玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*死語ではなかった

2020年06月29日 | 捨て猫の独り言

 「夜郎自大」という言葉は聞いたことはあったが、その意味をはっきり理解していたわけではなかった。そこで辞書を引いてみた。「自分の力量も知らず、仲間の間で羽振りをきかすたとえ。うぬぼれ」とあった。司馬遷の史記にあるという。同じ辞書の「夜郎」の項には「漢時代、中国西南部の部族名。漢王朝の強大なのも知らず、自らの威力をほこったという」とある。(ミケランジェロ・システィナ礼拝堂・アダムの創造)

 

 朝日新聞の編集委員である高橋純子氏(1971年生まれ)の名は覚えてしまった。「寝言は寝て言え」などインパクトのある文句を駆使して大胆かつ明解な物言いをする。とまどいを感じる人がいるかもしれないが、私は愛読している。6月24日の「多事奏論」の見出しは「《うちの》国じゃないのでね」だった。ぜひ紹介したい。まず登場するのは、失政失言暴言を重ねようともいつまでも副総理の、黒い中折れ帽のあの御仁である。「うちの」に違和感あり。

 「お宅とうちの国とは、国民の民度のレベルが違うんだ」と言って、みんな絶句して黙る。

 これは、終生偏屈を通した男が残した、人間の愚かさをうつした詩の一節である。冒頭の夜郎自大すぎる、したり顔の国会答弁から「黙る」に至る、騒から静への見事な展開とそのスピード。「咳をしても一人」(尾崎放哉)に通じる、肌に痛いほどの静寂と孤立が浮かび上がる。しかも「黙る」は複層的で、皆はあきれて言葉を継げずに黙っている、他方、当人は「黙らせてやった」ぐらいに思っている。滑稽である。みじめである。それでも、このどうしようもない「ズレ」こそが、生きるということの本質だ・・・なんて、適当なことを並べて戯れている外は雨。マスクをしても一人。(紙面の都合で、以下略)

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*「草枕」を読む

2020年06月25日 | 捨て猫の独り言

 本棚に河出書房新社の文芸読本漱石Ⅰ・Ⅱがある。それには多くの作家の漱石に関する評論と、作品は「草枕」「夢十夜」そして「こころ」が載っていた。草枕の「山道を登りながら、かう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される」の最初のあたりを読んで、途中で放り出した遠い記憶がある。これまで積極的に漱石を読むことはなかった。ふとしたことで、その草枕を読んでみる気になった。(再び北山公園にて)

 

 原文なので漢和辞典を横において読む。画工である余が「非人情」なる旅をして山の温泉宿に逗留する。そこには那美という出戻りだが美しい女がいた。「余の此度の旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは悉く画として見なければならん。あの女は、今迄見た女のうちで尤もうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をしてみせると云う気がない丈に役者の所作よりも猶うつくしい」

 明治の年号と漱石の年齢は一致しているから便利だ。明治36年に旧制一高の学生藤村操は「厳頭之感」の遺書を残して華厳の滝に身を投げた。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年神経衰弱となった一因ともいわれる。草枕の中に「昔し厳頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた青年がある。余の視る所にては、彼の青年は美の一字の為に、捨つべからざる命を捨てたるものと思ふ」とある。

 漱石の漢詩や俳句は名高い。また漱石は落語も好んでいたと知る。草枕の中にも、落語の一席のような髪結床の親方とのやりとりが出てくる。そして小説の最終段では、余は出征する那美さんの甥を見送りに一緒に駅に向かう。甥には「死んでこい」というなど気丈な那美さんだが、同じ汽車の中に別れた夫のやつれた姿を見つけて那美さんは茫然として汽車を見送る。その茫然のうちに不思議にも余は今までかつて見たことのない「憐れ」を見出し「それだ!それだ!それが出れば画になります」と終わる。

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*テキスト最終章

2020年06月22日 | 捨て猫の独り言

 「禅宗と真宗はどこが違うのでしょう」「西田幾多郎はキリスト教と仏教との違いを分析しています。キリスト教はイエスが神でありながら人間になるという仕方で現実の世界との仲介をやっている。これは超越的なものが内在しているという立場だ。ところが仏教は自己を自覚する宗教である。自己の中に自己を超えたものを見つけるという内在的超越である。キリスト教の超越的内在は、とくに自然科学の考え方と調和しない」

