今年7月の関西旅行の旅行記が終わらないままに、次の関西旅行まで終わってしまったもので、ちょいと慌てて「2週連続遠征、まずは関西遠征記(その14)」のつづき、最終回を書きます。
やって来ました、大徳寺 私にとっては、高校の修学旅行以来、うん十年ぶり 2回目の訪問です。
勅使門は、私がイマイチだと思っている唐破風で、ここもやはりイマイチ
お次は、私が高校生だった時に撮った写真が実家のアルバムにも残っている三門
「大徳寺の三門」とくれば、頭に浮かぶのは、やはり千利休と豊臣秀吉との確執です。
「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」と秀吉が難癖をつけた、というお話があります。
直接的には、これが利休切腹の理由になったかもしれませんが、このことだけで秀吉が利休に切腹を命じたとは考えづらい・・・
豊臣家滅亡のきっかけとされる「方広寺鐘銘事件」と同様、ただの口実で、大徳寺三門の一件がなかったとしても、秀吉は利休を排除したかったのだろうなと思います。
大徳寺といえば、三門と並んで有名なのが大仙院の枯山水だと思うのですが、こちらが今回の私のお目当てでした。
が、大仙院に向かう途中、「拝観謝絶」という札を掲げた三玄院の前で、こんな石柱を見かけました。
へぇ~~ です。
三玄院前に京都市が立てた説明板によれば、こちらの塔頭は、
天正17年(1589) 浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)・春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
のだそうです。
ちなみに、先日の高野山探訪で、石田三成の供養塔を拝見しましたです。
話が時間を前後してしまいました
で、大仙院に到着。
大仙院内は撮影禁止ですので、写真はありませんので、そこんところはご容赦を
超久しぶりの大仙院の枯山水は、うん十年の感想と同様、やはりこぢんまりとしていました。
でも、あれほど狭い空間の中に、自然が、世界が、さらには宇宙が閉じこめられているというのは、ちょっと信じがたい密度の高さで、煩悩の塊ともいえる私にとっては、息苦しくなるほどでした。
こんな私にも、ガイドしてくださる方がついてくださいまして、非常にありがたかったのですが、、、、時間に追われていた私としましては、自分なりにあの空間を体験する余裕がなくなってしまったことがちょいと残念・・・
この日、尾関宗園閑栖(かんせい≒ご隠居)がお出ましになられていらっしゃいまして、拝観券代わりのリーフレットに、揮毫いただきました
一生の宝物かも・・・(私の名前はベルで隠しました)
閑栖のお言葉、
気は長く、心は丸く、腹立てず、人は大きく、己は小さく
もいいですなぁ~
こうして、うん十年ぶりの(くどい?)大仙院探訪を終えた私は、大徳寺から京都駅へと向かったわけでございます。
そのある意味痛恨の大徳寺⇒京都駅の移動は、当日のダイジェストに書いたとおりです。
それにしても、京都って見どころがめちゃくちゃ多い
さすがは千年を超える都です。
ということで、ようやく今年7月の関西旅行記は完結
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