新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

肌寒かった関西旅行記(その22・京都編⑨)

2013-08-12 23:54:25 | 旅行記

「肌寒かった関西旅行記(その21・京都編⑧)」のつづきは仁和寺からお送りします。


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二王門を入ると、気分が晴れ晴れするような空間が広がっていました
この眺めを目にすることができただけでも仁和寺に来た甲斐があったような気がするほど、心が洗われました



   



私の仁和寺に関する予備知識は、徒然草「第52段 仁和寺にある法師」「第53段 これもまた仁和寺の法師」しかなかったもので、二王門を入ってすぐ左手に「御殿」があるのにちょいとビックリ
その「御殿」というのが、お寺というよりも、貴族の邸宅っつうか、なんというか、やはり「御殿」の雰囲気(去年のNHK大河ドラマ「平清盛」を思い出しました)。



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中心部にある「宸殿」の前庭には、左近桜右近橘が植えられていて、御所紫宸殿の風情です。



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これというのも、仁和寺のHPによるとこの「宸殿」は、



儀式や式典に使用される御殿の中心建物で、寛永年間に御所から下賜された常御殿がその役割を果たしていましたが、明治20年(1887年)に焼失。現在は大正3年(1914年)竣工されたもの。御所の紫宸殿と同様に檜皮葺、入母屋造。内部は三室からなり、襖絵や壁などの絵は全て原在泉(1849~1916)の手によるもので、四季の風物をはじめ、牡丹・雁などが見事に描かれています。


だとか。



ちなみに、仁和寺の金堂は、



慶長年間造営の御所 内裏紫宸殿を寛永年間(1624~43)に移築したものです。現存する最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝えるの建築物として、国宝に指定されています。



という由緒正しき建物で、



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現在の京都御所の紫宸殿は幕末の安政2年(1855年)に再建されたものだそうですから、それより200年以上前の姿ということになります。
檜皮葺から瓦葺きに変更されたとのことで、檜皮葺に頭の中で VR変換すると、往時の紫宸殿が浮かび上がるはず…  なんですが、写真で見たことがない現在の紫宸殿に比べると、なんとなくこぢんまりしているような気がしますけれど、実際はどうなんでしょうか?


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金堂の隣りにある経蔵が、また面白かった



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「経蔵」というのは、その名のとおり、お経の保存庫でして、



寛永~正保年間の建立。宝形造、本瓦葺。正面に両開きの板唐戸、左右に花頭窓を付け、禅宗様で統一されます。
内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置し、壁面には八大菩薩や十六羅漢が描かれます。
内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱が備えられており、その中には天海版の『一切経』が収められています。



という説明がなされています。
写真はありませんが(内部は撮影禁止)、「八面体の回転式書架」なるものをしっかりと拝見させていただきました。
ミュージアムショップやお土産物屋さんで絵はがきを陳列する回転式のラックを見かけますが、あれが運動会で使うテントだとすると、こちらはお屋敷くらいに立派な「回転式のラック」でした



あ、そうだ
御殿がステキでした



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そして、青もみじがキレイ



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せっかくの帰省中ですから、高校生のときに「古文」の副読本としてつかった徒然草評釈本で、「第52段 仁和寺にある法師」「第53段 これもまた仁和寺の法師」を読んでみました。
すると、かなり気になる記述を発見



「徒然草」には、仁和寺関係の法師の滑稽談が三つあって。どれも有名である。この話(第52段)と、第53段・54段である。兼好は仁和寺の院家(いげ)の一つ、真乗院とは関係が深かったようで、自然にこういう話を耳に入れたのであろう。もちろんこの話は人聞きの話である。助動詞の「けり」が使われているのでわかろう。



ですって
「第54段」ってどんな話? と、この本のページを繰ってみたのですが、、、載ってない…
「どれも有名である」って書いているのに…



現代にインターネットなる至極便利なものがありますので、すぐに「第54段」を見つけることができました。



御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情の物にしたゝめ入れて、双の岡の便よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそゝのかし出でにけり。
うれしと思ひて、こゝ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困じにたれ」、「あはれ、紅葉を焼かん人もがな」、「験あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木の下に向きて、数珠おし摩り、印ことことしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋みける人を見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくゝいさかひ、腹立ちて帰りにけり。
あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。



というのが原文です。  



かわいい稚児と遊びたいと思った仁和寺の坊さんたち、稚児に知られぬようにこっそりと雙ヶ岡のとある場所に弁当を埋めて、「超能力を使って地中から弁当を掘り出してご覧に入れよう」と、稚児ちゃんをビックリさせようという趣向だったようですが、稚児ちゃんと遊び回るうちに、その様子を見ていた誰かが弁当を掘り出して持っていってしまったらしく、結局、弁当を掘り出すことができなかったという、これまたおバカな話です。



天皇家と縁の深い仁和寺、そんな由緒正しきお寺の坊さんが、アホなことをしている、、といったところが、徒然草での「仁和寺シリーズ」のおかしさなのだろうと思うのであります。



でも、現在の仁和寺が、徒然草に3編も採り上げられたこと完全無視 というのは、やはり現代の「仁和寺の法師」面白く思っていないからなのかもしれません



【追記】ひとつ書き漏らしていました。



金堂の屋根瓦の上に人の像が立っていたのです。



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この建物が紫宸殿だった頃は檜皮葺だったそうですから、仁和寺に移築された際に取り付けられたのでしょう。



仁和寺のHPによりますと、この(頭だけ写っています)に乗った人の像は、



黄石公(こうせきこう)という仙人です。
亀は3000~4000年に一度、水面に顔出すといわれ、黄石公はその亀を3~4回見たそうです。
永遠の象徴として安置されています。



だそうです。



「旅行記その19」で書いた二条城の瓦といい、瓦ウオッチングも楽しいものです。



(2013/08/13 07:44)



コメント (2)
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