新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-5

2022-05-02 22:38:09 | 旅行記

「1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-4」のつづき、というか番外編です。

旭川駅前から旭川市彫刻美術館最寄りの春光園前に向かうバスは、ほぼ長方形の陸上自衛隊旭川駐屯地南西側と北西側の2辺を通るのですが、広い
東京と埼玉にまたがる朝霞駐屯地&朝霞訓練場もかなり広いのですが、こちらも広い

旭川市中央部航空写真だとこんな具合。

下端のほぼ中央部に旭川駅があって、その北の長方形部分(ほぼ東西に滑走路がある)旭川駐屯地、その北の角から3ブロックくらい北東にある緑地旭川市彫刻美術館(旧旭川偕行社)の向かいにある春光園です。

日本陸軍の関連施設だった旭川偕行社現旭川駐屯地からちょいと離れてるんだ…と思っていたのですが、旭川のお寺さん・東川寺のHPで見つけた古い地図を見て驚きました

現在の旭川駐屯地は「練兵場」で、第七師団の兵舎を初めとする施設はその北東側北西側に広がっていて、旭川偕行社はほぼ「地続き」だったんですな

現在の旭川の航空写真を、上の古地図に合わせて切り出すとこうなります。

また、古地図にみえる「鉄道」の廃線跡も航空写真でとらえることができます。

現在の旭川運輸支局の辺りで師団敷地外に出て南西方向に進み、やがて右カーブして、近文駅函館本線に合流するルートです。
旭川運輸支局の向かいにあったらしい貨物駅・旭川大町駅についてのWikipediaの記載によると、

当初この路線は、1899年(明治32年)日本陸軍第7師団兵営地建設と運用のための引込線として建設された。師団専用線、または師団の置かれた鷹栖村から鷹栖専用線と呼ばれたこの引込線は、その後、大正年間から周囲に多くの木工場や道立林業指導所が設置されて、軍用よりもその木材貨物専用線としての性格が既に大きくなっていたが、1950年(昭和25年)になって師団跡地手前までの2.9kmが残されて当駅が新設され、石炭や木材資源等の貨物支線として利用されるようになった。 その後、貨物駅の北旭川駅の整備が進められていること、当駅が主に扱っていた石炭や木材の需要が減少した事等により、昭和53年10月2日の白紙ダイヤ改正の貨物駅集約による削減対象となって廃止された。

だそうです。
師団敷地内から鉄道札幌や小樽へダイレクトに移動できるというのは、この時代の陸軍にとっては重要だったのでしょう。

旭川にとって日本陸軍第七師団の存在はかなり大きかったらしく、そのことは、旭川市の人口推移からうかがえます。(グラフはこちらのサイトから借用)

旭川市の人口は、明治33(1900)年の8,729人からわずか5年後明治38(1905)年には21,959人へと2.5倍急増しています。
第七師団が旭川で師団本部の建設を開始したのが1899年6月で、司令部ほかが新庁舎に移転したのが1901年10月だそうで、異常値のような人口急増は、第七師団札幌から旭川への移転が原因だと考えるのが自然でしょう。

また、この前夜、「MISIA星空のライヴ」後にプチ飲みをした歩行者専用道としてはあまりに道幅が広すぎる『買物公園』は、もとは普通の道路で、公式サイトによると、

駅から旭橋に至るメインストリートは、戦前「師団通」という名称が付けられていました。その後、第二次大戦の敗戦により第七師団は解体、通りの名称・呼称も「平和通」と改められたのです。 (※現在は第七師団解体後、同地に陸上自衛隊北部方面隊第2師団が置かれています)
1960年代以降のいわゆる交通戦争の影響が旭川においても大きく、メインストリートであった平和通においても交通事故が多発しました。 このことから当時の五十嵐広三市長により、歩行者専用道路を旭川においても導入しようと取 組が始まられました。当初は難色を示していた道警との折衝も、数度の試験的な歩行者専用道路の実施を経て、1972年に日本初の恒久的 歩行者専用道路を開設。その際に通りの名称を「平和通買物公園」と改められて、現在に至ります。 

だそうです。

街のメインストリートが「師団通」だというのですから、相当なものです。
その通りの突き当たりが「師団」ならまだしも、「師団」かなり離れているのですから。
旭川の街「第七師団」との関わりの深さが感じられるネーミングだと思います。

   

どうして、この「番外編」を書いたのかといいますと、旭川市彫刻美術館の向かい側にある公園、春光園に立っていた説明板がきっかけです。

この冒頭に書かれている、

春光園は、旧旭川偕行社(現:旭川市彫刻美術館)の前庭として整備されたことが始まりです。春光園の入口が偕行社の正門となっていました。

という事実、そして、「偕行社周辺配置図 (昭和11年)」という平面図では、

春光園旧旭川偕行社だけでなく、現在は井上靖記念館が立っている付近も含めて、このブロック全体旭川偕行社関連施設が建ち並んでいるらしいことが推察されたからでした。

そうであったとすれば、かつての「第七師団」の敷地はどれだけだったのだろうか? と関心を持ったわけです。

ところで、「偕行社周辺配置図(昭和11年)」という資料(防衛省防衛研究所所蔵)のタイトルが、「旭川行在所配置圖」だとお気づきでしょうか?

この話と、「#2-2」で書いた、昭和初期旭川偕行社の2階ベランダが、現在の旭川市彫刻美術館(旧旭川偕行社)と違って、ガラス窓で覆われていた話は、「#2-6」で書きます。

つづき:2022/05/13 1年半ぶりの旭川⇒札幌旅行 #2-6 

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