玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*いろいろなこと

2023年02月27日 | 捨て猫の独り言

 シイタケ菌床の収穫は順調だった。傘が黒くて大きなきのこがつぎつぎに発生して、1回につき8個ほどを3回続けて収獲すると小休止となった。1週間ほど経過してつぎの発生が始まった。傘は白っぽくやや貧相になった。それでも数は前と同じくらい収穫があった。

  

 2月19日の朝日歌壇に(垂水市)岩元秀人の名をみつけた。もちろん選者は永田和宏だ。「ゆびというさびしきものをわがもてば硝子のコップに朝の水飲む」どのような心境を詠んだものだかいろいろなことが想像された。澄み切った諦観のようなものだろうか。

 この1月から、ラジオ体操の担当が1967年生まれの多胡肇が去って若い鈴木大輔と岡本美佳の2人体制になった。その事情をネットで調べてみたが知ることができなかった。普通ならば去就についての挨拶なり、説明があるはずだ。ちょっと気になることではある。

 経済学者の成田悠輔氏が急激に進む日本の高齢化社会の対処方法について唯一の解決策として「高齢者の集団自殺」と発言したことが世界中に拡散した。養老先生は、今という断面で考えれば不満はいくらでも出てくる。ものごとは長いスパンで考えるべきで、この世は順送りであることを忘れるべきでないと答えていた。

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*思い出

2023年02月23日 | 捨て猫の独り言

 家の中のものを整理していると二人の子供たちが幼かったころのものが出てきた。小学生や中学生の頃の図画工作や書道の作品である。壁面の一角にコーナーを設け、出来がよくて処分しきれずに残った絵などを部屋飾りとして楽しむことにした。

 家の中には世界的に有名な画家の複製も飾ってあるが、子供のものは世界に一つだけの作品というわけだ。いくつか保存したので、ときどき取り換えることにしよう。今では子供たちはそれぞれ忙しくてこの育ったこの家に帰ってくることは、まれである。この感傷的な行為はいささか気恥ずかしいことではある。

 最初に飾ったのは長男が小学6年の時の水彩画「消防車」だ。つぎは長女の版画でも飾ろう。二人の子供は小学生ときに日記をつけていた。もう40年近くも経過したので覗き見しても許されるだろう。長男の方は日記の習慣が続いたようで、小さな文字でぎっしりと書きこんだ浪人、大学時代の手のひらサイズの手帳も出てきた。暇な折に少しずつ読むことにする。

 

 ある医院の待合室の掲示板に、共感する記事があったのでメモしておいた。人は死んでどうなるのかという問いかけに対して「人は死んだらみんな”思い出”になる」と答えたという。「あの世はどんなとこだろうね」と話し合っていたら、一人の認知症のおばあさんが「どうもいいところらしいよ・・・・誰も帰ってこないから」

 

 

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*宿無し弘文③

2023年02月20日 | 捨て猫の独り言

 弘文の弟子たちの証言を見てみよう。①迷える人は無数にいるが、すべての人を助けたいと願う、つまるところ僧侶とは誓願だと言いますが、弘文はまさに”誓願の人”でいた。②「みんなは、禅は瞑想だと思っている、でも、そうじゃない。禅とは掃き清めることなんだ」私はこれを、禅とは時空間を整え、物事をできる限りシンプルに保つことと理解しています。

 ③禅イコール試練、自分はどこまで耐えられるか、それに挑戦するというような捉え方をしてまいました。そんな僕に弘文はひと言「エンジョイ禅」と言ったのです。④弘文はリベラルで、ちょっと風来坊。ヒッピー的人間には理想的な師でした。それに多分に天然ボケで完璧からは遠い人だった。⑤弘文の説法は長い間とスローモーで有名でした。間が始まると、いつ話が再開するかわからないのだから聴いてるこちらも大変です。

 ⑥弘文は精神的な賢者であるかたわら、未熟な少年でした。約束をすっぽかす、お酒にだらしない、お金にもルーズ。⑦大好きだったな弘文のこと。物静かな中にもカリスマ性のある本物の僧侶でしたよ、あの人は。まぎれもなく僧になるべく生を享けた人です。⑧弘文は女性に対していつも受け身でした。「女が男を選ぶ、男は女を選ばない」とも語っていたし、女性の直観力や決断力には常に一目置いてもいました。

