数なのだが、賀状を書く意欲が年々失われている。今回は届いた賀状に、年明けに返事をさし上げることにした。いつのまにやらそういう事態に追いこまれている。そしてなぜか八丈島のホテルの浴槽の中から二日続けて見た日の出の神々しさを思い出している。そして負け惜しみ承知でつぶやく、「太陽は毎日昇る」と。

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*庭木の剪定

2021年12月27日 | 捨て猫の独り言

 植木屋さんにツゲの生垣をひとまわり金属の支柱で補強してもらったことがある。道路側にせり出すのを防ぐためだ。ツゲは年月を経て、枯れる枝が生じてその部分を除去することが多くなり、あちこちに隙間ができて通行人の姿がよく見えるようになった。(冬景色・ビワの花)

 

 今年の庭木の自己流剪定の手始めはウメだった。思い切って太い枝を切り落とし樹形が全体の三分の二ぐらいになるほどに仕立てた。幹に空洞を抱えるウメだが春になれば花を咲かせてくれるだろう。クロガネモチは赤い実の周りの葉を残して、ほとんどの枝をはらった。今でもヒヨドリが実を食べに飛来する。

 クロガネモチは幹の直径が13㎝近くあり庭で一番の大木だ。先端部分も同じ太さの寸胴型である。これまで先端を30㎝ほど2回チェーンソーで切り落とした。素人の剪定だから美しさからはほど遠い樹形になっている。近いうち、最終的には高さをさらにあと50㎝は低くするつもりだ。

 師走になると「サルスベリの枝落とし」は必ず行う。住人が年をとるにつれてそこの庭木の高さは低くあるべきだということで、今年は二本のハナミズキの剪定にも手をつけた。ウメほどではないが少し小ぶりになった。戦線は拡大しカキの木の剪定にも及んだ。そのため来年のカキの収穫は少なくなることが考えられる。

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*死生観

2021年12月23日 | 捨て猫の独り言

 宗教学者であり作家でもあるという島田裕巳氏の「無知の死」を読んだ。深刻なテーマの割には気軽に読めた。「戦乱、災害、飢饉、疾病の流行などに見舞われた中世と比べ、高度経済成長で豊かで安定した生活が可能な社会では、死後に極楽往生することを強く願う必要はない」として、まず死生観も変化することが強調される。(写真はNHKこころ旅より)

 

「平均寿命が短い時代には、あまり先のことは考えないで死ぬまで生きようとする。つまり死ぬまで生きればいいのだと思いきることができた。超長寿社会においては、そんなに人生が長く続かなくてもいいと思っても、長すぎる人生をどうしたらいいのか考えざるを得ない。誰か頃合いを見て、自分を死なせてくれないだろうか。そういう願望を抱く人も出てくる」

 この件では、自分の普段の思いをずばり言い当てられた気がして思わず独り笑いしてしまった。また「生きていることが仕事だ」の名言もあった。それはつぎのような訳だ。「生きている限り年金が入る。それは自分のためにも使われるし、家族のためにも使われる。そして金銭を使えば、それは誰かの手に渡るわけで、その形は仕事していた現役のときと変わらない」

 そして著者はつぎのような提言をしている。「今の社会は高齢者が増え、そのことが下の世代を圧迫している。一歩身を引いて考える姿勢を保ち続ける必要がある。それは出家や隠居といったあり方に通じる。年を重ねてくれば、世の中から一歩身を引き、そこから物事を見ていくべきなのだ。これがストレス軽減といったことにも結びつくことは間違いない」

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*南コースを歩く

2021年12月20日 | 玉川上水の四季

 できるだけ週に一度は一万歩以上歩くことを心がける。旧式の登山靴で歩く。ふだんのべったら靴と違って確かな足応えがあり、気が引き締まる。中身が水道水のペットボトルとささやかながら2キロの重しの入ったリュックを背負う。最近は特段意識することなく、伊能忠敬(江戸人)の歩き方「ナンバ歩き」になっている。

 南のコースは国分寺市内の「新府中街道」の予定地を横切る。住宅が撤去され電柱が林立するのが見える。新府中街道とは府中市から小平市の小川町交差点まで全長8キロの4車線道路だ。府中市からJR中央線を国分寺陸橋で越した地点まで完成している。府中街道とせまい間隔で並行して走る道路だ。新は関戸橋を旧は是政橋で多摩川を渡り、どちらも川崎街道につながっている。

