「首里城リターンズ(その3)」のつづき。
去年のGWの沖縄旅行の時にも感じたことですが(例えばこちら)、沖縄の城(ぐすく)は日本の城(しろ)と随分と感じが違います。
こんな曲線、日本の城では見たことがありません。
似ていると評判の明治(旧:明治製菓)とムヒ(池田模範堂)のロゴに例えれば、
明治の「m」に近いかな… って、ムヒの「m」ははね上がる方向が逆か…
それはともかくも、城壁の連なりのラインも独特です。
そして、こんな看板も沖縄ならでは
さて、今回、私は、案内図の「城壁ルート」を、龍潭通りへと下って(戻って)いきました。
案内図の矢印は、「城壁外ルート」と共に、ゆいレールの首里駅から首里城公園の有料エリアの入口になる歓会門へのルートなんですな。
こうして考えると、首里駅を起点として首里城正殿などを見学・見物する場合のルートのオフィシャルなお薦めは、
首里駅⇒城壁ルート/城壁外ルート⇒歓会門⇒首里城正殿など有料エリア⇒久慶門⇒第52軍司令部壕坑口⇒弁財天堂⇒円覚寺跡⇒龍潭通り⇒首里駅
となるのでしょうか?
でも、このルートだと、歓会門からほど近い守礼門はともかくも、(絶対に見落とすべきでないと思う)玉陵(たまうどぅん)がルートから外れてしまうか、玉陵まで足を伸ばせば一部同じルートを往復せざるを得なくなってします。
まさに、私が1年半前の前回の首里城探訪と別のルートをとったのは、こんな事情があります。
というわけで、一筆書きで廻るにはちぃと難しい首里城周辺であります。
今回の首里城探索の最後は「上の毛」、上野毛ではなく、「いーぬもう」の展望台。
四阿では先客が寝ていましたので、仕方なくペットボトルのさんぴん茶を飲みながらウロウロとしておりました。
と、下界から歌声が聞こえてきました。男性のグループが斉唱しているようで、いったい何事だろう と耳を澄ましてみると、彼らが歌っているのは早稲田大学の応援歌「紺碧の空」(らしい)
どうして首里の街を「紺碧の空」をがなり立てながら練り歩いている?
早稲田大のサークルか何かが沖縄合宿に来ているのでしょうか?
それにしても、首里の街で「紺碧の空」なんぞ聞きたくはありません
なんとも邪魔な音でした
上の四阿近くにあった案内板です。
アカス森(アカスムイ)
首里城から東に伸びる「上の毛(イーヌモー)」付近にあった御嶽(うたき)。神名は「アカス森ノ御イべ」という。琉球王国時代には国王自ら参詣して祭祀が行われたほか、当蔵村の拝所として村人の信仰の対象であった。今でも人々の拝みの場となっています。旧暦9月8日「重陽の日」には、当蔵街自治会によって健康や繁栄を拝まれています。なお、トイレ手前の細い道を下ると首里の細道の雰囲気が感じることができる。
とのこと。あまり上手じゃない文章ですが、意味が判るから良いでしょ
「トイレ手前の細い道を下ると首里の細道の雰囲気が感じることができる」と書かれているからには、この「細い道」を通らない手はありません
さっそく、トイレまでちょっと戻り、
「細い道」を下りました。
ということで、龍潭通りに戻ってきました。
「上の毛」の麓に石碑が立っています。
案内板によれば、「国王頌徳碑」というものだそうで、
琉球王国時代の1543年(嘉靖22)に建立された石碑である。碑文の内容は首里城から、古来より崇拝される弁ヶ嶽(後に久高島・斎場御嶽の遙拝所として整備される。那覇市内最高所。標高165m)への道を石畳道にし、周辺に松樹を植えるなと参道を整備した国王尚清の徳を讃えたもので、表は平仮名文、裏は漢文で刻まれている。
どれどれ、、表は平仮名文で、
裏は漢文と…。
確かに。
もう一度説明板に戻ると、
1945年(昭和20)の沖縄戦で石碑は破壊されたが、碑の一部が沖縄県立博物館に残されている。本碑は碑の一部や建立年の近い石碑を参考にし、石碑建立地に近接する現在地に新たに復元したものである。
だそうで、首里城一帯がどれだけ沖縄戦で破壊し尽くされたのか、またまた感じ入ってしまいました。
守礼門も玉陵も首里城正殿もパスした今回のルートは、団体観光旅行ではまずあり得ないルートでしょう。実際、あちこちで見かける観光客はホント、少なかった。
でも、去年は守礼門、玉陵、首里城正殿を含む「定番観光」を済ましているわけで、1年半かけて、首里城に「裏を返した」気がします。
時間にして約1時間、濃厚かつ好奇心を存分に満たしてくれる散策でした。しかも、交通費以外、お金を使っていませんし…
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