 ⑨ヨーロッパにおける従来の禅のイメージって完全にマッチョだったんですよ。厳格で軍隊ぽくってビシバシって感じ。反対に弘文はフェミニンでフレキシブル、包み込むようなスタイルだったので親しみを抱いたひとが多かったですね。思えば弘文はほかの日本人禅僧と異なり、西洋哲学と比較しながら禅を語ることができました。⑩弘文は無口で他人のことはめったに話さず、目の前に起きている事象だけを語る人だった。ある時「世の中で一番大事な事は?」と尋ねたら「この世にいることに敬意を抱くこと」と答えたことが忘れられない。

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*白寿のお祝い

2023年02月16日 | 捨て猫の独り言

 母は1924年(大正13)生まれで、この1月31日で99歳になった。長男である私を含めて男2人女2人の4人の子を産み育てた。長女が介護のため単身千葉から鹿児島に出向いて、現在母娘の二人で暮らしている。母は一時期施設に入ったこともあったが、自宅での生活を望み、長女の献身がそれを可能にした。

 父は1917年(大正6)生まれで私が完全退職した年の2010年に93歳でこの世を去った。亡くなる歳の8月に、アメリカに住む父の二人の曾孫とその母親、そして私の4人は鹿児島を訪問し、楽しく歓談した。ところが私たちが帰ったその翌日に父が倒れたという知らせが東京に届いた。予想できない突然の死だった。

 

 私がここ2年以上も鹿児島に帰らずにいる間に、母は白寿の祝いを迎えた。鹿児島では弟と二人の妹、あと近しい人たち総勢9人が集まり母の白寿の祝いを城山ホテルでひらいたという。妹から「百寿のときは盛大にやりましょう」と私へのいたわりの言葉と同時に白い帽子の母を囲んだ記念写真が届いた。

 昔から「親より先に死ぬことは親不孝」と言い伝えられてきた。人の寿命など分からないのだから、これは若者に対する自死の戒めなのだろう。親子の縁で生死の順番が逆になることを「逆縁」という。私たち子供の間では最近「親より先に逝かないように心がけよう」というのがとりあえずの合言葉になっている。

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*日の出町の大仏

2023年02月13日 | 捨て猫の独り言

 無性に、のどかな田舎道を歩きたくなった。あいにくの曇り空ではあったがひさしぶりに電車で遠出した。行先は前々から一度はお参りしたいと思っていた日の出町の「大仏さま」である。日の出町といえば日の出山荘、それにごみの最終処分場が思い浮かぶ。

 日の出山荘は中曾根がレーガンを招いて、現在は日米首脳会談記念館となっている。ここにはゴルバチョフも訪れている。日の出町は多摩地区25市1町のごみの最終処分を引き受ける。谷戸沢はすでに埋め立てが終了しビオトープ、貯水池、サッカー場などが整備されている。同じ日の出町の二ッ塚処分場もいずれ限界を迎える。

 1995年に秋川市と五日市町が合併してあきる野市が誕生した。五日市線の武蔵引田駅はあきる野市にある。駅の南が、あきる野市の「引田」で駅のすぐ北は、日の出町の「平井」だった。その平井の宝光寺に2018年に完成したのが「鹿野(ろくや)大仏」だ。高さ12m、座仏としては鎌倉大仏をしのぐという。

 

 寺の横の坂道を登り、駐車場から山の中腹を見上げると大仏さまの姿が見えた。大仏胎内を含む拝観料は300円。大仏さまの足元からの見晴らしがよい。この季節のこのお天気だから私たちのほかには大仏さまを訪れる人は見当たらず、ときおり墓参りの人の姿があるだけだ。武蔵引田駅の近くにある巨大なイオンモールに驚く。

 

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*ピアノの搬出

2023年02月09日 | 捨て猫の独り言

 子供たちが幼かったころに、祖父母が贈ってくれたピアノがある。親はピアノが弾けず、二人の子供は屋外で体を動かしている方が好きな性分だったので、ピアノのレッスンに通ったのは小学校の低学年までだった。

 ピアノは2階の部屋に鎮座して、弾かれることもなく数えきれないほどの年月が経過してしまった。贈り物だったことで、処分を躊躇したのかもしれない。このような運命のピアノは全国的にも数多くあると思われる。

 