 南の国分寺市にくらべて北の小平市は用地買収など難航している。いつの完成になるか誰にも分からない。てくてく歩いて武蔵野線の西国分寺駅の横を、東西に走る中央線の陸橋を越えると武蔵国分寺公園だ。広々とした円形広場では保育園児たちをよく見かける。国分寺崖線を下ると湧水の里に出る。その崖線に沿った散歩道が「お鷹の道」だ。

 

 国分寺駅に出ると、北口に広々した空間に交通広場が今年の1月に完成して各バス会社が乗り入れている。その地下にある3000台収容で2時間無料の自転車置き場ができている。自宅に向かって玉川上水を歩いていると大きなキャンパスを前に冬木立を写生している鈴木さんに出会った。集中を邪魔しないよう、声をかけずにその場を立ち去ることにした。この日は16000歩といつもより多く歩いていた。

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*黄八丈

2021年12月16日 | 捨て猫の独り言

 「ヤア~沖で見たときゃ 鬼島と見たが 来てみりゃ八丈は 情け島(ショメ ショメ)」はやし言葉のショメは「塩梅(しおうめ)」か「潮目(しおめ)」の説がある。島にはいつも海の彼方から何者かが訪れる。薩摩からの流人が焼酎の作り方を持ち込んだという。夕食では二晩とも地元の焼酎「情け島」をいただいた。

 

 島の絹織物は中世の頃から有名で、米の代わりの年貢とされてきた。そこで「八丈絹」を生産する島だから「八丈島」となったようだ。八丈は長さの単位で、和服二着分(二反)は布8丈(約24m)だ。織物のそれぞれの産地で美濃八丈,尾張八丈、秋田八丈など呼ばれている。養蚕も遠い遠い昔、島に流れ着いた者によって伝えられたという。

 黄八丈の染元である「山下めゆ工房」を見学したとき、そこには日本民芸協会の「柳宗悦会長」から「山下めゆ」さんに贈られた表彰状が掲げられていた。1917年に山下め由さんが創業して、初代・め由さんの染の技術と、二代目・八百子さんの織の技術が結合して「山下家の黄八丈」が完成する。め由さんの孫の誉さんの妻・芙美子さんが三代目として引き継いでいる。

 

 黄色(コブナグサ)、樺色(タブノキ)、黒色(スダジイ)の三種類の染の行程を映像で説明していたのは誉さんの息子、つまり め由さんのひ孫だった。山下家の黄八丈は驚くほど高価なものだ。それだけの価値ありとみた。私は買い物するものとて何もなく、先ほどの表彰状を眺めていたら、三代目の芙美子さんと思われる方が声をかけてくださった。

 

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*政治とスポーツ

2021年12月13日 | 捨て猫の独り言

 安倍・菅政権が退場してテレビのニュース番組を見るのがいくらか苦痛ではなくなった。岸田首相は政治の何たるかを分かってくれる政治家と信じたい。それにしても本来なら塀の中にいるべき人物がいまだに自民党内で淫靡な権力を振るっている様子を見るにつけ気分は完全には晴れることはない。

 これまで私は「政治は自民党これ日本の常識!」と茶々を入れることがあったが、安倍・菅政権以降は口にできなくなった。自民党の政治の劣化が目に余るからだ。森友・加計学園問題とか桜を見る会とか日本学術会議の任命拒否など放置されたままだ。自民党のためにも、私たちは批判を控えるべきではない。(写真は八丈島にて)

 

 それにくらべて、近ごろのOlympicを除けばスポーツの世界は親しみやすい世界だ。今年は大谷翔平の活躍がスポーツ界の大事件だった。これほどの活躍を予想した人は多くはなかった。大谷は野球を通して多くの人々の心をつかんだ。野球といえば離島の大島高校が出場する来春の選抜高校野球が今から待ち遠しい。

 大相撲の照ノ富士の活躍もあった。照ノ富士は「張り手」や「かちあげ」などは使わない。本人は「自分には横綱相撲というのは分からない」と謙虚だが、「まず受けようと思った」とも発言していた。これこそ横綱相撲というものだ。攻めさせて受け止める勝ち方をこれからも続けて欲しい。  

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*亜熱帯の八丈島

2021年12月09日 | 捨て猫の独り言

 八丈島は二つの火山が接合した火山島だ。西に伊豆諸島最高峰の八丈富士(854m)があり、東の三原山(701m)に挟まれた低地に飛行場がある。八丈では米は採れない。佐渡ヶ島は隆起によってできた島で北の大佐渡山地(1172m)、南の小佐渡山地に挟まれた平野はトキの棲む穀倉地帯だった。二つの山塊に挟まれた地形を持つという類似性を感じた。規模では面積において佐渡は八丈の12.4倍、人口は7.3倍もある。八丈の外国人登録者数は103人という。