 「なるほどね。仏教の内在的超越は、真宗において信仰になりますね」「その通りです。西田はさらに禅宗と真宗の共通点を見ているんです。禅宗の場合は見性という体験。それに対して浄土真宗の場合には、阿弥陀の本願によって罪悪深重の自分がそのままで救われるという信仰の立場です。これはちょっと表面だけ見ると、片方は自力で片方は他力で正反対に見えるけれど、自己が転換するという点では同じだというわけです」

 「普遍性というけど、それは仏教をどう考えるかによりますね。いったい仏教の何が普遍的かという」「一言でいえば色即是空。これは普遍の真理でしょう」「ぼくはやはり、自分というものの存在は、いろんなものの力であり得ているという当たり前の事実に注目しています。縁起という思想だけど、これはまず自分があって他人があるのではなくて、お互いに相依相対だという考えですよね。自己中心性という考えを破っているところが仏教の大きな特徴だと思います」「今の日本では、そうしたヨーロッパ思想の根底にある自己中心性を無自覚に取り込んでしまっていますね」

 「あらゆるものを考えてゆくときに神との関係が主軸になってくるわけです。自分の意志を主張するんじゃなくて神の意志に従うという、それが信仰だと考えます。しかしその場合には神の意志に従う自分の意志というものが最後まで残らざるを得ない。信仰は自己中心性を破る立場なんだけれども、そのこと自身が意志的に考えられている。このことが今ヨーロッパ人が一番苦しんでいることなんですね」

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*怒りのコントロール

2020年06月18日 | 捨て猫の独り言

 アトランタの孫はそれぞれ14歳と12歳になって、今でも姉妹で多少のけんかはすれども、以前と違って取っ組み合いのけんかになることはないようだ。昨年日本に残した姉の私物に「ANGERBOOK」と書かれたノートがあって、だいぶ成長したなと感心したものだ。つい最近だが「怒りで後悔しない」という新聞の連載記事を見つけて思わず切り抜いた。(庭にネジバナ出現)

 

 中国古典の菜根譚の「小過を責めず、陰私をあばかず、旧悪を思わず」を努力目標にしたことがある。それもいつのまにやら忘れている。亡き父はすこぶる温厚な人柄だった。私は一度も大きな声で怒鳴られたことがない。その父親に似ず、私は妻や子や孫に対して声を荒げた経験が何回かある。そのたびに後悔し反省した。若いころに家人から「瞬間湯沸かし器」の称号をもらったことがある。 

 記事は、アメリカ生まれの「アンガーマネージメント」というプログラムの紹介だった。菜根譚などと違ってかなり技術的な方法という印象だ。まず怒りは人間の自然な感情であること。そして怒りが生れる原因は自分の理想や願望や価値観つまり自分の「べき」にあること。そしてカッとなった時の対処法(6秒待つなど)、怒りにくい体質にする方法(怒りの記録をつけるなど)、正しい怒りの伝え方(私はこうしてほしいなど)を学び実践しようという。

  アンガーマネージメントのセミナーと仏教研究会のどちらに出席したいかと問われれば、私の場合やはり後者になる。この世のすべてのものは恒常的な実体はなく、縁起によって存在するという意味の「色即是空」に親しみを覚える。人間の欲の中で一番大きなもの、それは権力欲でしょうと養老孟子は述べる。自分の思うようにしたいということ、これは自分の「べき」と同じことで、これに対処するには仏教の教えの方がより有効に思える。

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*2階のSちゃん

2020年06月15日 | 捨て猫の独り言

 ひさしぶりに折り紙をやってみた。ツルはスムーズに折れたけれどユリは何度か後戻りしつつ、やっと最後までたどり着いた。まもなく玉川上水の土手にヤマユリが咲く。庭には鉄砲ユリと鬼ユリが順に咲く。キュウリが実りだした。我が家の2階で生まれて育った女の子のSちゃんは今年で小学1年生になった。

