新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

一日がかりで運転免許を更新(その2)

2014-11-18 22:49:35 | タウンウオッチング

「一日がかりで運転免許を更新(その1)」の続きです。

さきたま古墳公園を目指して、ナビに頼ってクルマを走らせていた私の目に入ったのは、「吉見町」という地名でした。
吉見町に足を踏み入れる(クルマですが)のはこれが初めてで、何の土地鑑もありません。
ただ、「『吉見百穴』のあるという『吉見』か?と…。
この「吉見百穴」、私が初めて知ったのは「ケータイ国盗り合戦」のアイテムでして、ただ「崖にボコボコと穴が開いているらしい」程度の知見しかありません。
ちょいと心がさきたま古墳公園から吉見百穴に傾きつつあったとき、再び目に飛び込んできたのは、案内標識にあった「吉見百穴」4文字でした

これで決心しました。さきたま古墳公園ではなく吉見百穴に行ってみようと

ちなみに、私は「吉見百穴」「よしみひゃっけつ」と読むものだと思っていたのですが、この案内標識で「よしみひゃくあな」と読むことを知りました
ただし、Wikipediaによれば、「ひゃくあな」と読む(呼ぶ)のか「ひゃっけつ」と読むのか定まっていないそうで、ちょっと安心…

   

んでもって、カーナビで「吉見百穴」を検索して目的地に設定する余裕もないまま、案内標識に従うままに吉見百穴に到着しました。

この「吉見百穴」、その名のとおり、 穴ボコボコです。ほら

「斑点恐怖症」にとってはキツいかもしれませんが、もう1枚

 岩肌一面に四角い穴ボコボコと口を開いています。

何なんでしょ、これ

リーフレットを引用しましょう。

今から1300年前の古墳時代終末期の横穴墓群であり、文献によると江戸時代の中頃から「不思議な穴」として人々に興味を持たれていたようです。
明治20年、当時帝大(現東京大学)大学院生だった坪井正五郎博士が発掘調査を行い玉類・金属器・土器類など多数の遺物が出土しました。当初、坪井氏により、「百穴は先住民族の住居跡である」と言われていましたが、その後、日本各地で調査例・資料が増加しその結果、吉見百穴は古墳時代の横穴墓であることがわかりました。大正12年には国指定史跡となり現在219個の穴が数えられます。

だそうです。

には、人が立っても大丈夫なほどの大きなものもありますが、

ほとんどは、茶室のにじり口よりちょいと大きいくらいのものですし、こんな急斜面に開口部があるのでは出入りが大変で、とても日常生活に適したものとは思えません。

ところが、

坪井氏はこの横穴を土蜘蛛人(コロポックル人)の住居として作られたものであると発表しました。

なんだそうです(フライヤーより)。
「コロポックル」といえば、アイヌの昔話に出てくる「コビト」だと認識しているのですが、「土蜘蛛人(コロポックル人)」ですか…
想像力豊かなのは結構かと思いますが、それにしても、早計じゃありませんかねぇ
しかも、この発想に、どことなく「上から目線」を感じるのは私だけでしょうか?

現在では「古墳時代の横穴墓群」と解釈されている吉見百穴、まぢかに見ると、かなりシャープな造りになっています。

なかなかです。

そうそう、句碑がありました。

正岡子規の、

神の世は かくやありけん 冬籠(ふゆごもり)

という句の碑です。
子規吉見百穴を訪れたのは、今から123年前明治24年11のことだそうで、「土蜘蛛人(コロポックル)の住居跡」説有力だった頃なのかもしれませんな。

ちなみに、吉見百穴のごく近くに「松山城趾」があります。
もちろん、子規の故郷、伊予・松山城(訪問記はこちら)ではなく、武蔵・松山城の址です。

   

吉見百穴のある丘の頂上まで登ると(また登ってる)、遠くに富士山が見えました

吉見百穴にはまだまだ見どころがありまして、そのお話はまた後日

つづき:2014/11/19 一日がかりで運転免許を更新(その3)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一日がかりで運転免許を更新... | トップ | 一日がかりで運転免許を更新... »

コメントを投稿

タウンウオッチング」カテゴリの最新記事