ふとこのブログを振り返ると、積み残しや書きかけのネタがたまっています。
例えば、昨年のゴールデンウィークの南九州旅行記はこちらの記事を最後に、最終日の鹿児島市内での見聞に触れずじまいですし、最近では五浦に出かけた話(こちらの記事)とか、東京国立博物館(東博)での特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」と東京藝術大学大学美術館での「近代洋画の開拓者 高橋由一」の感想とかが書きかけ/積み残しになっています。
でも、いまさら律儀に感想を書こうとしても、これだけ時間が経ってしまえば、印象が薄れ気味なもんで、備忘録的に五浦の探訪記だけを書いておきます。
正直、五浦があれほど遠いとは思いませんでした
なんてったって「東北」がすぐ目の前
上の写真は茨城県天心記念五浦美術館からの眺めで、中央からちょい左に見える煙突はいわき市にある常磐共同火力の勿来発電所のもの。
ホントに好天に恵まれて、常磐の海がキレイでした。
でも、元気な波が海岸に押し寄せていて、まさしく「天気晴朗なれど波高し」
さて、私、「岡倉天心」という方について良く存じ上げなくて、家にある百科事典に載っていたこの肖像画が天心のイメージとして強く脳裏に刻まれていました。
この肖像画は下村観山による「天心岡倉先生(草稿)」。
くゆらしている煙草が紙巻き煙草でなければ、昔の中国の哲人か詩人のように見えますナ。
外見はともかくとして、天心の業績としては、明治初期にフェノロサと共に日本美術の保存・復興に尽力したとか、「茶の本」を英文で著して日本文化を海外に紹介したとか、そんな漠然としたことしか知りませんでした。
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そんな私にとって、茨城県天心記念五浦美術館の岡倉天心記念室の展示や「天心遺跡」は非常に勉強になりました
まず(恥ずかしながら)初めて知ったのは、天心は今で言うところの「文科省のキャリア官僚」だったということ。
茨城県天心記念五浦美術館のHPの記述が端的です。
岡倉天心(1863-1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。
展示されていた年譜を見ると、時代が時代だけに、今では考えられないスピードでキャリアを積み重ねています。
簡単に略歴を年齢と共に記しますと、
1863年 (0歳) 横浜に生まれる
1873年 (10歳) 東京外国語学校に入学
1875年 (12歳) 東京開成学校(東京大学の前身)に入学
1880年 (17歳) 東京大学文学部を卒業、文部省に就職
1881年 (18歳) フェノロサの通訳として日本美術の調査に参加
1882年 (19歳) 専修学校(専修大学の前身)の教官に就任
1887年 (24歳) 東京美術学校(東京藝術大学の前身)の幹事に就任
1890年 (27歳) 東京美術学校の校長に就任
1898年 (35歳) 排斥され東京美術学校校長・帝国博物館美術部長を辞職
〃 〃 日本美術院を創設
1903年 (40歳) 五浦に土地・家屋を購入
1904年 (41歳) ボストン美術館 中国・日本美術部に招聘
1906年 (43歳) 五浦に六角堂を新築
1910年 (47歳) ボストン美術館 中国・日本美術部長に就任
1913年 (50歳) 静養先の新潟県赤倉で逝去
17歳で大学を卒業して、27歳で東京美術学校の校長だなんて…
それでも、急速な西洋化の波の中で、闇雲な西洋文化崇拝と日本文化の軽視・廃棄の流れに抗した天心の業績は、流出した日本の美術品の受け皿の一つになったボストン美術館での仕事とも合わせて、なんとも偉大なことだと思います。
また、天心が創設した日本美術院が、院展を主催している日本美術院と、古文化財(彫刻および大型工芸品)の保存・修理を行う美術院 国宝修理所として現在に至っているということもまた、天心の偉業の一つでしょう。
さて、五浦を訪れた私は茨城県天心記念五浦美術館で岡倉天心記念室を興味深く観て、さらに開催中だった特別展「佐藤美術館コレクション 花鳥風月-四季によせる想い」でバラエティ豊かな佐藤美術館の日本画コレクションを堪能したあと、「天心遺跡」を散策しました。
まず、「閉鎖中」という日本美術院研究所跡地。
ここは、なんともうらぶれた「立入禁止」の表示が地面に這いつくばっていました。
さらに、断崖に押し寄せる波濤の轟きを耳にしながら進めます。
それにしても、押し寄せる波って、見始めると見飽きないものです。
波に見入る時間を除き、徒歩5分ほどで、到着しました
旧天心邸や六角堂、展示室天心記念館などからなる茨城大学五浦美術文化研究所です
って、この「天心遺跡」が茨城大学の所有になっていることはこの時まで知りませんでした。
茨城大学五浦美術文化研究所のHPによれば、
茨城大学五浦美術文化研究所は、1955(昭和30)年に設立されました。天心偉蹟顕彰会の会長横山大観から、天心遺跡(旧天心邸・六角堂・長屋門)の寄贈の申し出を受けてのことでした。1913年の天心の没後、遺族の住まいだったのですが、1942(昭和17)年、天心偉蹟顕彰会が遺族から管理を引き継いでいたのです。
という経緯がある由。
なぜ天心ゆかりの東京藝大や東博ではなく茨城大学?
緒方洪庵の適塾跡を大阪大学が管理している(こちらの記事をご参照方)のは自然な話ですが、なぜに茨城大学???と思ったものの、考えてみれば、天心は石持て追われるがごとく東京美術学校校長・帝国博物館美術部長を辞したわけで、天心偉績顕彰会の横山会長にしてみれば、「天心遺跡の維持管理を東京芸大や東博に託すのは、絶対にヤダ」という気持ちだったのでしょう。
そして、その判断は正解だったようです。
と断言するのは、たまたま入場無料だったからではなく、実際に現地に行ってみれば、しっかりと管理されていることがよく判りますし、なによりも3・11の津波で流出してしまった六角堂の再建にかけた本気度で、茨城大学の思いがひしひしと伝わってきます
と、ちょっと長くなりましたので、ここで一息入れます。
つづき:2012/08/17 積み残しから備忘録的に五浦のことを書いておこう(その2)
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