 昨年まで、この時期にはアトランタの孫娘たちが来日していた。それが今年からは中止である。昨年のこと、Sちゃんは1年生になったら我が家の孫と一緒に学校に行くんだとその母親に話していた。がっかりしたけど、今では事情を理解している。あわせて今回のコロナ騒ぎで、しばらく学校に行けなかったことは、Sちゃんにとって忘れられないできごとになった。

 Sちゃんの両親は近くにある家庭農園で野菜を育てている。ときどき夕方に家族で出かけて収穫する。そしてわが家にそのおすそ分けが届くことがある。2階のベランダから庭のキュウリがよく見える。今年からは孫に代わってSちゃんに、キュウリの収穫を手伝ってもらうことにした。そのうちゴーヤも実る。Sちゃん兄妹と孫たちの4人は、先日フェイスタイムで再会したようだ。

 

 11日の午前中に北山公園に出かけた。自転車で40分でたどり着く。小平市の北の東村山市にある市立の公園だ。都立八国山緑地のこんもりとした森と北川という小さな川に囲まれた低地にある。ときおり八国山緑地の麓を、東村山駅と西武園駅の1区間だけの西武園線の電車がのどかに走る。競輪場へ向かう客を運ぶ電車でもある。北山公園の6月の花菖蒲はこれで二度目だ。今年の秋はここの曼殊沙華も見たいと思った。 

 

 

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*テキスト第二章

2020年06月11日 | 捨て猫の独り言

 仏教についての池田氏と大峯氏の問答の要約をいくつか記すことにする。「仏さまはなにをもって善悪と言っているのか」「仏さまには善悪はないですね」「そうすると悪人往生なんてことも言う必要はないんじゃないですか」「いや、それは人間の善悪が仏さまの救済の妨げにならないということです」「ああ、そういうことの表現なんですね」「仏さまは衆生の善悪を問わない。善いものも悪いものも救う善とか悪とかは人間の意識だけにある」

 「すべての人に気づきの可能性があるという原理があくまでも成り立つわけですか」「信心というのは そうだったか、もう救われていたのか と気づくことです。救われないということに気づくことが、救われることに気づいたということと同時だというのが浄土真宗なんです(笑)」

 「人間なのに悪魔、魑魅魍魎みたいなこういう存在は何なんでしょう」「仏教では地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道の概念が衆生存在の可能性として言われているんです。つまり人間という存在は動揺性をもっていて絶えず輪郭が振動しているのです。人間というものの不気味さですね。そして仏教は人間をその根源から救済しようという教えなんです。人間を考える視野がどこよりもダイナミックなんです」

 「空という概念を、完全にからだでとらえているかというと、もうひとつわからない。どうも私は頭でっかちで」「空とは、人間の深い自覚の場のことだとはっきり言ったのは西谷啓治先生です。それまでは、空をどこか自分と別なものとして対象的に考えていたんです。花はどこに咲いているかと聞かれて、庭に咲いているとか、山に咲いているとかそんなんじゃダメなんです。花がほんとうに咲いているのはどこなのかといえば、それはすべてを許す広大無辺な解放空間の中に咲いている。自覚で初めてわかる。観察しているんじゃわからない」

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*非自民政権

2020年06月08日 | 捨て猫の独り言

 私が50歳のころまで、すなわち戦後50年は、「政治は自民党。これ日本の常識」といわれる時代が続いた。1993年の細川内閣誕生でひとまずピリオドが打たれる。明治維新は市民革命というより、江戸・上方文化の発達に対する没落武士階級の支配権獲得、反革命の匂いが強いとの見方がある。

 この見方では、今も民衆の中に根づよくのこる封建時代の遺物である「官尊民卑」の情感が選挙で自民党を勝たせている理由と見る。1991年のソ連邦解体のあとの細川内閣(263日)、翌年に羽田内閣(64日)が誕生するも短命に終わる。自民党は奇策に打って出て村山内閣(561日)を誕生させた後に、老獪に帰り咲く。

