新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

半年前の信州旅行記(その44)茅野編 14

2016-04-12 23:36:04 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「半年前の信州旅行記(その43)茅野編 13」のつづきも、尖石縄文考古館のお話です。

この博物館の名前、とがりいしじょうもんこうこかん」と読みます。
「尖石(とがりいし)」とは、なんともいわくありげな名前ですが、まさにそのとおりで、尖石遺跡の隣にあります。

33か所の住居址、50余か所の炉址などが発掘され、なお相当数の住居址が地下に眠っていると考えられています。

という遺跡で、その名の由来なったというのが、こちらです。

かなり劣化かつ汚れていて読みづらい説明板を転記しますと、

この石は、高さ1.1m、根本の幅1mで、先端のとがっていることから「とがりいしさま」と呼ばれています。古くから村人の信仰の対象とされたものらしく、いつ頃からか傍らに石のほこらが祀られました。遺跡の名前もこの石の形からつけられたものです。
この一帯は、明治25年頃桑畑にするために開墾され、その時、見慣れない土器や石器が大量に出土しましたが、祟りを恐れて捨ててしまったといわれています。また、この土器や石器は、大昔ここに住んでいた長者の遺したものであろうと、長者屋敷と呼びならわしていました。
そして、この「とがり石」の下には宝物がかくされているとの言い伝えから、ある時こっそり村人が掘ったところ、その夜○○○○○(判読不能)おこり(熱病)にかかって死んでしまったとのことです。この石を神聖視する信仰から生じた言い伝えでしょう。
石質は八ヶ岳の噴出岩の安山岩で、地中に埋まっている深さは不明です。右肩の樋状の凹みは磨り痕から人工のものと思われます。縄文時代に磨製石斧を製作した際に、共同砥石に使用されたものとも、また縄文時代は石を重要な利器としたところから、地中から突き出したこの石を祭祀の対象としたものであろうともいわれています。

だとか。

この説明板だけでなく、こちらの説明板日に焼けてちょっと… な状況でした。

茅野市にはがんばっていただきたいものです

   

上に載せた不明瞭な案内図によれば、尖石縄文考古館の北側に「与助尾根遺跡」があります。
そして、Wikipedia「尖石遺跡」を調べると、「尖石・与助尾根遺跡」がヒットして、

南側の尖石遺跡は戦前から発掘されてきた縄文時代を代表する遺跡の1つとして知られているが、現在では同遺跡と浅い沢1つ隔てた北側の台地上にある与助尾根遺跡と一括して扱われることが多い。

とあります。

この与助尾根遺跡は、住居址復元されていまして、こんな風になっていました。

昔、日本史の教科書で見たような、竪穴式住居が点々と立っていました。

ふと、思いました。

この「竪穴式住居」のイメージそのものの佇まいって、萱葺屋根の古民家屋根だけの姿っぽい…。

上の写真は、江戸東京たてもの園で観た江戸後期の建物「八王子千人同心組頭の家」なんですけれど、この建物から屋根を取り外して芝生の上にポンと置いたら、「竪穴式住居」に見えませんか?

先史時代竪穴式住居って、ホントにこんな形だったのかなぁ~疑心暗鬼になったりして…。

   

ところで、尖石縄文考古館至宝 というか、茅野市至宝 というか、長野県至宝というか、日本至宝 (くどい)の国宝土偶 2体はどこから出土したのでしょうか?

「縄文のビーナス」の出土地は棚畑遺跡「仮面の女神」のそれは中ッ原遺跡だそうで、地図にプロットしますと(画像を加工していますので、ポイントの大きさが合ってない)、

こんな感じで、今、国宝土偶2体が保存・展示されている尖石縄文考古館からは共に北西方向にあります。

次回、茅野界隈に出かけるときには、この二つの遺跡行ってみねば と心に誓っております。

つづき:2016/04/13 半年前の信州旅行記(その45)茅野編 15

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 半年前の信州旅行記(その43... | トップ | 半年前の信州旅行記(その45... »

コメントを投稿

旅行記/美術館・博物館・アート」カテゴリの最新記事