玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*物語性

2014年02月24日 | 無断転載

 近くの路地にはいまだに雪が残っている。先の大雪の重みでビニールハウスが押しつぶされ、関東甲信地方では農家に甚大な被害が出た。もはや農業を続けられないかもしれないという深刻な話もある。農家の方々の無念さを想像しながら身勝手ながら続けて欲しいと祈る気持ちになる。しばらくは私たち消費者に届く大地の恵みの量が少ない状態が続きそうだ。

 今日の毎日新聞の短歌月評は歌人の大辻隆弘氏の<「物語」の影>と題する記事だった。長い引用を恐縮しつつ以下に記録しておきたい。

 《佐村河内守氏の作品が代作であったことが発覚して、話題となっている。被爆二世という出自。全聾という障害。困難な背景を背負いながら広島に捧げる作品を作曲する、という彼の「物語」は人々を感動させた。それが代作であったことに、人々は今、困惑している。音楽作品は、本来、そのもの自体において評価されるべきものである。が、聴衆は、作品の背後にある「物語」に感動し、そこから作品を評価してしまう。作品と「物語」を峻別することはきわめて困難だ。今回の事象は、そのことを改めて教えてくれた。短歌も同様である。短詩形である短歌は作者の情報とともに読まれがちだ。難病・障害・被爆・被災といった「物語」が、作品の評価を決める場合は多い》

 このあと、これは「物語」を拒絶したものであるとして一つの作品集が紹介される。しかし現実には「解説」と「あとがき」で作者の職業と、阪神大震災によって心の傷を負ったことが明らかにされているとある。潔癖なこの歌集にさえ、「物語」の影は張り付いていると結んでいる。私もNHKが放映した佐村河内守氏の番組をDVDに録画したが、しばらくは破棄しないでおくことにする。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*人と人のつながり

2014年02月17日 | 捨て猫の独り言

001

 関東地方の二月の雪はこれで三度目だ。いずれも大雪で家の前の除雪作業に追われた。幹線道路で立ち往生する車が見られるのも珍しいことである。さらに明後日の19日も最高気温3℃で雪になるの予報である。近年にない雪の当たり年となった。昨日の日曜日に庭の中のあり余る雪をかきあげて小山を作り、通路を作った。これに気付いた近くの幼児二人が庭に来て長い時間遊んでいた。幼児の目には小山はすべり台であり、通路は雪の回廊だ

008

 つれあいが彼女の兄と久しぶりに郷里の言葉で電話で話しているのを耳にした。話の内容は忘れたが、ふと我が身をふりかえることになった。彼女に郷里の言葉がよみがえるのを耳にしていると、会話の外にいる私を複雑な思いが襲った。彼女は私と夫婦として過ごした時間の方が彼女の兄弟たちと過ごした時間よりはるかに長い。過ごした時間の長短など全く無意味である。その時に私を襲ったのは余所者感とでも言うべきか。あるいは夫婦は他人同士だと気付いた言うべきか。生活を詠んだ歌「嫁にして 余所者にして 末席に汁をすすれば掌(て)にあたたかし(今井恵子)」はよくわかる。

005

 人はいろいろな関係性の中で生活している。友人関係、仕事関係と家族関係などである。女性を中心に家族関係を考えれば、兄弟姉妹、夫、子供、孫がある。たしかに夫婦関係だけは血縁がない。ことわざ辞典を久しぶりにひらいてみた。「夫婦は他人の集まり」の説明には「夫婦はもともと他人同士であったのだから、気心が合わず不和になったり、離婚したりすることもあるということ」と悲観主義的解釈である。夫婦関係で思い出す歌がある。南日本新聞歌壇のつぎの投稿歌を、永田和宏はあちこちで紹介する。「逝きし夫(つま)の バッグの中に残りいし 二つ穴あくテレフォンカード(玉利順子)」

004

 まぎらわしいのに「兄弟は他人の始まり」がある。「兄弟は子供のうちは最も身近で仲が良いが、成人して家庭を持つようになると妻子への愛にひかれたり、利害の対立が生じたりして、兄弟間の肉親の情はしだいに薄らぎ、疎遠になり、ついには他人のようになっていくという人間の真実を言ったもの」とある。ここで「姉妹は他人の始まり」でないことはそれほど重大ではないのだろう。幸いなことに私はこのことわざから免れている。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*強さの秘密

2014年02月10日 | 捨て猫の独り言

013

 年間を通して東京に雪が降ることは思いのほか少ない。4日の立春の雪に続いて8日の雪に小さな子供たちは大喜びである。深く積った雪に身を投げ出してその感触を味わっている子もいる。しかしその楽しみはながくは続かない。なぜか大人たちは競うように各家のまわりの雪を道端に片付けてしまうからだ。

018

 雪の翌日の日曜の朝、玉川上水沿いに踏み固められてできた細い雪道を一列になって黙々と歩いていく若者たちがいた。武蔵美の受験生たちだ。実技試験用の道具を詰め込んだキャリーバッグを引きずっている者もいる。うしろを行く身軽な者が前をなかなか追い越せないでいる。

020

 月刊誌「NHKテレビテキスト囲碁講座」の別冊付録に「井山祐太のはじめて覚える囲碁用語」があることを最近知った。連載は昨年の4月号から始まっている。井山祐太は若くして囲碁界の第一人者である。「自然に覚えていく囲碁用語ですが改めて一つ一つの意味を考えると意外と曖昧に覚えていることもあるようです」まず言葉ありきという着眼に確かなものを感じる。「言葉の意味をすっきり分かるようになるということは碁が上達したことの証明でもあります」これはなにも囲碁だけに限らない。

015

 問題を解きながら用語の意味を確認していく講座である。基礎的事項の確認であるが私には新鮮で刺激的だった。提示された問題は適切であり、解説は簡潔で分かりやすい。初回から通して読みたいと考えて図書館に行った。別冊だから本体の裏表紙にセロテープで厳重に張り付けてある。ところが貸し出し可能な雑誌のうちの何冊かは付録が切り取られて無くなっている。図書館の係の方は私に肩をすぼめて見せた。どこかの囲碁愛好家が気に入って思わず切り取ったとものと思われる。井山祐太は最強の碁打ちであり、しかも優秀な伝道者でもある。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうにも止まらない!