 この頃のことで私が注目するのは1997年に「日本会議」という保守主義・ナショナリスト団体が設立されたことだ。先の戦争は東アジアを解放するためで侵略ではない。謝罪外交をやめて国の誇りを取り戻すという歴史認識の団体である。それからしばらくのち2009年には鳩山由紀夫(266日)、菅直人(452日)、野田佳彦(482日)の民主党政権が登場するが4年もたずに退場した。

 私はアベ政治がこんなにも長く続いていることが不思議で仕方がない。アベ内閣の閣僚ポストの8割強を日本会議に関係する議員が占めていることは冷静に見てゆく必要がある。歴史修正主義者である日本の首相を東アジア各国が信頼できるはずがない。首相が北朝鮮との拉致問題の解決ができると考えた人はどこにもいないのではないか。横田滋さん死去の際の首相コメントも空虚にひびく。

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*テキスト第一章

2020年06月04日 | 捨て猫の独り言

 池田氏は「言葉が価値そのものだなんて言っても誰も理解しない」と嘆く。あるいは「人生とは言葉そのものだ」とも言う。大峯氏は「この世は功績でいっぱいだ。けれど、人はこの世で詩人として住んでいる」と歌うヘルダーリンを引用する。この大峯氏の実用性や有効性の次元とは違う「詩的言語」についての指摘が、私には先の池田氏の発言の意図を理解する助けになった。(花は近隣の庭先のニゲラ)

 

 フィヒテによれば哲学は二つしかない。「一つは唯物論でもう一つか観念論。突き詰めたら人間には自分は時空をはみ出しているという存在だという感受性を持っているか、自分とは時空の中の物体だと思っているか、この二種類しかない」それに反応して池田氏は「私はその二種類を、詩人であるか詩人でないかという仕方で分けました」と言う。

 「現実世界といったって、現実世界というものだけがあるんじゃなくて、それを超えたものもある」「そうです。だって、そちらがなければこちらもないわけですから(笑)」「変わらないものがあってはじめて、変わるというものがあり得るという正しい考えを持っている人は昔も多くなかったと思う」これらの言葉は私を一歩前進させてくれる。つぎもそうだ。「ただ有限だけということはあり得ない。無限がないと有限なんてわからない」

 「私の中に無限があると言ってもいいし、無限の中に私があると言ってもいい」「内が外であり、外が内ですからね。これはぐるぐる裏返るものですからね(メビウスの帯)」「よく考えると無限というのはこの瞬間なんですね」「人間はどこで永遠に出会うかと言ったら、この信心の瞬間だ。この真理を世界の宗教思想家の中で最も端的に言った人は親鸞聖人という人だと思います」

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*ことばの吟味

2020年06月01日 | 捨て猫の独り言

 私の場合、文字を読むのはネットよりも本や新聞で読む方が多いだろう。映像を見たいなら断然ネットだ。ネットはまず自分になにか関心があって、そのあとで開くことになるが、本や新聞は向こうから不意に私たちに問いかけてくる。視野を広げる機会は、やはり本や新聞の方が多い。(緑道で見かけた掲示)

 

 若き倫理学者の「新しい状況と新しい言葉」という投稿(5月20日朝日の夕刊)を読んだ。耳慣れない言葉をなじみの言葉に安易に置き換えるのはやめよう。どのような言葉がその状況にしっくりくるか私たち自身で吟味しようと提案している。「濃厚接触」や「社会的距離」もかなりミスリーディングだとして、後者は「対人距離」が適当でないかと記している。

 東京都広報6月号のトップ記事「みんなで守ろう いのちと暮らし」はよくできていた。第1波と第2波の予想される推移が波線グラフで示されている。緩和・再要請を判断する際に用いるモニタリング(監視体制)指標である7項目が列挙してある。「社会的距離」の文字はなく「人との距離の確保」にご協力をとある。

 密閉、密集、密接の「密接」について東京都広報は「近距離での密接した会話」と解説している。これをヒントに英語では close contact という疫学上の専門用語である「濃厚接触」を「近距離会話」と考えたが、どうもしっくりこない。さらにロックダウンもそれぞれの国で内実は異なるのだから日本語に置き換えるのは難しい。言葉の吟味もなかなか大変である。

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