 我が家の断捨離作業が最終局面を迎えて、ついにピアノを処分することになった。買取ビジネスは最近とくに盛況のようだ。ピアノ買取サイトに問い合わせてみた。「大変申し訳ないのですが、お客様のピアノは弊社では買い取り対象外の機種となっております。お引き取りさせていただく場合は、引き取り作業費をご負担して頂くかたちになります」

  

 その引き取り作業費というのが、業者によってかなりのバラツキがあることを知って驚いた。解体して運び出すしかないというピアノ専門でない業者もいた。1.5万と4.4万という二つのビアノ専門業者に出会い、さっさと前者に決めてピアノは搬出された。 

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*宿無し弘文②

2023年02月06日 | 捨て猫の独り言

 弘文は要請を受けて1967年に横浜港を出発し、ヒッピー発祥の地サンフランシスコを経てカリフォルニア州の奥地のタサハラに着く。アメリカは1965年に北爆を開始し、戦争は1973年まで続いた。ベトナム反戦運動や公民権運動を中心とする反体制運動が生まれ、若者たちは親の世代と異なる価値観を見いだそうと必死だった。

 アメリカの若者たちはヒンドゥー教、ヨガ、マインド・クリーニング、禅などの、あらゆる方法で精神世界を探求しようとしていた。なかでも「禅はクール!」と受け止められて、日本からやって来た禅僧の袈裟や所作など、何から何までカッコよく映ったようだ。そこでは東洋から渡ってきた禅僧たちは一種のアイドルだった。

 日本とは異質の文化のただ中に飛び込んだ弘文が悩まないはずはない。渡米した年に、弘文がタサハラの山小屋に一カ月間引き籠るという事が起きた。この事件について著者はエピローグでつぎのように書く。「日本の禅や、自我をも捨てて、アメリカの風塵に全身全霊を捧げ、任せる。これが弘文が山小屋でひとり、煩悶の果てに導き出した答えだった」

 弘文は32歳でハリエットと結婚をして長男・泰道と長女・よしこが誕生し46歳で離婚が成立。ドイツ人のキャトリンと2度目の結婚で第一子・タツコ(弘文57歳)、第二子摩耶(59歳)、第三子・アリョーシャ(61歳)が誕生。著者が苦労のすえやっと会うことができたタツコはつぎのように語る。「母は父の弟子たちに対してよい感情をもっていません。父が門弟を家族よりも大事にしたことや、彼らが父を神聖視したことに反感を抱いているようです。いくら弟子たちが崇め奉ろうと、家にいるのは酒びたりの人なのですから、母の気持ちもわかろうというものです。父の前妻のハリエットさんも同じようなことをいっていましたね」

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*宿無し弘文①

2023年02月02日 | 捨て猫の独り言

 ひさしぶりにワクワクしながら読んだ本がある。それは図書館の新刊本コーナーにあった。新潮文庫の「宿無し弘文」で、著者の柳田由紀子が八年の歳月をかけて禅僧・乙川弘文の関係者を追跡取材して生まれたノンフィクションだ。著者は米国人の夫とロサンゼルス郊外に暮らす。

 乙川弘文は1938年に新潟県加茂市にある曹洞宗・定光寺住職の三男として生まれる。13歳で得度して、加茂高校の頃に澤木興道の座禅会に参加、駒澤大学卒業後に京都大学大学院文学研究科に進み仏教学を専攻。毎月洛北の澤木興道の座禅会(安泰寺)に通う。この頃弓道を習い始める。27歳のとき永平寺に上山、修行僧に。

 京都時代は京大の近く、吉田神社のあたりに下宿し、西洋哲学や釈迦や道元との格闘の日々だったという。師と仰ぐ澤木興道は「宿無し興道」とか「移動式叢林」などと自称し、生涯独身で、座禅指導に招かれれば全国どこへでも行くというスタイルを貫いた高僧だった。弘文は禅僧としてエリートコースを順調に歩んだ。

 自分の青年期と比較するのも愚かしいことであるが、弘文のようになにかを成し遂げる人格が作り上げられるには、このように恵まれた境遇が必要なのだろうかと妬ましい気持ちになる。果たして弘文は何を成し遂げたのか。29歳のとき永平寺の弘文に、アメリカ西海岸に禅の種を蒔き育てた禅僧・鈴木俊隆老師から渡米依頼のエアメールが届く。

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