 1960年代当時は、海外旅行は敷居が高く、沖縄はアメリカ軍統治下にあった。そこで八丈島は「日本のハワイ」として新婚旅行のメッカだったという。その頃に建てられた三つの巨大ホテルが廃墟としてそのまま残っていた。なんでも面白がるガイドさんはスマホで撮ったその廃墟の内部の写真をちらりと見せてくれたりした。(キョン、ストレリチア、ヘゴシダ)

 

 空港にはキダチアロエがぎっしりと植えられ、ところどころ道路にはヤシの並木が続き、町の花である「ストレリチア(極楽鳥花)」をあちこちで見かけた。初日の植物園ではタイワンキョン(小鹿)にゴムの木の葉をちぎって与えたり、最終日にはヘゴシダの繁るジャングルのような場所にも訪れた。そんなわけで八丈島は亜熱帯と呼ぶにふさわしいと思った。

 

 車窓からは、いつも八丈小島が見えていたような印象がある。八丈小島は海岸線が急斜面のピラミット状の島で、船の係留は不可能である。そして1969年に24世帯91人が島を離れ無人島になった。当時「全国初の全島民完全移住」として注目されたという。旅行前に、移住のため絶壁から転がすように家財道具を船に積み込む様子をとらえた貴重な映像をテレビで見る機会があった。それはさておき八丈島にも縄文時代から人が住んでいたという。(つづく) 

  

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*八丈島へ

2021年12月06日 | 捨て猫の独り言

 月末の二泊三日の八丈島旅行は好天に恵まれた。何といっても旅には、よいお天気が一番の贈り物だ。これまで使い慣れた「伊豆七島」という語句は江戸時代からの呼び名で、明治以降に式根島と青ヶ島にも人が定住して、今では「伊豆諸島」と呼ぶのがよろしいようだ。

 羽田を12:10に出て55分の飛行で八丈空港に到着する。165の座席は乗客でほぼ埋まっていた。帰りは八丈発13:40で、のんびり出発のんびり帰着は体への負担は少ない。旅のキャッチコピーに「亜熱帯の楽園」とあるが、八丈町は大分市とほぼ同じ緯度(北緯33度)である。

 はたしてどの程度の亜熱帯ぶりなのか興味があった。飛び立って間もなく海面には、小笠原諸島にある活火山から吹き出された、今話題の「軽石」が幾筋もの糸状になって一面に広がっているのが確認できた。機内にまもなくして着陸態勢とのアナウンスが流れた。

 

 飛行機は高度を下げて左に旋回しながら滑走路を目指す。斜め下に八丈富士と八丈小島がくっきりと見えた。初日は町営の観光バスの若い活気あるガイドさんの案内で都立八丈植物公園、宇喜多秀家の墓所、八丈富士一周。二日目は八丈富士の中腹にある牧場、島寿司の昼食、途中下車して温泉入浴、黄八丈の染元。最終日は八丈太鼓などなどの旅程だった。(つづく)

 

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*神仏混淆

2021年12月02日 | 捨て猫の独り言

 庭の木々はすっかり葉を落とし、ヒガンバナ科のネリネの薄紅の花が風にゆれている。再び五木寛之と釈徹宗の「70歳!人と社会の老いの作法」を別の角度から取り上げてみる。興味深く読んだのは「神道と仏教」であり、ほとんど釈氏の解説の要約となった。(ネリネ)

 

 釈氏は宗教学者であり、浄土真宗の住職でもある。「日本各地にあった地域共同体の宗教が、仏教の来訪によって刺激を受けて整備されて神道が生れた。そういう意味では仏教と神道は双子状態から歩み始めたと言えます」

 「情緒的な存在と理性的な存在との組み合わせが、なぜか日本人の宗教心にぴったり合うのです。どちらにも重心があって、主ー従や中心ー周縁の構図でもなく支配と被支配でもない。二つの中心を持つ楕円構造です」

 「日本の場合、例の<西に落ちる夕日と、帰る世界>という日本に古来からあった宗教的心性と見事にフイットしたのが浄土教だったのではないか。それで日本仏教ともいうべき情緒連綿たるウエットな仏教が発達した。聞いたところによると、こんなに夕日を愛する文化圏はなかなかないそうですよ」

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