2014年02月05日 | ねったぼのつぶやき

 多くの人がそうである様に、私の一日も朝食後の朝刊読みから始まる。余裕のある日は、引き続き読書をせんと常に図書館本を数冊用意してある。いずれも読みやすい本が殆どなのだが、期限内に返却を心しなければならない。最近加齢による白内障の気が出て、夕刻になると細かい活字は追いたくない。夜の読書は億劫で、夕刊も文芸欄の他はざっと見で終わる。

003 そんな風であったのに最近再度「ナンプレ」に凝りだした。それにばかりか「漢字ナンクロ」まで手を出してしまった。困ったことにこの漢字ナンクロは更に曲者で、双方ともやり出したら最後完成する迄止まらなくなってしまう。(経験者なら御理解頂けると思う) これら2つの闖入者は常に朝食を終えた時から私を誘惑してくる。日々私は戦いに負けそうになる。イヤ時に負けてしまっている。悔しいことに、ナンクロの活字は大きくて白内障ごときに負けてナンテいない。夜だってなんだってビクともしないのだ。という訳で私は全てを終えた夕食後もしばし取り組んでしまう。丸で格闘技よろしく全力投入してしまうといえば大仰だが、全くその通りのテイタラクなのだ。

 普段から寝付きのよくない身に、就寝直前までやったら・・結果は目に見えて明らかだ。どうにも困り果てたある夜、滞米中に娘のボーイフレンドから貰いおいた眠剤(体格差が大きいから1錠を 1/3~1/2分割)を1カケラ服用した。12時過に飲んでグッスリ眠りこけ、なんと9時過ぎに目覚めた。トイレに行きたくて我慢がならず起き出したのだ。他用のあった夫はそっと出て既におらず、急いで朝食をとって・・・10時半出勤の職場には間にあってホッ。図書館員さん曰く「期限内に返してくださいね」。けれども私はチットモ懲りてなんかイヤシナイ。夜はもう少し早めに切り上げればイイシ、図書本は数を減らせばイインダ!。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

*二つのなるほど

2014年02月03日 | 捨て猫の独り言

 駅前商店街にある個人経営のパン屋さん、写真屋さん、八百屋さんが昨年暮れから、つぎつぎと閉店した。それぞれの店主の顔が浮かんできてこちらまで悔しい思いにさせられる。とくに写真屋さんは私の息子と小学校での同窓生でもある。商店街のはずれには広大な空き地があり開発を待っている。高校の野球場があったところだ。つい先日に野球場跡の近くにある保存樹林の一角ではムクの大木が一夜のうちに伐採された。小鳥たちの貴重な餌場になっていた大木だった。玉川上水の緑道から向こうの住宅群が見えて味気ない風景に一変した。

 私の住んでいるところは小平市のはずれだ。すぐ南に国分寺市が隣接している。ある日のこと散歩コースを南の国分寺の区域に変えてみた。農道を通り五日市街道沿いに出ると新しく建て替えられた神社があり、さらにその南には砂川用水が流れていた。小平と同じで江戸時代の新田開発の名残りがあちこちにある。用水の傍には公民館と一体になった図書館があった。これまでには気付かなかった建物であり、こうして散歩することがなければ知りえなかった風景がある。この機会に昨年の11月から始まった「図書館の相互利用」の制度に私は登録した。ここは距離的にも近く小平とは休館の曜日も異なり、また本の揃えなども異なる様子なので新鮮な気分である。

 歌人の永田和宏の「作歌のヒント」を読んでいる。俳句と短歌の違いをつぎのように述べていた。「俳句は感情を交えず、動詞や助詞で言葉を続けるというよりは、切れ字の効果を最大限に生かしてものごとの鋭い切り口を示す」「短歌は助詞、助動詞の微妙な翳りや、動詞の力によって、日常の縁に生起する感情の繊細な切り口を私の感情として抒(の)べる」短歌でよく聞く「写生」についての永田の定義は「対象のもつさまざまの属性の中の、ある一点だけを抽出し、あとはすべてを表現の外に追い出してしまう暴力的な選択」となる。「念を入れない、駄目を押さないこと。この駄目を押したがために、せっかくの作者の意図が押しつけがましくなる」

 政治学者の姜尚中の「悩むこと生きること」を読んでいる。信濃毎日のコラム連載をまとめた本である。「<愛国心は卑怯者の最後の隠れ家である>18世紀英国の批評家サミュエル・ジョンソンの有名な警句だ。この数年、中国や韓国、日本を見渡して、この言葉ほど胸に突き刺さる警句はないのではないか」「夏目漱石は講演の中で<国家国家と騒ぎ廻るのは火事の起こらない先に火事装束をつけて窮屈な思いをしながら町内中を駈け歩くのと一般>であると指摘している。国家的道徳がいかに低級なのか知悉していた漱石の目には<徳義心の高い個人主義>にこそ重きを置くべきに違いなかった。至る所で愛国が肩で風を切って闊歩する現在、ジョンソンや漱石のひそみに倣いたいものだ」

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする